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第5話

 その悲鳴だけで、楠葉は振り向くのが恐ろしかった。

 見てしまってはいけないものを見ることになるのではないかと言う予感が走る。

 だが、脳内で「見ろ、振り向け」という苦埜の力強い命令の言葉に逆らえず、楠葉の身体は勝手に振り向いてしまっていた。


「いや……痛い……やめて、苦埜」

「フフ、愛しい私の妻よ。もっと泣くがいい。私はその声を聞きながらそなたに子種を植え付けるのが一番の幸せだ。さぁ、今度はどんな子が生まれるのだろうか。甘いだろうか、それともしょっぱいだろうか?そして私に与えてくれる力は果たしてどんなものであろうか?ああ、楽しみでたまらない。さぁ、妻よ、私に悲鳴を聞かせるためにもっともっと長く愛し合おう」

「うう、ああ、うううっ」


 開けた着物。

 激しく波打つ銀髪。

 白髪の苦埜に組み敷かれる葛。

 乱れる藁の寝床。


 何が行われているか、しかと見なくともわかってしまう。

 ただ人間が行うそれと違うのは、葛が時折首を締められたり、足を上げられ血が出るほど爪を立てられたりしていたことだ。

 汗1つかかない苦埜の変わりに飛び散る雫は、葛の血と、涙。

 これ以上は見ていられず楠葉はぎゅっと目を閉じ耳を塞ぐが、苦埜の力によって声は脳裏で響き続けていた。


「ああ、ここが痛いのだな。ならば爪でえぐってしまうのもよかろうか」

「うう、あああ!」

「ああ、いい悲鳴だ。そなたの血は本当にうまい。お前の血が私の力にならぬのが惜しいな。だからこそ、強い子を産み早く私に食わせろ。次の赤子が生まれるのが楽しみだ。ほら、そろそろ種は植えられただろう。それでは芽吹かせよう」

「痛い、痛い、いや!いやああ!くる、しぃ……っ」

「ハッハッハ!どうして子を産むときは美しいお前でもこれほど醜く腹が膨れるのだろうな?これを見るのは何度見ても飽きぬ。さて、子が死なぬよう腹から出さねばならぬな。いやはや、何度も切っているのにも関わらず、やはり同じ九尾であれば回復力が早い。それがお前の良い所だ。張ったこの綺麗な腹をゆっくりと裂いて子を取り出す喜びを何度も私に味わわせてくれる。本当に私を飽きさせない天才と言えるだろう。さぁ、今日は真ん中から行こうか」

「うっ、いっ、く……」


 突如、葛の悲鳴が途切れ、赤子の産声が聞こえた。

 こんな一瞬で赤子が出来てしまうのが妖怪なのかと恐ろしさと常識外れすぎる状況に、楠葉は思わず目を開けてしまった。

 そして後悔する。

 血だまりの中、卒倒している葛。

 そのうえで、血まみれの塊を両手で大事そうに抱え、八重歯を嬉しそうにぎらつかせる苦埜。

 そんな衝撃的な光景を見て、楠葉は全く動けなくなってしまい、一体どういう状況なのかさっぱりとわからぬまま2人を凝視してしまっていた。


「ふむ、泣き声は立派だが力は弱そうだ。まぁそこらへんの妖怪よりは質のいい魔力を持っているのは間違いないからよしとしよう。ではご苦労だった葛。次は一週間後だ。それまでにしかと体を回復させよ。私は食事の時間を堪能する」


 苦埜は機嫌よくそう言うとその場を立ち上がり、暗闇の中に去っていった。

 取り残された葛は、薄っすらと目を開けた。

 その赤い瞳が楠葉と交差する。


「また……一度も、手に、できないのね」


 そう呟き、涙をこめかみに伝わせながら目を閉じる葛。

 その姿を見て、楠葉は葛の歌を思い出していた。



『いくつもの愛しいを手放した私には

 もう何が本当の愛なのかわからぬ』



 それが何を意味するのか、今の光景だけで十分理解できた。


「こんなこと……」


 あんまりだ。

 その言葉を口にする前に、楠葉は元の場所に戻されていた。

 そこには白髪ではない、全てが黒く瞳だけが紫の苦埜がにんまりと満足そうに笑んで楠葉を見据えていた。


「そうだ、私はその表情を待っていた。何度も見ると人は心が壊れるというからな。今日はこの辺にしておこう。壊れてしまうと人形となってしまう。それでは困る。私は感情のある者をちゃんと愛したいのだ。さぁ、お前も今日は疲れただろう。その寝床でしっかり休め。そしてまた明日、しかとクスコの過去を見るがいい。私と愛し合っている姿を堪能して、また素晴らしい表情を見せておくれ。そして、私との愛し方をその脳裏に刻むのだ」


 上機嫌にそう告げた苦埜は、楽しそうな笑みを浮かべたまま立ち上がると背を向け立ち去っていく。

 黒い檻の中、一人取り残された楠葉は全身が震えるのを抑えることも出来ず、呆然と辺りを見渡した。

 葛がいた場所とは違い、ここはひたすらに、黒、黒、黒。

 檻の中ではあるが、その檻自体がまた別の空間に入れ込まれているような、そう思わされるような空間は、時間の感覚もわからないほどに冷たさや暖かさという季節につきものの香りや温度の何もかもを感じなかった。

 ひたすらに、無であり黒であるその空間に、楠葉は1人取り残されていたのだ。


 それは、まるで


「籠の中……」


 早く脱出したい。


(どうにかして、脱出方法を見つけなきゃ……)


 けれど、様々なもの見て聞いてしまった楠葉の脳はとうにキャパを超えており、もう何も考えられない状態へと陥るほどに疲弊しきっていた。


「帰りたい……」


 ただ望むのはそれだけなのに、そのたった一つの望みが一番叶わないのではないかという絶望感を周りの黒さが与えてくる。

 楠葉はぎゅっと全身を抱きしめ、その場で蹲った。

 本当は寝ている場合ではなかったのだが、楠葉は妖怪ではなくただの人間だ。

 経験したことのない異常な状況の連続に、心身ともに疲弊しきっている楠葉は自分の体を抱きかかえたままその場に倒れこみ、気絶するように眠ってしまった。



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