「アンリエッタ・マーズ・グリモワールを国家反逆罪により、魔国カオスローディアへの追放の刑に処す」
民が広場を囲む先、遠くから王子とソルファ卿がわたしを見ている様子に気づいた。わたしの視線に気づいたのか、声は出さずして王子の口元だけがゆっくり動く。
『ぼくはかんだいだろ? しなずにすんでよかったね』
口の動きは確かにそう言っていた。震える両手から怒りが溢れそうになるのを押さえ、わたしは兵士に連れられその場を後にする。お姉さま、真実を伝える事が出来ずにごめんなさい。もし、わたしが生き延びたなら、王子の魔の手からお姉さまを必ず救ってみせます。それまでお姉さまも生きて下さい。
わたし、アンリエッタはこうして魔国へと追放される事となる。
――
◆
一体どれくらい揺られていただろう? 足枷をつけたまま布地一枚の服で荷馬車へと乗せられ、外の景色が見えないままの長距離移動。荷馬車を覆った布の隙間から僅かに見える星空と日光が、日数の経過を知らせてくれた。魔法を扱える者ならば、魔力を資源とし、風の精霊の力を借りて移動する三輪の魔導車があるが、罪人にそんなものは用意されている筈もない。夜は隙間からの風が寒いので、荷馬車の端に積まれた藁を布団にし、眠る。
食事は中継地点で荷馬車へ放り込まれるパンと芋煮のみ。だが、食事よりも何よりも、監視がある中、森の中で用を足す事がただただ惨めで嫌悪だった。
恐らくわたしは、魔国カオスローディアの奴隷市場で売られるのだろう。一般的に魔力を持つ者は居るが、女神さまの〝加護〟の力を扱える者は少ない。その中でも、人々の傷を癒す〝治癒〟の力は神職の者ならば扱える者が存在するのだが、特に〝豊穣〟や〝浄化〟の力は民に崇められる奇蹟の力とされている。グリモワール王国の王子のような欲深い人間に飼われない事を祈るしかなかったが、悪い噂しかない魔国へ追放された以上、わたしにはもう、
「おい、着いたぞ。降りろ」
グリモワール王国追放から恐らく十日程たった頃、外から声を掛けられた。ようやく足枷を外され、虚ろな眼で荷馬車から降りると、巨大な漆黒の城がわたしを出迎えていた。本で見た事がある。山の中腹に位置する魔国の居城は、悪魔の瞳で城下を見下ろし、いざ戦争となれば難攻不落の城と言われているのだと。
グリモワールの兵が何やら入口の門兵と二、三会話し、やがて巨大な漆黒の扉が開く。
両端に出迎えた石像は、三つの頭がある犬を象っている。これは確か、地獄の番犬と言われる悪魔ケルベロスだ。
――空気が重たい。
青空はなく、空全体が薄雲に覆われているように見えた。重たく澱んだ空気の中に聳え立つ巨城はカオスローディア城。神秘的な白を基調とし、女神を祀る神殿が併設されたグリモワール城とは対極を成す漆黒の城。カオスローディアの城は、魔国の名に相応しい佇まいをしていた。
魔国の兵に連れられ、城の中へ足を踏み入れる。途中から執事のような格好をしたモノクルの男性へ引き渡されたわたしは、謁見の間らしき場所へと通された。でもきっと、この後地下牢へと連れ込まれ、そのままきっと、奴隷市場へ売られるんだわ。
「例の者を連れて参りました」
「ご苦労、下れ」
「は」
その冷たく低い声に思わずわたしは声をあげる。
玉座には、燃えるような炎を閉じ込めたかのような赤い髪の男が座っていた。そして、一瞬で全てを見透かしているかのように研ぎ澄まされた切れ長で鳶色の瞳。金の刺繍が入った王族の服は漆黒。肘掛けに片肘を乗せたままこちらを見ている人物は、その姿勢のままわたしへ話し掛けて来た。
「名は」
「アンリエッタ・マーズ・グリモワールです」
「歳は」
「16歳です」
幾つか短い質問を重ねた後、その人物はようやく自身の名を名乗る。
「魔国カオスローディア第一王子、レイス・グロウ・カオスロードだ」
「わたし如きが王子様に対して出過ぎた真似を。大変失礼致しました」
レイス・グロウ・カオスロード――魔国の暴君と呼ばれる第一王子。魔国へ隣接する小国を次々に制圧し、圧倒的な軍事力と統率力で父である皇帝と共にグリモワール王国と並ぶ魔国を築き上げたとされる王子がそこに居た。相手が王子と知ったわたしは、慌てて王子に向かって首を垂れる。
「構わぬ。それに畏まらなくてもいい。心配せずとも俺はお前を煮て焼くような真似はせん」
「ですがわたしは追放された身。わたしには最早、何の権利もございません」
「お前が絶望の淵に居るのならそれでいい。その
利用価値……そうか、結局何処へ行ってもわたしたちを利用するだけ。きっとわたしが疑似聖女だった事も魔国へ言伝てられている。だから王子のところへ連れて来られたんだろう。
わたしの様子を見た王子が徐に玉座から立ち上がり、傅くわたしの顎へ手を添え、顔を近づける。この人の真っ直ぐな眼……視線から逃れられない。
「アンリエッタ」
「あの……」
「やはりな。お前の双眸は光を失っていない。だが、それは希望の光ではない」
「え?」
この人には一体何が見えているのか? わたしをどうしたいのか? 全く読めない。その威圧感に、思わず身体が震えてしまったところで、ようやくわたしは解放される。
「すまない。怖がらせてしまったな」
「……大丈夫です」
「アンリエッタ。案ずるな。確かに俺はグリモワールからお前を買った。だが、それは、お前を救うためでもあった。俺はお前の味方だ」
「え?」
王子がわたしを買った? それにわたしの味方? 意味が分からない。予想だにしていなかった言葉に思わず聞き返してしまう。それまで高圧的な様子だった王子の表情が初めて崩れていた。まだ笑ってはいない。だけど、あの下衆王子のような相手を
「長距離の移動で疲れただろう。ジズ!」
「はい、此処に」
「アンリエッタを風呂へ案内しろ。彼女を客人として持て成すように」
誰も居なかったところに突然黒ずくめの男が現れ、少し驚いてしまったわたしだったが、そのままわたしは大きな露天風呂へと案内された。どう考えても奴隷に対する扱いではない。わたしをちゃんと人として見てくれている。それだけでこれまでの肩の荷が少し降りた気がした。
「お姉さま……ご無事でしょうか? いま、何をしていらっしゃいますか?」
お姉さまにもう二度と会えないのか? お姉さまを救う事は出来ないのか?
グリモワール王国で投獄された日から数えると、もう二週間近く経っていた。久方ぶりのお風呂に思わず心が安らぐ。自然とわたしの瞳から雫が零れ落ちていた。