それから、何年、いや何十年経ったのか。
可愛がっていたコハルも星になってしまい、仕事も定年退職し、僕はぼんやりと毎日を過ごしていた。
最近は物忘れも激しくなってきたし、自分が何歳なのかさえもはっきりしない。けれど、不思議と心はすごく落ち着いていた。
もっと若い時は色々なことに悩んで、しょっちゅう惑わされていた気もするけど、今はもう心も大きく揺れなくなった。
横になってうとうとしていたら、ふいに目の前に誰かが現れる。ふわふわの茶色の髪、シミひとつない白い肌。優しげな瞳がゆっくりと細められる。
「亜樹、ごはんができましたよ」
ごはん……。
ごはん? ごはんって何だっけ。
ごはんか。そういえば、お腹空いたな。
「……食べる」
上手く働かない頭でようやくそこまで考えて、彼に返事をする。――誰だっけ。毎日顔を見ているし、ずっと前から知っているはずなのに、名前がパッと出てこない。
「起きれますか?」
彼の腕につかまって、ほぼ抱き上げられる形で起こしてもらう。
「ちゃんと起きられましたね」
彼の顔が近づいてきて、唇に一瞬だけ柔らかい温もりが触れた。胸がじんわりと温かくなり、目の前の彼に触れて、彼の名前を呼びたくなった。
彼は、誰だっけ。たしか――そうか、波留だ。
大事な大事な名前なのに、何で忘れてたんだろう。やっと思い出せた。思い出せてよかった。
「ありがとう、波留」
しわがれた声で名前を呼んだら、波留は嬉しそうに笑った。
「転んだら危ないから、ゆっくり行きましょうね」
波留の身体を杖代わりにして、リビングまでヨタヨタと歩く。
テーブルの上には、温かいスープが準備されていた。
手を合わせて、僕は自分の手でスプーンをつかみ、スープを口に運ぶ。できないことは波留が手伝ってくれるけど、できることは自分でやる。それは、毎日言われてるから、忘れたくても忘れようがない。
けれど、一口、二口、三口食べたら、もうお腹いっぱいになる。
「ごちそうさまでした」
「おいしかった?」
聞かれて、うんと頷く。
「今日はちゃんと食べられてえらかったですね」
そう言って、波留は僕の薄い頭を撫でる。
昨日は、たしか一口も食べられなかったかもしれない。うん、たぶんそうだ。そんなような気がする。
今日はちゃんと食べられて、よかった。がんばった。
「テレビでも見ますか?」
「波留の話がいい」
「オレの話か。何がいいかなぁ」
だんだんと意識がぼんやりとしてきて、波留の声がゆっくりと遠さがっていく。話していることははっきりしないけど、波留の声は好きだ。
優しくて、柔らかくて、心地良い。
波留は、どうして僕のそばにいるんだろう。
僕と波留の関係はなんだっけ。
考えてみても、あまりはっきりしない。
まあ、いいか。僕たちは毎日一緒で、これまでもずっと一緒にいて、これからもずっと一緒。それだけはっきりしていたらいい。
あまり良く思い出せないけど、昔は波留とよくもめてた気がする。あの頃は、何をそんなにワアワア騒いでたんだっけ。一緒にいられるだけで、こんなにも幸せなのに。