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第五十話 近づく別れ

 それから、何年、いや何十年経ったのか。


 可愛がっていたコハルも星になってしまい、仕事も定年退職し、僕はぼんやりと毎日を過ごしていた。

 最近は物忘れも激しくなってきたし、自分が何歳なのかさえもはっきりしない。けれど、不思議と心はすごく落ち着いていた。

 もっと若い時は色々なことに悩んで、しょっちゅう惑わされていた気もするけど、今はもう心も大きく揺れなくなった。


 横になってうとうとしていたら、ふいに目の前に誰かが現れる。ふわふわの茶色の髪、シミひとつない白い肌。優しげな瞳がゆっくりと細められる。


「亜樹、ごはんができましたよ」


 ごはん……。

 ごはん? ごはんって何だっけ。

 ごはんか。そういえば、お腹空いたな。


「……食べる」


 上手く働かない頭でようやくそこまで考えて、彼に返事をする。――誰だっけ。毎日顔を見ているし、ずっと前から知っているはずなのに、名前がパッと出てこない。


「起きれますか?」


 彼の腕につかまって、ほぼ抱き上げられる形で起こしてもらう。


「ちゃんと起きられましたね」


 彼の顔が近づいてきて、唇に一瞬だけ柔らかい温もりが触れた。胸がじんわりと温かくなり、目の前の彼に触れて、彼の名前を呼びたくなった。


 彼は、誰だっけ。たしか――そうか、波留だ。

 大事な大事な名前なのに、何で忘れてたんだろう。やっと思い出せた。思い出せてよかった。


「ありがとう、波留」


 しわがれた声で名前を呼んだら、波留は嬉しそうに笑った。


「転んだら危ないから、ゆっくり行きましょうね」


 波留の身体を杖代わりにして、リビングまでヨタヨタと歩く。


 テーブルの上には、温かいスープが準備されていた。


 手を合わせて、僕は自分の手でスプーンをつかみ、スープを口に運ぶ。できないことは波留が手伝ってくれるけど、できることは自分でやる。それは、毎日言われてるから、忘れたくても忘れようがない。


 けれど、一口、二口、三口食べたら、もうお腹いっぱいになる。


「ごちそうさまでした」

「おいしかった?」


 聞かれて、うんと頷く。


「今日はちゃんと食べられてえらかったですね」


 そう言って、波留は僕の薄い頭を撫でる。

 昨日は、たしか一口も食べられなかったかもしれない。うん、たぶんそうだ。そんなような気がする。

 今日はちゃんと食べられて、よかった。がんばった。


「テレビでも見ますか?」

「波留の話がいい」

「オレの話か。何がいいかなぁ」


 だんだんと意識がぼんやりとしてきて、波留の声がゆっくりと遠さがっていく。話していることははっきりしないけど、波留の声は好きだ。


 優しくて、柔らかくて、心地良い。


 波留は、どうして僕のそばにいるんだろう。

 僕と波留の関係はなんだっけ。

 考えてみても、あまりはっきりしない。

 まあ、いいか。僕たちは毎日一緒で、これまでもずっと一緒にいて、これからもずっと一緒。それだけはっきりしていたらいい。


 あまり良く思い出せないけど、昔は波留とよくもめてた気がする。あの頃は、何をそんなにワアワア騒いでたんだっけ。一緒にいられるだけで、こんなにも幸せなのに。







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