それから、さらに長い時間が過ぎた。
いや、ほんの一瞬だったかな。
とにかく最近は前にもまして頭にモヤがかかったみたいな感覚が強くなってきて、日付の感覚もないから、たしかなことは分からない。
一日中夢うつつで過ごしていたが、やけに気分がすっきりとしている日があった。身体はもう自分の身体じゃないみたいで、動かそうとしても、精々指ぐらいしか動かない。けれど、この日は気分だけは良かった。
気がついたら、僕は真っ白な部屋に寝かされていて、誰かに手を握られていた。手の持ち主を探るべく視線で辿ると、綺麗な瞳をした男の子が大粒の涙を溜めている。
どうして泣いているんだろう。
すぐに名前が出てこないけど、彼に泣かれると、なぜか胸が酷く痛む。
「誰……?」
はっきりと声を出したはずだったのに、喉からは弱々しい声が出た。けれど、彼は聞き取りにくい声もしっかりと拾ってくれたみたいで、僕の耳元に口を近づける。
「波留です。あなたの夫ですよ」
波留。夫。
そうか。そうだったんだ。
まだ彼のことを全部は思い出せないのに、すごくしっくりきた。
もう一度、彼を見る。
出会った時からまるで変わらない。
茶色のふわふわの髪と瞳。シミひとつない肌。
この姿もたしかに波留なんだけど、でも少し違う気がする。何かが足りないような……。
「苦しいですか?」
それが何だったのか考えていたら、波留からそう聞かれた。
苦しい? 苦しくはない。
むしろすっきりしていて、歌い出したい気分だ。
「波留がいてくれて、幸せだよ。これからも一緒にいれるよな?」
どうしてだろう。
今日はやけに言葉がスラスラ出てくる。
声は相変わらずしわがれて弱々しかったけど、いつもは喉に突っかかって出てこないものもすんなりと出てきた。
「もちろんですよ」
ひとつまばたきをすると、波留の瞳から涙がこぼれ落ちる。波留は、どうして泣いてるんだろう。
「悲しいの?」
「そうですね。少しだけお別れだから」
そう言って、波留は寂しそうに笑った。
お別れ……。誰と?
波留の? もしかして、僕と?
急に悲しい気持ちと寂しさが込み上げてくる。
「波留が悲しいなら、僕も悲しい」
「ごめんなさい、不安にさせましたね。大丈夫ですよ、すぐにまた会えるから」
波留は、僕の手を握る力を少しだけ強めて、その優しい声で僕をなだめる。
なんだか、だんだん周りが暗くなってきて、波留の顔がよく見えなくなってきた。ああ、嫌だな。波留の顔をしっかりと見たいのに。
完全に視界が真っ暗になった時、僕は今までのことを全部思い出した。波留との記憶も、波留に出会う前のことも。
結婚してから、いや、出会ってから、波留はずっと僕のそばにいてくれたんだ。
全部思い出したのに、もう何も見えなくて、波留に感謝の気持ちや愛を伝えることもできない。
「波留、大好きだったよ」
「番にはなれなかったけど、波留は僕にとって特別だった」
「波留と一緒にいられて、幸せだった。ありがとう」
思いつく限りの言葉を並べてみたけど、波留にはもう伝わらないかな。きっと聞こえていないかもな。
「約束、忘れないでくださいね」
波留の声が聞こえたのは、現実だったのかな。
それとも、僕の妄想かな。
それは知ることができなくても、とにかく伝えなくちゃと思って、最期の力を振り絞る。
「うん、絶対に忘れない」
「波留が見つけやすいように、出会った時と同じ姿、同じ名前でまた生まれてくるから」
「必ず僕を見つけて」
それだけ言った瞬間、ぷつりと僕の意識は途切れた。