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第5話 午前二時


 ゴーン、ゴーン………と。

 応接間に付けられた柱時計が、鐘の音を鳴らした。


 午前二時。

「……予告時間だな」


 手に持った、かりんとうを置いて、下河内が、すっくと立ち上がった。

 それに中院が続く。


 窓際で外の警戒をしていた勝彦は「今の所、不審な動きはありません」と小さく告げる。


「……四半刻の間に、賊は来るぞ」

 低く呟く下河内の声に、緊張が走る。


「……ご令息は?」

 中院が聞く。


「ああ、私の可愛い美優人なら、部屋で休ませていますよ。夜更かしはお肌に悪いですからね」

 勝彦が、デレデレと告げる。


「我々も、そろそろ弟君の部屋へ向かおう」

「そうだな」

 警視総監と探偵、そして兄の三人がのんびりと美優人の部屋へ向かう。


 午前二時五分。

 まだ、異変らしい異変は起きていなかった。



 ◇ ◇



 応接間の柱時計が、二度鳴ったのを、美優人は部屋で聞いていた。

 洋燈ランプを付けて居るが、部屋全体を照らすほど、光は強くない。手元をテラスことが出来るくらいだ。


 美優人は、二階にある自室で手紙を書いていた。家族に対する別れの手紙を書かなければならないと思ったのだ。


 予告通り、怪盗が現れたとしたら、おとなしく攫われるつもりだ。そうすれば、恵比寿屋角右衛門の男妾おとこめかけにならずにすむと思っている。今、美優人が、恵比寿屋角右衛門から逃れるには、それしかなかった。


 怪盗に攫われれば、一生を、怪盗と共に生きるほかなくなるだろう。そうなれば、花護男爵家とはやりとりが出来なくなるはずだ。


 ならば、せめて、今まで育てて頂いたお礼をしたためなければならない。

 そう思って筆を執ったものである。


 手紙を書き終え、片付けたデスクの抽斗ひきだしの中に、入れておいた。いずれ、誰かが見つけるだろう。


「そろそろ……、怪盗がくる、はずだ……」

 胸が、高鳴る。緊張して、指が震えた。


「美優人、起きているかい?」

 トントン、とドアが鳴った。声は、兄・勝彦のものだ。


「兄様、はい、起きております」

「こちらにも、怪盗は現れていないね。良かった……さっき、下河内さんと中院さんと話し合ったんだけど、まだ、油断できないから、別なところにいた方が良いだろうということになった。一緒に、来なさい」


 美優人は、(あら?)と思った。兄・勝彦が好んでいるのは、佐曽良さそらの薫りだった。良く、精神の統一を図るために、部屋で、香道の手順に乗っ取って佐曽良をたいて、薫りを聞いているおかけで、兄は、佐曽良の薫りを纏っていることがある。


 佐曽良は香木の六国五味の中でも『ひややかなること僧のごとし』などと称される薫りであるので、平素怜悧な兄にはふさわしい薫りであった。


 最近は、疲れているのかその行動もほぼなく、ポマードの香料の香りを強く感じる……が、この『兄』は違った。


(舶来モノの……華やかな、花の香り……)

 香水オーデ・コロンだろう。

 それは、兄は使わないモノだった。


「はい、兄様。ちょっとお待ちください」

 纏めていた荷物を手に持ち、窓を開けて花台のところですやすや寝ていた豆之介をカバンに詰め込んだ美優人は、『兄』に付いていくことを決めた。


(これは、攫われたのではなくて、僕の意思だ……)

 どういう方法を使っているのか解らないが、夜の、ほのかな灯りの中では、顔はよく解らない。だが、声は、兄の声そのものだった。


「何を持ってきたの?」

「大切なものです」


「そう。……お前の命以上に大切なものなど、この世の中に存在しているとは思えないけどね……。さあ、行こう。手を出して」

 差し出された手を、一瞬躊躇って、美優人はぎゅっと握った。


「兄様、行きましょう」

 二度と、この部屋にもこの邸にも、戻ることはないのだと思うと、胸の奥をぎゅっと握られるような切なさに襲われたが、美優人は、『兄』の手をぎゅっと握って、彼に付いていくことにした。


「ちょっと、危ないことをするよ。兄様に、抱きついていておくれ」

 言われたとおりに、『兄』に抱きつく。武術や体術をしっかりと身につけている、がっしりとした身体付きだった。軍人である次兄と同じくらい、身体は逞しい。


「じゃあ、行くよ」

 そして『兄』は美優人を抱えたまま、廊下の窓から身を躍らせた。



 ◇ ◇



「そろそろ、あれだな、腹が減ってきた。夜食が欲しいな。ばあやさんに、また、饅頭を作って貰いたいな!」

 下河内が、笑いながら廊下を行く。


「貴文。いい加減にしないか。……ばあやさんは、夜は休んでおられるよ」

「なるほど、確かにそうだ。……では、また、明日にでも来ることにするよ。なんと言っても、今晩の事情聴取とか、やることは沢山あるからね」


 ははは、と下河内は笑っていたが「ちょっと待ってくれ」と中院の声が、急に険しくなったのを聞いて、ピタッと笑うのを止めた。


「中院さん?」

「……廊下の窓が開いている……まさか!」


 中院が階段を駆け上がった。美優人の部屋の扉が開いている。


「美優人くん!」

「美優人っ!!」

 叫びのような声が、谺する。急いで廊下の窓に向かう。


「……滑車と、ロープのようなものが付いていますね。これを利用して、外へ降りたのでしょう」

「そんなにうまく行くもんですかね」

 下河内が首を捻る。


「事実、美優人くんは居ない」

「……もし、怪盗に拐かされたら、どうなるんだ……?」


「いままで、宝石しか盗んでこなかったヤツが、初めて、人に手を出した。……今までは、何らかの美学を持った怪盗だったが、そうではないかもしれないということだ……そして、こういう拐かしにあった場合、無事に戻ることが出来るか―――甚だ怪しい」

 勝彦が、息を飲んだ。


 窓の外を見やる。美優人の姿も見えなかった。



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