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第30話_時織りの超越者

静寂。暗闇に浮かぶモニター群に無数のコードが流れていく。未来調整官fuは深く椅子に沈み、疲れた表情でそれらを見つめていた。画面の片隅にはパレスチナの深刻な被害状況を示す数値と地図、そして中東各地の緊迫した情勢を伝えるニュース速報が次々と更新されていく。2023年10月7日以降、子供1,270人を含む2,260人の行方不明者。難民キャンプでの空爆による多数の死傷者。ヨルダン川西岸地区での発砲事件。数字が現実感を失わせるほど、状況は深刻だった。


ガラント国防相の声明が画面に表示される。イスラエル軍がガザ市内に侵攻したという。一気に張り詰める空気。各地からの情報が錯綜し、それぞれの思惑が渦巻いているのが見て取れた。カッサム旅団はイスラエル軍戦車の破壊を発表、一方イスラエル軍は自軍の死者が31人に達したと発表した。食い違う情報が混沌を深める。ハマスは国連に国際調査団派遣を要請。レバノン南部での空爆による民間人死傷。緊張は一触即発の極みに達していた。


「どうするつもり?」


唐突に、背後から声がした。振り返ると、過去補填官paが腕を組み、冷めた視線を向けていた。fuは大きく息を吐く。


「見りゃわかるだろう。事態収拾だ。このままじゃ世界がめちゃくちゃになる」


吐き捨てるように言うfuの目に焦燥の色が浮かぶ。


「どうやって? もはや調整可能な範囲を超えている」


paの指摘は的確だった。現時点でさえ介入は危険な水域に入っていた。それでもfuは諦めない。諦めるわけにはいかなかった。


「あらゆる手段を使う。どんな犠牲を払っても、だ」


彼は指先でキーボードを叩き、数式とアルゴリズムを組み上げていく。事象を確率で捉え、因果律を捻じ曲げる。未来分岐予測プログラムが何億もの未来の可能性を弾き出した。どれも最悪の結果を内包していた。突破口を探すべく神経を研ぎ澄ます。


モニターの向こうに一筋の光が見えた。微弱な光を追う。一連の出来事の中に僅かな不協和音、小さな矛盾を発見した。そこから可能性が広がる。イスラエル軍の内部情報にアクセス、巧妙に偽情報を仕込み、戦況を誘導する。見えない力で部隊の動きを阻害し、攻撃のタイミングをずらす。時間軸をずらすように事態をコントロール、情報操作で人々の心理を操り、中東各国首脳の判断に干渉、外交交渉のシナリオを書き換える。ギリギリの綱渡りだ。ミスは許されない。一つの誤りが世界崩壊に繋がる。集中を乱すまいと彼は自分に言い聞かせた。


paはモニターを眺め、冷徹に彼の操作を見守っていた。過去でミスをすれば未来が歪む。リスクを負うのは自分も同じ。介入に失敗した場合、時空の裂け目が生まれ、取り返しのつかない事態に陥る。それが怖かった。同時に、彼女はfuの能力を信じてもいた。冷淡な物言いとは裏腹に、彼をサポートするつもりではある。この調整が終われば、莫大なエネルギーが過去にフィードバックされる。それを利用して歴史の矛盾を修正しなければならない。考えるだけで頭が痛くなった。


fuの作業は続く。中東各国の経済状況に介入し、戦争継続のコストを引き上げる。武器供給ルートを特定、闇市場を操作し、必要な物資が届かないようにする。世界経済への影響を最小限に抑えながら行う必要があり難易度が高い。現地のジャーナリストや活動家に偽の情報をリーク、国際世論を誘導する。大国の利害関係を巧みに利用、政治的圧力をかけさせた。見えざる手が働き、現実が少しずつ歪み始める。各勢力の行動がずれ始めた。


ニュース速報が更新される。発表された犠牲者の数に修正が入る。当初より大幅に減少。イスラエル軍の発表も後退し始めた。ガザ侵攻の規模縮小が伝えられる。計画の遅延か。何かが変わりつつあった。paは息をひそめfuの作業を見守る。時折、プログラムにエラーが発生する。paがそれを察知、的確に修正、彼の負担を軽減した。微妙な連携、長年培ってきた信頼が二人の間にはあった。


数日が経過、状況は目まぐるしく変化する。戦況は膠着し、膠着状態の間に外交交渉が進展する。停戦合意への道筋が見えてきた。ギリギリの調整。全てが上手くいっているわけではない。修正しきれない歪みが、新たな火種を生む可能性があった。小さな問題が積み重なり、制御不能な事態を引き起こすリスクも孕む。今はそれを気にしている余裕はない。


paも奔走した。時間遡行を繰り返し過去データの改変を試みる。歴史を繋ぎとめ未来への影響を最小限に食い止めなければならなかった。多大なエネルギー消費。疲弊の色が彼女の表情に浮かぶ。それでも弱音を吐かず黙々と作業を続けた。二人の孤独な戦い。見えないところで世界を支えているという自負が、彼らを突き動かしていた。


変化が訪れる。唐突だった。モニター上に突如、異常な数値が表示される。見慣れないパターン。解析を試みる。既存のプログラムでは解読不能。


「これは?」思わずpaが声をあげる。


fuは画面を凝視。数字が波打ち、幾何学的な模様を描き始めた。コードが歪み、異質な空間が出現、モニターが揺らぎ、奇妙な光景が映し出される。何が起きているのか理解できない。事象干渉の副産物なのか? それとも……? ふと、頭に浮かぶ。


宇宙際タイヒミュラー理論


異質な幾何学的構造を関連づける難解な理論。この異常な現象との関係は? 推測の域を出ないが、一つの可能性として無視できなかった。


「どうやら、私達が積み重ねてきた調整が、時間軸に特異な効果を生み出しているらしい」fuが静かに言った。


「超時間効果? 過去と未来を繋ぎ合わせた結果生まれた歪み?」


「分からない。だが、この現象が何を意味するのか、調べなければならない」


謎が謎を呼ぶ。未踏の領域。恐怖と共に好奇心が芽生えた。世界の命運を握る調整を繰り返す中で、自分達は何か重大な扉を開けてしまったのではないか。それが吉と出るか凶と出るか、予測はできない。


一週間が過ぎた。緊迫した状況が続くも、事態は収束に向かっていた。犠牲者の数は当初の発表より大幅に減少、武力衝突の規模も縮小。停戦合意に向けた具体的な協議が始まった。国際世論の関心も他の問題に移り始めている。ひとまず、最悪のシナリオは回避できた。fuはモニターを閉じた。深く椅子に体を預ける。激しい疲労感、同時に、言い知れぬ不安が胸をよぎる。終わりではない。始まりに過ぎない。


今回の事件で新たに生まれた時間軸の歪み、その影響は計り知れない。そして、超時間効果。宇宙際タイヒミュラー理論との関連。それが何を意味するのか。解明しなければならない。歴史の修正という重圧、世界を歪ませることへの葛藤、それでも進むしかない。未知なる脅威から世界を守るため。彼は、時を操る者。孤独な闘いを続ける。


paは、相変わらず冷静な表情で、彼を見つめていた。


「今回の件は、表面上は収束した。でも根本的な問題は何も解決していないわ。矛盾が蓄積し続ければ、いつか必ず破綻する」


冷静な言葉が重く響く。彼女もまた疲弊している。不安の色は拭えない。


「分かっている。この仕事に終わりはない。それでも、続けなければならないんだ」


fuは呟くように答えた。終わりのない時間調整。過去と未来を繋ぎ止めるため、彼は再びコードの世界へと戻る。モニターに光が灯り、無数の数字が流れ始める。彼の手がキーボードの上を滑り、時を紡いでいく。その指先は、迷いながらも、決して止まることはなかった。


彼らの戦いは終わらない。表舞台に出ることもなく、誰にも知られず、歴史の裏側で孤独な闘いを続ける。見えない存在。世界を歪ませているのは自分達かもしれない、その葛藤は消えない。それでも、彼らは世界を守るために戦い続ける。時間は流れ、彼らは時の中を彷徨い続ける。迷宮を彷徨うように、答えのない問いを抱えて。

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