「殿下……?」
「お前、いい加減にしろよ!」
ロベリアが叱られたあの日、ロベリアだけを処罰するのではなく、クレベリン家そのものを王妃は処罰にかかったのだ。ロベリアが、いいや、クレベリン家がある限りはナディスの邪魔になってしまうから、という判断らしい。
「まぁ殿下、何をいい加減にしろとおっしゃるのですか」
「っ、白々しい!」
空き教室だからと、ミハエルは遠慮せずに大声でナディスを罵り、そして大股で彼女の方に歩いていき、手を振りかぶって思いきり叩いた。
ばちん!と大きく思い音が響く。
ぽた、とナディスの口から血が零れ落ちる。あらいやだ、口の中を切ってしまったわ、とナディスは何でもないように小さく呟いて、治癒魔法を慣れた手つきで己の頬にかけた。
あまりにも普通なナディスの様子に、ミハエルはイラっとした様子でまたナディスを叩こうとするが、ふと視線が合ったナディスを見て、ぞっとした。
「まぁ殿下、どうなさいまして?」
あれだけ強く叩いたにも関わらず、ナディスは決してミハエルのことを恨んでなどいないかのように、いいや、むしろうっとりとした恍惚とした目で見つめてきているのだ。
「……お前……何を考えている!?」
「何を、とは……」
「ロベリアのこともそうだ! 俺に近づこうと、いや、仲良くなろうとする令嬢を、ことごとく『排除』しているだろうが!」
「まぁ、
「は……?」
きょとんとして問い返してくるナディスは可愛かった、が。そういうことではないのだ。
ミハエルに使づいてくる人を、それが女性ならばことごとく近づけないように、近づいてきたら家の力を使い、時には自分が王太子妃候補という立ち位置を利用して、今回のロベリアにしたように家ごと叩き潰しにかかる。
「社交界で、お前の凶行はすっかり有名だ! ミハエルに執着する権力欲にまみれた王太子妃、とな!」
怒鳴られた内容を聞いて、ナディスは少しの間呆然とする。
叱られたことがショックなのではない。
ミハエルの言い方が、まるで、『ナディス以外の女性がミハエルにべたべたとしていても問題ない、ナディス以外がミハエルに懸想したところで何ら問題ない』と言っているようにしか聞こえないのだ。
「だって……ミハエル様は、わたくしの王子様なんですもの……」
「何を……言って……」
何かにとりつかれたような目で、ナディスは呟く。
「初めてお会いした時、あの時から……わたくしの心は殿下だけのものなのです。ですから」
続けるナディスの瞳の奥深くに宿った、確かな狂気。
決してミハエルを自分以外に渡してはならない、という執着。こんなもの、愛情なんかではない、とミハエルはぎりぎりと歯を食いしばって、思いきりナディスを突き飛ばした。
「きゃあ!」
「黙れ……黙れ、この、魔女!」
「ま……魔女……?」
とんでもない言葉で罵ってくるミハエルを、ナディスは信じられないという顔で見つめる。突き飛ばされたときに転んでしまったので、必然的にミハエルを見上げる形となるのだが、それでもナディスの目にはまだどこか期待が宿っていた。
「お、お待ちください! 魔女などと……!」
「お前を魔女と言わずして何と言えというのだ! 聞いているぞ! 俺と親しくなろうとした令嬢の家に圧力をかけて潰すと脅したり、実際にいくつか貴族として生きていけないようにしたな!?」
「……それの何がいけませんの?」
本気なのか、とミハエルはナディスに問いかけたかった。だが、問いかける前にナディスがきょとんとして逆に問いかけてくる。
「婚約者がいるというのに、他の男性に親し気に声をかけるだなんて……程度が知れますでしょう? 殿下、わたくしとの婚約は、国王陛下によって……」
「お前が家の力を使って無理やり結んだ婚約だろうが! 俺は何も望んでいなかった!! お前が、自分勝手な思いだけで、俺との婚約を締結したんだろうが!! 何もかも俺のせいに……いいや、我が王家のせいのように責任をなすりつけるんじゃない!!」
「え……?」
――
ナディスの口から零れ落ちそうになった本音は、口から零れることなくナディスの心の中で溶けた。
「鬱陶しいんだよ! お前の気遣いも、思いの重たさも、何もかも!! 誰が頼んだんだ! えぇ!?」
怒鳴りつけてくるミハエルは、自分が何を口走っているのか、きっとわからない。
今、ナディスの中で、恋心に少しづつ、ひびが入り始めたということにも気付いていないままに、ミハエルの口からはナディスを罵る言葉が次から次へと溢れてくる。
「……そんな風に……思っていたのですか、ずっと……?」
「だったら何だ!」
「わたくしは……本当に、殿下を、お慕いして……」
「慕っている、だと? 俺を孤立させようとするような動きをしていたくせに!!」
「そんなことありません!」
「では、何故お前以外の令嬢と会話をしてはならんのだ! この学園に入学してから、異性の友人は一人もおらん! お前が何もかも手を回して、人の友人関係にまで手を出してきたせいだからな!」
果たして、男女の友情など存在するのか。
ナディスがこう問われれば『そんなものあるわけない』と即答する。
そもそもミハエルにはナディスという婚約者がいるのだから、異性の友人を作ってどうするというのだろうか。側室候補ならば既に用意されているし、正妃としては勿論このままいけばナディスがその座に収まるようになっている。
では何故か、とナディスがいくら考えても分からなかった。いいや、分かりたくなかった、という方がしっくり来てしまう。
「ミハエル様……」
「寄るな!」
どうして、と小さく問いかけてもミハエルは汚らわしいものを見るかのようにしてナディスを睨みつけている。だめだ、このままではきっと良くない。
そう思って、ナディスは尚も縋ろうとするが、ミハエルはナディスそのものを拒否しているから、話なんか聞いてくれないに違いない。
「お前のような悪魔がいては、今後の俺の王太子としての未来に不都合しかない! ……そもそも、ヴェルヴェディア公爵家でなくとも、ロベリアの家はクレベリン侯爵家。王太子妃として家柄は申し分ないからな!!」
あっはっは! と高笑いをするミハエルは、もうかつてのミハエルなどではなかった。
ナディスがどれだけ手を伸ばしても、決してその手を取ってはくれない。むしろ突き放しにかかってくるくらいだろう、とナディスが考えていたが、不意にミハエルの手が伸びてきて、ナディスの髪を鷲掴みにした。
「あう……っ!」
「お前なぞ、もう、いらん」
「ま、って……、ミハエル、様、やめ……」
「俺は、お前と婚約していたこと、少しでもお前のことを好いていた俺を、なかったこととする!」
ナディスの髪を掴んだ手を、ぐっと引けばナディスの体はぐらりとバランスを崩す。
突き飛ばすようにして思いきり手を離せば、再びナディスの体は思いきり転ばされる形となってしまう。
「(なんで……?)」
髪が乱れ、体中が、頭が痛くなる中、ナディスはぼろぼろと零れ落ちてくる涙を拭うこともせずに、床をじっと眺める。どうしてこんな風になっているのだろう。
何がいけなかったのか、さっぱりわからない。
ミハエルはナディスの婚約者だから、近寄ってくる『虫』を駆除して何が悪いのか。王妃だって、ミハエルだって、ナディスが……いいや、ヴェルヴェディア公爵家が後見となったから、王宮内での地位がとても高くなった上に見下されていた人たちからも尊敬されるようになったというのに、何が不満だったのか。
「お前なぞ、生きていても何の役にも立つまい。……そうだ、お前の父母の前で、むごたらしく処刑してやろう! その前に俺とロベリアが改めて婚約するところを、地面に這いつくばって眺めるという役割を与えてやろうではないか!」
あっははは! と高笑いをするミハエルを、ナディスは呆然と見つめた。
ああ、この人はもう、自分が愛したあの人ではない。愛しいミハエルの皮をかぶった、悪魔なのだ……そう思わなければ、ナディスの心は砕けてしまいそうだったから。