「宇辻くん、どう? 少しはよくなったかしら?」
先生は眼鏡の位置を戻しながら、心配そうにたずねる。
俺は苦笑いしながら「はい、おかげさまで何とか」と、答えた。
俺は今、保健室で胃薬を貰って飲んだところだ。そう、つまりはあの地獄の時間を耐えぬいたのだ。
先生は「そう? ならよかったわ」と微笑むと、お茶を差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
俺は先生が淹れてくれたお茶を啜りながら、ホッと息をつく。
目の前にいる先生は、養護教諭の
長い髪を後ろで束ね、常に笑みを浮かべている優しい先生だ。
伊椰子先生が、どれくらい優しい先生かというと……。
常に生徒に寄り添う先生で、一般生徒たちの人気も高い。
本人が知っているのかは不明だが……毎年非公式で行われている生徒たちによる『理想のお母さん or お姉さんランキング』というのがある。そして先生がこの学園に赴任して以降、ずっと一位をとっているという噂があるくらいだ。
また副顧問ということもあり色々と事情を知っている先生は、時折あの二人に振り回されている俺の相談にもよく乗ってくれる。
あのヘンテコな部活にとって、とても貴重な常識的な人で、優しい先生だ。常識的で、優しい。……大切なことだから、あえて二回言った。
なにより伊椰子先生は、この学園のOGでもある。そして在籍時代の部活動は、意外にも元オカルト研究会に所属していたらしい。
そんな伊椰子先生に俺は、普段の学園生活に部活動共々、たくさんお世話になっている。
もっぱら俺の場合はあの二人の無茶ぶりに対する、愚痴や相談などだが。それ以外にも色々と、伊椰子先生には助けられているのだ。
例えば先日、桔梗が怪しげな実験をした結果。部室で倒れているのを発見した際は、心臓が止まる勢いで気づけばここへ運んでいた。幸い何事も無かったが、心臓に悪いので一人で怪しげな実験は出来ればやめて欲しい。たとえ一人じゃなくても、怪しすぎる実験は正直やめて欲しい。
また俺の場合は、長年とある原因不明の特異体質で悩まされており、それが発症した際にお世話になっている。
猫山先輩に至っては、言わずもがな……あの人はサボりでよく利用しているらしい。先生、猫山先輩に関しては怒っていいです。本当に。
「しかし、君も大変ねー。来栖さんのお目付け役に、猫山くんの無理難題をこなして……。本当に、働き者よね」
伊椰子先生は苦笑気味に、そしてどこか心配そうに言われる。
「まぁ……確かに大変ですけど、慣れているんで。あの二人の無理難題とか、無茶ぶりには」
俺も苦笑いしながら答える。決して悪いヤツらではない。悪いヤツらではない……のだが、悪ふざけが多すぎるのだ。
まぁ、それを俺が許してしまっていることが、二人の悪ノリに拍車をかけているのだろうが。
「正直、俺以外の他人に迷惑をかけていないのが、不幸中の幸いです」
「本当、幼なじみも大変よねー。ウチの
「本当ですよね。はははっ」
俺と伊椰子先生は、お互いの幼なじみへの苦労話で盛り上がる。本当に困った幼なじみたちである。
伊椰子先生は自分専用のカップにコーヒーを淹れると、自身の椅子に座りなおす。
「そういえば宇辻くん、最近どう? 部活の方は順調そう? それに新しい部員とか、入りそうかしら?」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、俺は笑顔のまま固まる。
多分先生は悪気はなく、ただ何気ない世間話みたいなものだったのだろう。
どんどん気分が落ち込んでいく俺を見て、俺がどうして保健室に来たのか。そしてなぜ胃薬を貰って飲んでいたのか、その全ての理由を察したのだろう。先生は触れてはいけないものに触れてしまったと言わんばかりに、『しまった!』という顔をする。
「あっ……ごめんなさい! 今のはなしで……!」
慌てて謝罪する先生に、俺は「いえ、いいんですよ……」と……まるで死んだ魚のような眼をして、明後日の方向を見る。
「どうせ部員が入らないのは目に見えてますし、さっきは新入生やほかの部活動の前であんなに恥を晒したんですから……あはははははははっ……」
そうだ。俺たちはあの場にいた全員の前で、
実に滑稽な話である。一層のこと、誰か一思いに笑ってくれよ。
「先生……俺、もう行きます……。あの二人のこと、気になるし……」
何をやらかすか分からない二人のことだ。俺という監視役が居ない今、何か問題を起こしていたら俺の胃とメンタルは完全に耐えきれなくて泣くぞ。
ドアの取っ手に、手をかける。後ろから伊椰子先生が「お、お大事にー……」と、物凄く申し訳なさそうに言うのが聞こえる。先生は何も悪くないので、気にしないでください。
ドアを閉めた俺は、重い足取りでトボトボと長い廊下を歩く。
「あぁ……来年の今頃も、またこんな思いをしなければならないのか……」
何も無ければ来年の今頃、猫山先輩は無事に卒業してるだろう。そうなると必然的に、副部長である俺が部長になるのだろうか……嫌すぎるな。
そう考えると、俺の胃は再びキリキリし始めるのだった。