うっかり口を滑らせて、美浜大を受けたいとかいってしまったことを、若干、後悔した。
目の前で、渋い顔をしている淳之輔先生は、成績表に穴が開きそうなほど見ている。もしかしたら、先生自身の高校時代の成績を思い出して、考えているのかもしれない。
軽い気持ちでいってみただけで、まだ、本気で考えてる訳じゃない。
そりゃ、憧れの淳之輔先生と同じ大学を目指したいって気持ちはある。でも、自分の実力が全然追いついてないことくらい、俺が一番わかってるから。
先生を悩ませたいわけじゃないんだ!
「うーん……模試の結果を見ないと、何ともいえないかな。そうか、うち受けたいのか」
「あ、あの、いや、ほら……家から近いし、母さんも国立が良いっていってたし」
言い訳がましくどもりながらいうと、淳之輔先生は成績表を畳んでテーブルに置き、俺に眼差しを向けた。少し困ったように笑って小さく息をつく。
「あの……全然、無理だって、わかってます。高望みだって」
「んー、まあ、動機はなんであれ、目標を高くすることに反対はしないよ。ただ、俺じゃ教えきれないかもな」
ああ、そういえば前もそんなことをいっていたな。
やっぱり、国立を目指すなら家庭教師はやめて予備校に行った方がいいのかな。そうすると、淳之輔先生との勉強は終わりになっちゃうのか。こうして、この部屋に来ることどころか、先生に連絡を取ることもなくなるってことだ。
先生との勉強が終わる。そう考えたら、とたんに気分が落ち込んだ。
俯いて、膝の上で拳を握ると「落ち込むなよ」と声がかかった。
「とりあえず、模試で平均六十点とれるようにするか」
「え?」
「え、じゃないよ。美浜大は共通テストの得点率八割目指さないとだぞ。模試で平均六十点くらいとれないと」
いや、そうじゃなくって。
てっきり、国立を目指すなら予備校に行けっていわれるかと思った。だから、次の目標を打ち出してきた淳之輔先生の言葉が予想外過ぎて、俺は弾かれるように顔を上げて先生を見た。
目が合うと、驚いた顔をした淳之輔先生は苦笑を浮かべた。
「おいおい、六十点なんて無理、みたいな顔すんなよ」
「だって……先生、国立は無理だっていってたし」
「ん? あー、まあ、今の瑠星が受けても玉砕だろうけど、まだ時間はあるし」
「そ、そうじゃなくて! 家庭教師じゃなくて、予備校に行けっていうかと」
思わず声を大きくすれば、淳之輔先生は綺麗な目をぱちぱちと瞬いた。そうして、一拍置いた後に笑い声をあげる。
「そりゃあ、予備校行った方が確実だろうな。でも、それは俺が決めることじゃないだろ。こうして、瑠星が俺を頼って相談してくれるなら、できることをするよ」
大きな手がぬっと伸びてきて、俺の頭をがしがしと撫でまわした。
それが嬉しくて、ほっとしたのに胸がぐっと苦しくなる。心拍数が上がって、耳まで熱くなってきた。
何だろう、この感情。
「それにさ、理数科目と英語なら教えられるし。これでも、美浜大現役合格だぞ。文系科目だけ予備校頼るってのも手じゃないか? 俺も、せっかく始めた家庭教師、辞めたくないしさ」
「家庭教師代なくなりますもんね」
「減らず口を叩くな」
俺の髪をくしゃくしゃに引っ掻き回していた指が頬をつねり上げ、淳之輔先生は目を細めて笑う。
指が離れた頬が少しジンッと痺れていた。
「まあ、家庭教師辞めても、心配で連絡しちゃうと思うけどな。さて、そういう訳だから勉強するぞ!」
ほらほらと急かされ、慌ててリュックを引っ張る。そうして、数学の問題集とノートを引っ張り出しながら、俺は緩みそうになる口許に力を込めた。
今、家庭教師じゃなくても連絡くれるって。そういったよな。俺が、心配だって。
家庭教師と教え子の域を越えて、俺のことを心配してくれてるのかな。もしかしたら、高校を卒業しても、美浜大に行けなかったとしても、淳之輔先生と連絡を取ってもいいのかな。
淳之輔先生が、さらっといった言葉が嬉しくて、心拍数もさらに上がっていた。
三角関数のページを開き、シャーペンをカチカチ鳴らし、先生をちらり見る。
「用意できたな。じゃあ、いつものように演習Aを解きなおしていくぞ。それと、今日からはタイマー回すぞ」
「え? タイマー?」
「模試に備えてだ。大問が五つとして、一つを十分から十五分使って解くわけだ。不得意な問題なら、ニ十分かかるかもしれない」
だから、今から慣れていこうといって、淳之輔先生はスマホを取り出し、タイマーをセットした。
「用意は良いか?」
頷くと先生の長い指が、スマホ画面をタップした。