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白い虚無が突然ひび割れた。
まるでガラスが砕けるような音と共に、現実が三崎の意識へと雪崩れ込んでくる。
瓦礫の匂い、硝煙の臭い、血の鉄錆びた香り。
耳を劈く爆発音と怒号。
三崎は膝をついていた。
地面の感触が妙に生々しい。
「うわああっ!」
「こっちにも来たぞ!」
周囲では激戦が続いている。
陣内のアングリー・オーガが必死に敵を薙ぎ払い、高槻の魔剣が閃く。
誰も三崎のことなど気にかけている余裕はない。
三崎はゆっくりと立ち上がった。
体の芯に、まだあの赤い炎が燃えている。
怒りという名の、消えることのない炎が。
そして同時に、自分に何ができるのかを完全に理解していた。
魔石のエネルギーを大量に取り込んだ結果、三崎は覚醒者として新たな段階へと至ったのだ。
召喚モンスターに対する絶対的な支配権。
それが今の三崎に与えられた力だった。
目の前でゴブリン・ジェネラルが雷撃を放ち、敵を薙ぎ払っている。
「ゴブリン・ジェネラル」
三崎が静かに呼びかける。
雷撃を纏った手斧を振るっていたゴブリンの動きが、一瞬止まった。
「戻って」
穏やかな声。
しかし、ゴブリン・ジェネラルは振り返ることすらしない。
低い唸り声を上げ、なおも戦い続けようとする。
強い抵抗の意志がマナの繋がりを通じて伝わってくる。
──まだ戦える。
──まだ敵がいる。
──戦わせろ。
以前の三崎ならば、ゴブリン・ジェネラルを従わせる事はできなかっただろう。
だが。
「分かってる。でも、今は戻ってきてほしいんだ」
三崎の声は変わらず穏やかだったが──
理不尽への怒り、失われた命への憤怒、そしてこの不条理な世界そのものへの反逆心。
それらすべてが意志の力となって、ゴブリン・ジェネラルへと叩きつけられた。
ゴブリン・ジェネラルの動きが完全に止まる。
そして──。
ゴブリン・ジェネラルから満足感のようなものが三崎へと伝わってくるなり、その場で光の粒子となって消えていった。
三崎は息をつく間もなく、次の行動に移った。
手を振ると新たに二体のゴブリンが現れる。
いつもの二匹だ。
通常の緑色のゴブリン。
レア度1の最も基本的なモンスター。
三崎は袋から魔石を取り出し、二体のゴブリンにそれぞれ差し出した。
そして“進化”。
魔石のエネルギーが流れ込む。
光が収まった時、そこに立っていたのは──。
全身が影のように黒く、輪郭すら曖昧な二体のゴブリンだった。
──『レア度4/暮明に紛れる殺手ゴブリン・アサシン/レベル1』
細身だが、その動きは恐ろしく俊敏。
手には漆黒の短剣を握り、瞳は血のように赤く輝いている。
次の瞬間、二体のゴブリン・アサシンの姿が掻き消えた。
影と一体化したのだ。
地面に落ちる瓦礫の影、建物の陰、そこら中に存在する暗がりと完全に同化した。
「くそっ、まだ来るのか!」
高槻が悲鳴のような声を上げる。
新たなゾンビの群れが押し寄せてきていた。
しかし三崎の意識はすでに別のところにあった。
ゴブリン・アサシンの目を通じて戦場全体を俯瞰していく。
そして──。
「……みつけた」
三崎が静かに呟いた。
◆
戦場の片隅に一体のスケルトンがいた。
他の個体と何ら変わらない、ありふれた骸骨の戦士。
しかし三崎には分かる。
ゴブリン・アサシンの特殊な視覚を通じて見ると、そのスケルトンの周囲に奇妙な歪みがあった。
ステータスを偽装している。
表面上は──『レア度1/彷徨う骸骨スケルトン/レベル1』
しかし、その奥に隠された真のステータスは──。
──『レア度5/痩身の智将カスペル・ワイト/レベル3』
なるほど、賢い。
雑魚に紛れて戦場を俯瞰し、安全な場所から指揮を執っている。
カスペル・ワイトは小さな骨の指で、巧妙にモンスターたちを操っていた。
一見すると、ただふらふらと歩いているだけのスケルトン。
しかし、その動き一つ一つが、周囲のモンスターたちへの指示になっている。
だからこそ、雑多な種類のモンスターたちが見事な連携を見せていたのだ。
三崎は思念でゴブリン・アサシンたちに指示を送る。
──あのスケルトンだ
影の中を音もなく移動するゴブリン・アサシンたち。
カスペル・ワイトは、まだ自分が発見されたことに気づいていない。
ふらふらと歩きながら、他のスケルトンに紛れようとしている。
しかし──。
左右から同時に漆黒の刃が閃いた。
カスペル・ワイトが初めて反応する。
骸骨の頭部が素早く振り返るが、もう遅い。
一体目の刃が脊椎を断ち、二体目の刃が頭蓋を粉砕する。
カラカラと乾いた音を立てて、骨が崩れ落ちる。
そして、その瞬間──。
戦場に劇的な変化が訪れた。
◆
それまで統率の取れた動きを見せていたモンスターたちが、突然混乱し始めた。
指揮官を失った軍隊のように、てんでバラバラな動きになる。
レベルアップしたラットは仲間同士で噛み合いを始め、ゾンビたちは目的もなくふらふらと歩き回る。
「なんだ? 急に動きが鈍くなったぞ!」
陣内が気づいた。
「今だ! 一気に押し返せ!」
吉村の号令が響く。
形勢は一気に逆転した。
統率を失ったモンスターたちはもはや烏合の衆でしかない。
強くはあるが、連携は喪われている。
それどころか同士討ちまでしているのだ。
形成は一気に傾いた。
高槻の魔剣ラスティソードが次々と敵を切り伏せ、陣内のアングリー・オーガが怒涛の勢いで敵を蹂躙していく。
「何が起きたんだ?」
前田が困惑しながらも、ナイト・バルワーに攻撃を続けさせる。
三崎は静かに戦況を見守っていた。
ゴブリン・アサシンたちを通じて、周囲の状況を把握し続ける。
取り逃がした敵はいないか。
新たな脅威は潜んでいないか。
影から影へと移動しながら、徹底的に索敵を続ける暗殺者たち。
やがて──。
最後のスケルトンが崩れ落ちる。
戦いは終わった。
◆
「やった……勝った……」
英子が息を切らしながら呟いた。
「なんか急に敵が弱くなったな。ボスが見つからなくてやばかったんじゃないのか? 誰かが倒したって事か……」
陣内が首を傾げる。
三崎は影から姿を現したゴブリン・アサシンたちを見やった。
「三崎君、そのモンスターは──」
「魔石をつかって召喚できるようになりました」
「なるほど、じゃあ君が倒したということか」
吉村は頷き、三崎に礼を言う。
「とりあえず、魔樹を何とかしましょう」
三崎の提案に、皆が頷く。
中心部に聳え立つ巨大な魔樹。
すべての元凶となった、赤黒い蔦を伸ばす異形の植物。
「総攻撃だ!」
吉村の号令と共に、覚醒者たちが一斉に攻撃を開始する。
もはや守るモンスターもいない魔樹は、なすすべもなく攻撃を受け続けた。
やがて──。
ぎしぎしと不気味な音を立てて、魔樹が傾き始めた。
「離れろ!」
全員が後退する中、巨大な魔樹がゆっくりと倒れていく。
地響きと共に地面に激突し、赤黒い蔦がびくびくと痙攣するように震えて、やがて動かなくなった。
完全な勝利だった。
◆
「信じられねぇ……本当に勝っちまった」
陣内が呆然と呟いた。
三崎は静かに空を見上げた。
霧が少しずつ晴れ始めている。
久しぶりに見る青い空が雲の切れ間から顔を覗かせていた。
しかし三崎の胸中ではまだあの赤い炎が燃え続けている。
「三崎君、大丈夫か? 少し様子が変だが」
吉村が心配そうに声をかけてきた。
「ええ、大丈夫です。ちょっと……魔石を使いすぎたみたいで」
三崎は曖昧に微笑む。
本当のことはまだ誰にも言えない。
というより、言い様がなかった。
あの白い虚無で見たものも、そこで理解したことも三崎は覚えていない。
三崎が覚えているのは怒りだけだ。
超常の存在に弄ばれているという怒りだけ。
「麗奈、無事だといいんだけど……」
呟きながら妹のことを思う三崎だった。