◆
三崎は掌の中で脈動する魔石を見つめた。
熱を帯びた石が、まるで心臓のように鼓動している。
赤、青、緑、黄──異なる色の光が、生き物のように蠢いていた。
──どうせなら、限界まで
決意と共に、三崎は複数の魔石を同時に握りしめた。
石の表面が焼けるように熱く、掌の皮膚が悲鳴を上げる。
「三崎、お前まさか……」
陣内の警告めいた声が聞こえたが、もう遅い。
魔石のエネルギーが奔流となって三崎の体内へ流れ込む。
灼熱と極寒が同時に体を貫き、視界が激しく明滅した。
骨の髄まで震えるような感覚。
血管の中を溶岩と氷河が同時に流れているような──。
内臓が捻じれ、筋肉が引き裂かれるような激痛が全身を駆け巡る。
しかし痛みはすぐに遠のいていった。
まるで痛覚を司る神経そのものが焼き切れてしまったかのように。
そして次の瞬間──すべてが、消えた。
◆
三崎は目を開けた。
いや、目を開けたという感覚すら曖昧だった。
瞼があるのか、眼球があるのか、それすらも定かではない。
ただ、何かを"見ている"という認識だけがある。
瓦礫と血と硝煙の匂いに満ちた戦場は、どこにもなかった。
代わりにあったのはどこまでも続く白い虚無。
上も下も、右も左も判別できない空間に三崎はただ一人立っていた。
いや、立っているのだろうか。
足の感覚がない。
地面の感触もない。
ただ宙に浮いているような、それでいて何かに支えられているような奇妙な感覚だけがある。
「……ここは」
声を出したつもりだったが音は聞こえなかった。
いや、聞こえたような気もする。
自分の声なのか、誰か別の声なのか、それとも声ですらないのか。
すべてが曖昧で境界線が溶けているような感覚。
白い虚無は完全な静寂に包まれていた。
風の音も自分の呼吸音も何も聞こえない。
まるで音という概念そのものが存在しない世界。
三崎は自分の手を見下ろした。
そこにあるはずの手は輪郭だけがぼんやりと見える程度で、実体感がない。
半透明で向こう側の白い虚無が透けて見える。
指を動かすと、残像のように軌跡が空中に残り、ゆっくりと消えていく。
──僕は、まだ存在しているのか?
疑問が浮かぶがその疑問すら霧のように拡散していく。
思考することが困難になっていく。
まるで、意識そのものが薄められていくような感覚。
◆
どれくらいの時間が経ったのか。
そもそもこの空間に時間という概念があるのか。
白い虚無に変化が生じた。
遠くから何かが近づいてくる。
最初は点のようだったそれが、次第に形を成していく。
建物だった。
コンビニ、オフィスビル、マンション、学校。
見慣れた都市の風景が、まるで蜃気楼のように浮かび上がってくる。
しかし何かが違う。
建物は確かにそこにあるのに、どこか平面的で奥行きが感じられない。
まるで精巧に描かれた舞台の書き割りのようだ。
赤黒い蔦も、崩壊の跡も、モンスターの姿もない。
ただ、普通の東京の街並みがそこにあった。
それも妙に整然として、塵一つ落ちていない。
人工的で生命感のない街。
三崎は──いや、三崎だったものは、その街へと引き寄せられるように動き始めた。
歩いているのか、浮遊しているのか、それすらも判然としない。
ただ景色が近づいてくる。
あるいは、景色の方が三崎に近づいてきているのかもしれない。
◆
街の中に入ると人影が見えた。
サラリーマン、学生、主婦、子供。
皆、いつものように歩いている。
規則正しく、機械的に。
まるで決められたルートを永遠に歩き続ける人形のように。
「すみません」
三崎は近くを通り過ぎた男性に声をかけた。
しかし声は空気を震わせることなく、ただ虚空に吸い込まれていく。
男性は振り返ることもなく、同じペースで歩き続ける。
「あの、すみません!」
三崎は別の者に声をかけた。
しかし──
その横顔を見て三崎は息を呑んだ。
顔がない。
正確には、顔があるべき場所にのっぺりとした肌色の楕円があるだけ。
目も鼻も口もない。
ただ、顔の形をした空白。
他の人々も同じだった。
皆、顔のない人形のように同じリズムで歩き続けている。
足音もなく、会話もなく、ただ移動するだけの存在。
三崎は手を伸ばして、通行人の肩に触れようとした。
しかし手は何の抵抗もなく通り抜ける。
相手が幻なのか、あるいは自分が幻なのか。
街は不気味なほど静かだった。
車の音も、鳥の声も、風の音さえもない。
ただ、無音の中を顔のない人々が行き交うだけ。
空を見上げると、そこには何もなかった。
青でも灰色でもない、ただの虚無。
太陽も月も星もない、光源の分からない均一な明るさだけがある。
◆
ふと、書店の看板が目に入った。
『知識の泉』
この街で唯一、文字がはっきりと読める看板だった。
他の店の看板は、ぼやけた記号の羅列でしかないのに、この書店だけが鮮明に見える。
扉は開いていた。
いや、扉があったかどうかも定かではない。
ただ、中へ入れることだけは確かだった。
三崎は吸い込まれるように店内へ足を踏み入れた。
書店の中は外とはまったく違う空気に満ちていた。
古い紙の匂い、インクの香り、埃っぽさ。
五感が急に鮮明になったような錯覚。
天井まで届く本棚が、迷路のように入り組んでいる。
本の背表紙には見たこともない文字が刻まれていた。
曲線と直線が複雑に絡み合い、生き物のように蠢いて見える文字。
カウンターの上に一冊の雑誌が置かれていた。
表紙には奇妙な図形が描かれている。
螺旋と円が幾重にも重なり、見ているだけで目眩がしそうな模様。
三崎は静かにそれを手に取った。
ページを開く。
文字が頭に直接流れ込んでくる。
理解できないはずの言語が、なぜか"分かる"。
しかし、次の瞬間には忘れている。
水のように、砂のように、掴もうとすればするほど指の間からこぼれ落ちていく情報。
ページは勝手にめくられていく。
最終ページに、一枚の絵があった。
巨大なチェス盤とその上で動き回る小さな駒たち。
そして、盤上を見下ろす顔のない巨大な影。
三崎は静かに理解した。
“これ”が何かを。
自分たちが何に巻き込まれているのかを。
山本の顔が脳裏に浮かぶ。
同級生、そして名前も知らない多くの人々も。
「……そうか」
呟いた瞬間、世界が変わり始めた。
◆
色が抜け落ちていく。
最初は本の表紙から。
まるで水彩画に水を垂らしたように、色彩が流れ落ちていく。
赤は薄いピンクになり、やがて白へ。
青は水色を経て、透明へ。
すべての色が漂白されていく。
本棚も、壁も、床も。
色を失い、輪郭だけが残る。
そして、その輪郭すらも次第にぼやけていく。
三崎は静かに書店を出た。
外の世界も崩壊を始めていた。
建物が透明になり、骨組みだけが見える。
そしてその骨組みも粉々に砕け、風もないのに散っていく。
顔のない人々はもはや人の形すら保っていない。
ただの靄のような存在になり、やがて完全に消失する。
地面が消える。
空が消える。
すべてが白い虚無へと還っていく。
そして──三崎自身も。
足先から消えていく。
最初は靴が透明になり、次に足首、脛、膝。
痛みはない。
ただ、存在が希薄になっていく感覚だけがある。
腰が消え、腹が消え、胸が消えていく。
同時に、感情も薄れていく。
恐怖が最初に消えた。
次に悲しみ。
希望も、絶望も、喜びも、すべてが色褪せていく。
記憶も朧げになっていく。
家族の顔、友人の名前、大切だったはずの思い出。
すべてが霧の向こうへと遠ざかっていく。
三崎玲人という個人を形作っていたすべてが、解体されていく。
しかし──。
ただ一つだけ、消えないものがあった。
怒り。
理不尽への、純粋な憤怒。
体が透明になり、意識が拡散していく中で、その怒りだけは赤く、熱く、激しく燃え続けていた。
いや、むしろ他のすべてが消えていくからこそ、怒りはより鮮明に──より強烈になっていく。
山本を奪われた怒り。
多くの命が弄ばれたことへの怒り。
この不条理な運命への、抑えきれない激情。
腕が消え、肩が消え、首が消えていく。
もはや三崎玲人という存在は、ほとんど残っていない。
それでも怒りは消えない。
むしろ肉体という器を失ったことで、より純粋な感情の炎となって燃え上がる。
白い虚無の中で赤い炎だけが揺らめいている。
形のない、しかし確かに存在する憤怒の炎。
それは消えゆく世界、いや、“これ”を仕掛けた存在に対する抵抗だった。
“例え僕がどうなったとしても”
炎に言葉が話せるならば、きっとそう言っていただろう。
“必ず”
“必ず”
白い闇が、すべてを呑み込もうとしている。
しかし赤い炎は消えない。
小さく、しかし激しく、煌々と燃え続けている。
やがて──。
すべてが白に呑まれた。