目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第101話「セカイ」

 ◆


 三崎は掌の中で脈動する魔石を見つめた。


 熱を帯びた石が、まるで心臓のように鼓動している。


 赤、青、緑、黄──異なる色の光が、生き物のように蠢いていた。


 ──どうせなら、限界まで


 決意と共に、三崎は複数の魔石を同時に握りしめた。


 石の表面が焼けるように熱く、掌の皮膚が悲鳴を上げる。


「三崎、お前まさか……」


 陣内の警告めいた声が聞こえたが、もう遅い。


 魔石のエネルギーが奔流となって三崎の体内へ流れ込む。


 灼熱と極寒が同時に体を貫き、視界が激しく明滅した。


 骨の髄まで震えるような感覚。


 血管の中を溶岩と氷河が同時に流れているような──。


 内臓が捻じれ、筋肉が引き裂かれるような激痛が全身を駆け巡る。


 しかし痛みはすぐに遠のいていった。


 まるで痛覚を司る神経そのものが焼き切れてしまったかのように。


 そして次の瞬間──すべてが、消えた。


 ◆


 三崎は目を開けた。


 いや、目を開けたという感覚すら曖昧だった。


 瞼があるのか、眼球があるのか、それすらも定かではない。


 ただ、何かを"見ている"という認識だけがある。


 瓦礫と血と硝煙の匂いに満ちた戦場は、どこにもなかった。


 代わりにあったのはどこまでも続く白い虚無。


 上も下も、右も左も判別できない空間に三崎はただ一人立っていた。


 いや、立っているのだろうか。


 足の感覚がない。


 地面の感触もない。


 ただ宙に浮いているような、それでいて何かに支えられているような奇妙な感覚だけがある。


「……ここは」


 声を出したつもりだったが音は聞こえなかった。


 いや、聞こえたような気もする。


 自分の声なのか、誰か別の声なのか、それとも声ですらないのか。


 すべてが曖昧で境界線が溶けているような感覚。


 白い虚無は完全な静寂に包まれていた。


 風の音も自分の呼吸音も何も聞こえない。


 まるで音という概念そのものが存在しない世界。


 三崎は自分の手を見下ろした。


 そこにあるはずの手は輪郭だけがぼんやりと見える程度で、実体感がない。


 半透明で向こう側の白い虚無が透けて見える。


 指を動かすと、残像のように軌跡が空中に残り、ゆっくりと消えていく。


 ──僕は、まだ存在しているのか? 


 疑問が浮かぶがその疑問すら霧のように拡散していく。


 思考することが困難になっていく。


 まるで、意識そのものが薄められていくような感覚。


 ◆


 どれくらいの時間が経ったのか。


 そもそもこの空間に時間という概念があるのか。


 白い虚無に変化が生じた。


 遠くから何かが近づいてくる。


 最初は点のようだったそれが、次第に形を成していく。


 建物だった。


 コンビニ、オフィスビル、マンション、学校。


 見慣れた都市の風景が、まるで蜃気楼のように浮かび上がってくる。


 しかし何かが違う。


 建物は確かにそこにあるのに、どこか平面的で奥行きが感じられない。


 まるで精巧に描かれた舞台の書き割りのようだ。


 赤黒い蔦も、崩壊の跡も、モンスターの姿もない。


 ただ、普通の東京の街並みがそこにあった。


 それも妙に整然として、塵一つ落ちていない。


 人工的で生命感のない街。


 三崎は──いや、三崎だったものは、その街へと引き寄せられるように動き始めた。


 歩いているのか、浮遊しているのか、それすらも判然としない。


 ただ景色が近づいてくる。


 あるいは、景色の方が三崎に近づいてきているのかもしれない。


 ◆


 街の中に入ると人影が見えた。


 サラリーマン、学生、主婦、子供。


 皆、いつものように歩いている。


 規則正しく、機械的に。


 まるで決められたルートを永遠に歩き続ける人形のように。


「すみません」


 三崎は近くを通り過ぎた男性に声をかけた。


 しかし声は空気を震わせることなく、ただ虚空に吸い込まれていく。


 男性は振り返ることもなく、同じペースで歩き続ける。


「あの、すみません!」


 三崎は別の者に声をかけた。


 しかし──


 その横顔を見て三崎は息を呑んだ。


 顔がない。


 正確には、顔があるべき場所にのっぺりとした肌色の楕円があるだけ。


 目も鼻も口もない。


 ただ、顔の形をした空白。


 他の人々も同じだった。


 皆、顔のない人形のように同じリズムで歩き続けている。


 足音もなく、会話もなく、ただ移動するだけの存在。


 三崎は手を伸ばして、通行人の肩に触れようとした。


 しかし手は何の抵抗もなく通り抜ける。


 相手が幻なのか、あるいは自分が幻なのか。


 街は不気味なほど静かだった。


 車の音も、鳥の声も、風の音さえもない。


 ただ、無音の中を顔のない人々が行き交うだけ。


 空を見上げると、そこには何もなかった。


 青でも灰色でもない、ただの虚無。


 太陽も月も星もない、光源の分からない均一な明るさだけがある。


 ◆


 ふと、書店の看板が目に入った。


『知識の泉』


 この街で唯一、文字がはっきりと読める看板だった。


 他の店の看板は、ぼやけた記号の羅列でしかないのに、この書店だけが鮮明に見える。


 扉は開いていた。


 いや、扉があったかどうかも定かではない。


 ただ、中へ入れることだけは確かだった。


 三崎は吸い込まれるように店内へ足を踏み入れた。


 書店の中は外とはまったく違う空気に満ちていた。


 古い紙の匂い、インクの香り、埃っぽさ。


 五感が急に鮮明になったような錯覚。


 天井まで届く本棚が、迷路のように入り組んでいる。


 本の背表紙には見たこともない文字が刻まれていた。


 曲線と直線が複雑に絡み合い、生き物のように蠢いて見える文字。


 カウンターの上に一冊の雑誌が置かれていた。


 表紙には奇妙な図形が描かれている。


 螺旋と円が幾重にも重なり、見ているだけで目眩がしそうな模様。


 三崎は静かにそれを手に取った。


 ページを開く。


 文字が頭に直接流れ込んでくる。


 理解できないはずの言語が、なぜか"分かる"。


 しかし、次の瞬間には忘れている。


 水のように、砂のように、掴もうとすればするほど指の間からこぼれ落ちていく情報。


 ページは勝手にめくられていく。


 最終ページに、一枚の絵があった。


 巨大なチェス盤とその上で動き回る小さな駒たち。


 そして、盤上を見下ろす顔のない巨大な影。


 三崎は静かに理解した。


 “これ”が何かを。


 自分たちが何に巻き込まれているのかを。


 山本の顔が脳裏に浮かぶ。


 同級生、そして名前も知らない多くの人々も。


「……そうか」


 呟いた瞬間、世界が変わり始めた。


 ◆


 色が抜け落ちていく。


 最初は本の表紙から。


 まるで水彩画に水を垂らしたように、色彩が流れ落ちていく。


 赤は薄いピンクになり、やがて白へ。


 青は水色を経て、透明へ。


 すべての色が漂白されていく。


 本棚も、壁も、床も。


 色を失い、輪郭だけが残る。


 そして、その輪郭すらも次第にぼやけていく。


 三崎は静かに書店を出た。


 外の世界も崩壊を始めていた。


 建物が透明になり、骨組みだけが見える。


 そしてその骨組みも粉々に砕け、風もないのに散っていく。


 顔のない人々はもはや人の形すら保っていない。


 ただの靄のような存在になり、やがて完全に消失する。


 地面が消える。


 空が消える。


 すべてが白い虚無へと還っていく。


 そして──三崎自身も。


 足先から消えていく。


 最初は靴が透明になり、次に足首、脛、膝。


 痛みはない。


 ただ、存在が希薄になっていく感覚だけがある。


 腰が消え、腹が消え、胸が消えていく。


 同時に、感情も薄れていく。


 恐怖が最初に消えた。


 次に悲しみ。


 希望も、絶望も、喜びも、すべてが色褪せていく。


 記憶も朧げになっていく。


 家族の顔、友人の名前、大切だったはずの思い出。


 すべてが霧の向こうへと遠ざかっていく。


 三崎玲人という個人を形作っていたすべてが、解体されていく。


 しかし──。


 ただ一つだけ、消えないものがあった。


 怒り。


 理不尽への、純粋な憤怒。


 体が透明になり、意識が拡散していく中で、その怒りだけは赤く、熱く、激しく燃え続けていた。


 いや、むしろ他のすべてが消えていくからこそ、怒りはより鮮明に──より強烈になっていく。


 山本を奪われた怒り。


 多くの命が弄ばれたことへの怒り。


 この不条理な運命への、抑えきれない激情。


 腕が消え、肩が消え、首が消えていく。


 もはや三崎玲人という存在は、ほとんど残っていない。


 それでも怒りは消えない。


 むしろ肉体という器を失ったことで、より純粋な感情の炎となって燃え上がる。


 白い虚無の中で赤い炎だけが揺らめいている。


 形のない、しかし確かに存在する憤怒の炎。


 それは消えゆく世界、いや、“これ”を仕掛けた存在に対する抵抗だった。


 “例え僕がどうなったとしても”


 炎に言葉が話せるならば、きっとそう言っていただろう。


 “必ず”


 “必ず”


 白い闇が、すべてを呑み込もうとしている。


 しかし赤い炎は消えない。


 小さく、しかし激しく、煌々と燃え続けている。


 やがて──。


 すべてが白に呑まれた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?