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「楊貴妃」を妻にした皇太子候補 ~父である皇帝にNTRされ、モブ王子に転落!~
「楊貴妃」を妻にした皇太子候補 ~父である皇帝にNTRされ、モブ王子に転落!~
城作也
歴史・時代外国歴史
2024年11月21日
公開日
5万字
完結済
楊貴妃は、唐の玄宗皇帝の妻として中国史に登場するが、最初は別の人物の妻となった。 これは、その人物を中心にした、恋と友情と反逆の物語。

第1話 盗み食い

 朱塗りの回廊に沿って歩みを進める寿王の足音は、静かな屋敷の中に微かに響いた。日々の政務を終え、ようやく自室に戻る時間が訪れた。長い一日の疲れを癒すためにも、彼が心待ちにしていた甘美な蜜団子の菓子が今日も自分を待っているだろうと思いながら、寿王は扉に手をかけた。


 室内に足を踏み入れた瞬間、何かがおかしいと直感した。普段と異なる空気が漂っている。視線を菓子の置かれた翡翠の台へと向けると、そこには開けられた菓子箱と、減った蜜団子が横たわっていた。


 自分がいつも楽しみにしていた蜜団子の菓子が、留守中に誰かに食べられている事に、寿王はすぐに気が付いた。窓から差し込む夕日の光が、菓子箱の上を赤く照らしていた。


「まさか…」寿王は眉をひそめ、静かに箱に近づいた。「これは何事か」


 皇帝の子である自分に対して、随分大胆な真似をする。始めはそう怒り、盗み食いの犯人を突き止めようと思った。誰が自分の菓子に手をつけるほどの不敬を働いたのか。怒りが胸の内に渦巻いた。


 燭台の火を灯しながら、寿王は部屋の隅々まで目を配った。侵入者の痕跡はないか、何か落とし物はないか。しかし、菓子が減っていること以外に異常は見当たらなかった。


「どうやって入ったのだろう」寿王は窓辺に立ち、庭を見下ろした。「警護の目を掻い潜るとは…」


 しかし、思案するうちに寿王の心境は変化していった。


 毎日が退屈だった。権力の座に近い自分に言い寄って来る者は多いが、挑戦して来る者というのは初めてであった。ひょっとしたら刺客の類かもしれないが、これも縁だから付き合ってみるか。寿王はそう思い直し、菓子箱の中身を補充しておいた。


「さて、次はいつ来るかな」寿王は微笑みを浮かべながら、新しい蜜団子を丁寧に箱に並べた。「待っているぞ、盗人め」


 五日が経った。菓子は毎日食われ、だんだんその量も増えている。最初は一つだけだったのが、今では三つも四つも減っていた。しかし他の物には手を付けていないし、自分の身に危険が及びそうな気配も無かった。


 窓の外では、中庭の梅の花が散り始めていた。白い花びらが地面に舞い落ち、こぼれた雪のように美しい。寿王は窓辺に立ち、しばし景色を眺めながら思案した。


「いったい誰だろう」寿王は指で窓枠を叩きながら呟いた。「かなり大胆な奴だな」


 寿王はその日、また菓子を補充するついでに、紙片にこう書いて入れた。

「大胆不敵なり。今日は毒を入れた」


 筆を置きながら満足げに頷いた。相手が調子に乗っているのが癪に触ったのだ。もちろん毒など入れてはいない。ただの脅しに過ぎなかった。


「これで様子を見よう」寿王は紙片を菓子の上に置き、箱を閉じた。


 翌日、朝日が昇る頃に目を覚ました寿王は、すぐに菓子箱のもとへと向かった。心臓が高鳴る。相手はどう反応したか、それともこれで盗みは止んだか。


 箱を開けてみると、それでも菓子は食われていた。そして紙片が入っている。寿王が開いて見ると、墨の香りのする新しい紙片に、端正な文字でこう書かれてあった。

「ならば命懸けで」


 寿王は思わず笑いだした。あっさり見抜かれたようだ。その率直さと大胆さに、妙な親近感を覚えた。笑いながらふと扉の方を見ると、一人の女官が立っているのが映った。


 その女官は、すらりとした身のこなしながらも、どこか力強さを感じさせる佇まいだった。寿王の視線に気づくと、彼女は一歩前に出た。


「お前は確か、……ええと、李だったな?」寿王は、思い出すように言った。


 女官は木でも折るように、堅い動きで礼をした。背筋を伸ばし、視線を床に落としながらも、その姿勢には威厳があった。


「はい、寿王様。李蒼天と申します」彼女の声は明瞭だが、柔らかな響きを持っていた。


 寿王は彼女をしばらく見つめてから、ゆっくりと近づいた。部屋に差し込む朝日が、蒼天の横顔を優しく照らしていた。


「まさかとは思うが蒼天、菓子を食っていたのはお前か?」寿王は軽い調子で聞いた。


「はい」蒼天の返答は簡潔で、躊躇いがなかった。


 蒼天の表情に動じた様子はなく、謝る気配もなかった。彼女の目は真っ直ぐに前を見据え、その瞳には一点の曇りもなかった。寿王はちょっとだけ本気で怒った。


「人の物を盗んだくせに、涼しい顔をしているな」寿王は腕を組み、彼女を見下ろすように言った。「私を怒らせてまで、菓子が食いたいか」


 静寂が部屋を満たした。蒼天は手を前で重ね、穏やかに言った。


「甘い物は、本当は嫌いです」


 蒼天は、急に矛盾した事を口にした。菓子箱には甘い物しか入れていない。部屋の空気が一瞬凍りついたように感じられた。彼女は何故嫌いな物を食い続けたのだろう。


「寿王様が」蒼天が静かに言う。「周りの方々にお疲れのようでしたので、刺激になればと思ってやりました」


 彼女の声は小さかったが、明確だった。朝の光の中で、その姿が一層引き締まって見えた。


「何……?」


 寿王は、彼女の意図をすぐには理解できなかった。手を上げかけて、そのまま宙に留まらせた。


「寿王様の御母上は、皇帝陛下の寵愛を集めておられる。だからいずれ寿王様が皇太子に、という噂も大きい。今では皆が、寿王様を金品を見るような目で見ています」


 蒼天は、ずばりと言った。窓の外から小鳥の囀りが聞こえるだけの静かな空間に、彼女の言葉が響いた。寿王は、いきなり鋭い事を言われて動けなくなった。口を開いたが、言葉が出なかった。


「……だったら何だというんだ」ようやく絞り出した言葉は、自分でも弱々しく聞こえた。


「女官が主の菓子を食ったのではなく、人が人の菓子を食っただけです」蒼天は一歩前に出て、真っ直ぐに寿王の目を見た。「仕事としては女官ですが、人を人として見る目は失っていません。それを、お伝えしたかった」


 蒼天の口調は、召使いらしくも女性らしくもない。爽やかな風でも吹いて来そうな言いっぷりだった。それは寿王の心に、久しく感じていなかった何かを呼び覚ました。


「……確かに」寿王はゆっくりと立ち上がった。椅子がきしむ音が静かに響く。「周りには、僕を皇太子に就けて利権を得ようとする輩ばかりだ。だれも僕をただの人間としては見てくれない」


 寿王は寂しく言った。知っていながら、現実を見ないようにしていた自分に腹が立つ。いつの間にか拳を握り、震えていた。部屋の中の空気が重く感じられた。


「それが辛いことは、想像に難くありません」蒼天の声が柔らかく響いた気がしたが、気が付くと、蒼天の姿は消えていた。


 残されたのは、半ば空になった菓子箱と、窓から射し込む朝の光だけだった。寿王は長い間、彼女の去った扉を見つめていた。


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