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15-3

「おやぁ、いらっしゃい。どうしたの、ふたりそろって」

「猛さん、こんちゃっす!」

「こんちは、猛さん。風太と出かけてたら、帰りに雨に降られちゃって。傘、貸してもらえませんか」

「あぁ、そうだったんだ。それはそれは。大変だったねぇ。ふたりで、どこ行ってたの?」

「水族館です」

「ふうん……。水族館ねぇ……」


 どうやら見たところ、院内に患者はいないようだ。奥の個室をのぞいてみても、やはり、人の気配はない。風太は首をかしげる。普段なら、土曜日は予約がいっぱいで、そうでなくても、当日予約が入ったり、問い合わせの電話が鳴ったりして、かなり混み合うのだと聞いているのに、今日はずいぶんと閑散かんさんとしている。この雨で、キャンセルが大量に出たのかもしれないが、それにしても、妙だ。風太は不思議に思い、たずねた。


「猛さん。今日なんか、院内静かっすね」

「あぁ、今朝の天気予報で、夕方から強い雨って言ってたからね。午後の患者さんは、みんな午前中に移ってもらったんだ。――ほら、近頃って、雨って言っても滝みたいに降るでしょう。足下悪くなるし、患者さん濡れちゃったらかわいそうだからね」

「なるほど、たしかに……」

「もともと、今日は院長も雅さんも不在だったんで、予約数はかなり少なくしてあったから、ちょうどよかったよ。院長からは、さっき連絡あったんだ。夕方、あんまりヒマだったら早めに上がっちゃっていいってさ」


 そう言って、猛はピースサインをふたりに見せて、にやりと笑った。嬉しそうに鼻歌を唄う彼を前に、風太はふと、彼が剣道部顧問の烏丸と同棲中だということを思い出す。きっと、早く帰って、烏丸に会いたいのだろう。全身からにじみ出る幸せオーラと、ほくほくした猛の笑顔は今、神々こうごうしいほどにまぶしく見えた。


「ヤチさん、今日は午後オフだって言ってたからさ。僕、今日早く帰りたかったんだよねー」


 そう言いながら、猛はゴキゲンで待合の奥にある、縦長の収納スペースの扉を開け、中をごそごそとあさりはじめる。その大きな背中をぼんやりと眺めながら、風太は妄想した。


 ひとつ屋根の下で暮らしながら、毎朝、毎晩、食卓を囲んで笑い合い、太郎と雅のように仲良く晩酌をする、猛と烏丸の姿を。


 カミングアウトされたときは、ほんとにビビったけど……、でも、猛さん、烏丸先生と一緒にいられて、めちゃくちゃ幸せなんだろうな……。


 もし、風太が一星の想いにこたえたとしたら。たとえば、彼もこんなふうに笑ったりするのだろうか。風太と過ごす時間に、心を弾ませたりもするのだろうか。そんなことをぼんやりと妄想しはじめた時だ。猛が思い出したように「あぁっ」と声を上げる。


「そうだったぁ……! ふたりとも、ごめん! 傘は貸せるんだけどさ……、今、一本しかないんだ」


 一本しかない、という猛の言葉に、風太は思わず、身をこわばらせ、ごくんと生唾なまつばを飲んだ。ふたりいるのに、傘が一本ということは、つまり。風太は一星と相合傘をして、帰宅することになる。


「一本……?」

「いやぁ、ついさっき、予約だけしに来た患者さんが帰るときになって、ちょうど降り出してね。傘を持ってなかったから、一本貸しちゃったんだよ。ちょっと前まで、もっといっぱいあったんだけど、この前、古いのはみんな整理しちゃったから――……」

「大丈夫です、一本で。助かります」


 一星はそう言って、猛から傘を受け取った。風太も猛に頭を下げる。傘を貸してもらえるなら、一本だって十分ありがたい。けれど、一星と相合傘をして帰るのを想像すると、風太の心臓はたちまち強く波打ちはじめる。これがまったくわずらわしいのだ。


 ただ、おんなじ傘の下に入って、歩いて帰るだけだろ。相合傘がなんだ……。一星がなんだ……。いちいちドキドキすんじゃねえ、おれ……!


 そう言い聞かせてみても、むしろ心臓の音は大きくなる一方だった。風太は参ってしまう。どうして、いつから自分はこうなのだろう。水族館ではノスタルジーに浸りながら、一星が大事な存在だということを改めて感じ、帰り道では狙ったように雨に降られ、相合傘でしっかりドキドキさせられる。これではまるで、風太が一星に惚れ込んでいるみたいだ。


「風太、これ以上ひどくなる前に、早く帰ろう」

「お、おう……」


 入り口の扉で青い傘を開き、一星が風太に声をかける。風太は頷き、緊張気味に青い傘の下に入った。一応は大人の、男性用の傘のようだが、風太と一星がふたり一緒に入るには、やや窮屈で、肩が触れるのを意識すると、どうしても反対側の肩が、傘の下からはみ出て、濡れてしまう。幸い夏の雨なので、さほど冷たいわけでもないが、それでも時間が経てば、それなりに体は冷えそうだ。


「ごめんねぇ、いざってときに一本しかなくって……」


 猛は入り口の扉まで、風太と一星を見送り、申し訳なさそうに言った。風太は振り返り、親指をぐっと立てて見せる。


「だ、大丈夫っす!」

「風邪ひかないようにね。服が濡れたら、ちゃんと着替えるんだよ」

「はい。すみません、猛さん。お借りします。――行くぞ、風太」

「おう……!」


 手を振る猛に会釈えしゃくをして、風太と一星は、相合傘で再びどしゃぶりの町へ出る。そうして、ようやく帰路についた。だが、歩き始めて、すぐ、気分がげんなりしてしまう。それほど、ひどい雨だった。


 ばらばらと雨音が響く傘の下、風太は、ちら、と一星に目をやり、途端にまゆをしかめる。一星の肩は、傘の下から大きくはみ出て、すでにぐっしょりと濡れている。


「お前……、肩んとこ、すげえ濡れてんぞ。もうちょっとこっち来れば」

「俺は平気だよ」

「平気って……、でも――」

「俺はお前が、濡れなきゃいいから」


 一星はそう言った。さらっと、抑揚よくようのない声で。だが、スルーするには、あまりに甘いセリフだ。たちまち、雨で冷え始めていた体が、ぶわっと熱を持つ。風太は返事もできないまま、また、彼の顔をちら、と気にした。その頬は――……気のせいだろうか。わずかに赤らんで見える。それを見れば、もう、風太は恥ずかしくてたまらなかった。


 一星のくそったれ……! 死ぬほど恥ずかしいじゃねえかよ……!


 本当なら、今すぐこの相合傘を逃げだしたいのに、この大雨のせいでそういうわけにもいかず、かといって、「ありがとう」なんて、絶対に言えない。風太はただ、顔を赤くして、彼の隣を大人しく歩くことしかできなかった。


 ほんのわずか、肩が触れるだけで、体温が上がる。体が火照ほてっているせいか、体じゅうにはじわじわと汗がにじみ出す。すると、ほどなくして一星がたずねた。


「風太、汗すごいけど……。大丈夫か?」

「あぁ……?」


 それにはさすがに「てめえのせいだろ」と返してやったが、一星は首をかしげ、だがすぐに、ふっと笑みを浮かべた。なんだか彼はやけに――嬉しそうだ。


「そうか。俺と相合い傘じゃ、やっぱ恥ずかしいよな。ごめんな」


 この余裕たっぷりな表情にはまったく腹が立つのだ。ただ――。


「べつに……。謝ってもらわなくたっていいし」


 同時に好ましくも思う。――とはいえ、やはり猛烈に恥ずかしくて、とてもじゃないが素直になれず、風太は口を尖らせ、彼の隣を歩いた。心臓の鼓動は、鬱陶うっとうしい雨音のように、少しも穏やかになってくれない。むしろどんどん強くなっていった。

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