梅雨が明けた、七月下旬。学校はすでに夏休みに入っている。期末テストは、あいかわらず散々な結果で終え、しっかり担任には叱られるハメになった。だが、風太は無理もないと思っている。なにしろ、期末テストの期間に入ってからは、とても勉強どころではなかったのだ。
「はぁ……ッ、はぁ……」
風太は今、海沿いの道を、自宅から江ノ島へ向かって走っている。自主トレーニングだ。すでに部活動を引退し、これからは、頭も体も受験に切り替えなければいけないわけだが、稽古には行かなくなった分、体はどんどん
風太は、江ノ島へ続く橋を目指して走る。だが、走りながら、ふと脳裏に響く声に、呼吸のリズムが狂った。
――お前が欲しいよ、風太。
ランニングで浅くなった呼吸が乱れ、心臓はぎゅっと
ランニングの途中で、突然に立ち止まるのはよくない。急激な呼吸や体のリズムの変化で、心臓に負担がかかるからだ。ただし今、風太の胸が激しく鼓動しているのも、苦しいのも、ランニングのせいではなかった。夏の暑さのせいでもないし、体が
風太は、この
くっそー……。全部……、全部アイツのせいだ……!
先日、風太は一星に誘われ、新江ノ島水族館へ出かけた。選択肢をいくつか出されていたうち、三番目の選択肢だったそこは、一星が風太と行きたかった場所だったようだ。
水族館にも、魚にもあまり興味はなかった風太だが、いざ行けば、案外と楽しかった。帰りは突然の雨に降られ、みなもと接骨院で一本の傘を借り、相合傘で帰宅したのも、ちょっと照れくさかったが、嫌ではなかったし、そのあと、彼が家で作ってくれたソース焼きそばは最高においしかった。その夜は疲れていたはずなのに、なぜか妙に興奮してしまって、いつも通りに眠る気にはなれなくて、一星と一緒に夜ふかしをした。問題は、その後だった。
おれを部屋まで、お、お……、お姫さま抱っこで運んだあと……、あのセリフって……。アイツ、ほんとに信じらんねぇ……!
たしかにソファで映画を観ていたはずなのに、いつの間にか、風太は眠ってしまっていたらしい。だが、ひとりで自室まで戻った記憶はないから、おそらくはソファに座ったまま、居眠りをしていたのだ。ところが、夢と現実の、ちょうど狭間を
――とはいえ、それを目で見たわけではない。意識だけがはっきりした状態で、たしかな気配を感じたのだ。すぐに目を開けられなかったのは、それが一星だと気付いたからだった。
その状況には一瞬、混乱したが、すぐに彼が運んでくれたのだとわかった。以前、足をくじいた風太を、心配しておぶってくれたことがあったと、思い出したからだ。ただし、ふたりで夜ふかしをしたあと、部屋におぶられて運ばれたところで、目を覚ますのも、どうも気恥ずかしくて、ぐっすり眠っているフリをした。ところが、次の瞬間。一星は、風太の手を握ったのだ。
やべえ……。また思い出しちまった……。
その手の柔らかさと温もり、それから、握ったあと、優しく手の甲を
――大好きだよ、風太……。
風太の思考は、そこで完全に固まってしまった。驚いて、目を開けなかったのが奇跡だ。幸いそのあと、一星はすぐに部屋を出て行ったが、風太はホッとして再び眠ることなどできるはずもなく、ぱっちりと目を覚まし、起き上がった。そうして、部屋の扉に耳を当て、一星が階段を下りていったのを確認したあとで、ようやく、はぁっと深くため息を
心臓の鼓動がうるさくて、体が揺れているような感覚が忘れられない。おかげでその夜、風太はそれから一睡もできなかった。
どう考えても、あれから変だ……。一星といると、なんか変に緊張するし、イライラする。特に、アイツがほかの誰かと話したりしてると――……。
途端にむしゃくしゃして、その場に一緒にいるのさえ、嫌になる。こんなふうになったのは、どう考えてもあの夜のことが原因だ。もっと言えば、その翌日。寝不足で昼過ぎになって、やっと起き出した風太は、昨夜、このベッドに運んでくれた一星に、お礼を言った。再びおぶられたなんて、恥ずかしくてたまらなかったが、お礼はちゃんと言うべきだと思ったからだ。しかし、その数秒後。風太はそれに後悔した。一星は頬を少し赤らめ、こう言ったのだ。
――あぁ……。ただ、爆睡してたから、お姫さま抱っこしたんだけど、お前って、すっげえ重いのな。
一星のくそったれ! あのときは、恥ずかしくて死ぬかと思いました……!
おんぶだってかなり恥ずかしいのに、お姫さま抱っこされていたなんて、信じられない。風太はもう開いた口がふさがらず、しばらくなにも言えなかった。だが、一星はかなり満足げに笑い「猛さんよりは軽かったけどね」と、冗談めかした口調で、付け足したのだ。いや、そんなことはどうでもいい。問題は、お姫さま抱っこももちろんだが、そのあと、一星が風太にしたことと、それにまさか、ドキドキしてしまった自分自身。それから、あれ以来、ずっと続いている、この
思い出すと、やべえんだよな……。なんか、妙に顔まわり熱くなるし、ドキドキするし……。一星の顔、ちゃんと見れなくなる……。
この
やっぱ、これって……。そういうことなのか……。
あのとき、風太は違和感を得ていた。一星をそれまでのように、嫌っている、とまでは言えなくても、恋愛感情は一切なかったからだ。しかし、今は違っている。
太一に「脈アリ」と言われたときも、まさか、と驚きはしたものの、否定はできなかった。そして、先日。ふたりで水族館へ行ったのも、焼きそばを食べたのも、夜ふかしをしたのも、あまりに楽しかったせいか、風太が眠ったあとの、真夜中の一星の行動に、風太はたまらなくドキドキしてしまった。
その
一星と付き合って……、しばらくは楽しいのかもしれない。でも、そのあと、おれたちはどうなるんだよ……。
風太と一星は、同性同士だ。風太は恋愛経験なんか、
加えて、風太と一星は、このままいけば、義理の兄弟になる。恋愛関係になったとして、その関係が続けば、いずれ雅と太郎に打ち明けることになるのかもしれない。彼らの反応によっては、家族がバラバラになってしまわない、とも限らない。できれば、それは
それは、すでに太郎と一星が、風太と雅にとって大切な家族になっているから――というのもあるが、それよりも。おそらく一星たちにとっても、そこは同じだと思うからだ。特に、誰とも血の繋がりがない一星にとって、家族の不和ほど悲しいことはない。そんなストレスで彼が苦しむ姿なんて、風太は絶対に見たくなかった。
そもそも、高校卒業したら、アイツはどうせ、すげえエリートな大学に行くんだろ。おれは、たぶん――……、アイツと同じ大学なんか行けねえし、すぐ離れ離れじゃん。
それを思うと、途方もなく寂しくなるのとともに、なぜか胸の奥が、ズキ、と痛んだ。東京の大学に行ったら、通うのは大変だろうから、彼は寮に入るか、一人暮らしをするのかもしれない。きっと大学では、新しい出会いがたくさんある。彼のことだから、異性には相当モテるだろうし、もしかしたら、風太よりもずっと合う相手が見つかるかもしれない。
もっと言えば、風太の進路次第では、遠距離になることだって考えられる。そう思ったとき、ハッとした。一星とこうして一緒にいられるのは、もうあと半年ほどなのだ。
そっか……、おれたちの、今の関係って……。そもそも期間限定なんじゃん……。