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18 絆された心

 梅雨が明けた、七月下旬。学校はすでに夏休みに入っている。期末テストは、あいかわらず散々な結果で終え、しっかり担任には叱られるハメになった。だが、風太は無理もないと思っている。なにしろ、期末テストの期間に入ってからは、とても勉強どころではなかったのだ。


「はぁ……ッ、はぁ……」


 風太は今、海沿いの道を、自宅から江ノ島へ向かって走っている。自主トレーニングだ。すでに部活動を引退し、これからは、頭も体も受験に切り替えなければいけないわけだが、稽古には行かなくなった分、体はどんどんなまってしまう。風太は、卒業後も剣道を続けていきたいと思っているし、なんならその経験を活かした進路を考えている。受験や、それに備えるための勉強の大切さもわかっているつもりではあるものの、やはり、体力や筋力は、維持していきたいところではあった。


 風太は、江ノ島へ続く橋を目指して走る。だが、走りながら、ふと脳裏に響く声に、呼吸のリズムが狂った。


 ――お前が欲しいよ、風太。


 ランニングで浅くなった呼吸が乱れ、心臓はぎゅっとつかまれたように苦しくなる。思わず立ち止まってしまったが、あまりの苦しさにひざに手をつき、下を向いて必死に呼吸する。そうして、すぐに歩き出した。


 ランニングの途中で、突然に立ち止まるのはよくない。急激な呼吸や体のリズムの変化で、心臓に負担がかかるからだ。ただし今、風太の胸が激しく鼓動しているのも、苦しいのも、ランニングのせいではなかった。夏の暑さのせいでもないし、体がなまってしまったわけでもない。


 風太は、このわずらわしさを振り払うつもりで、さっき、涼しい家を飛び出し、ランニングに出てきたのだ。


 くっそー……。全部……、全部アイツのせいだ……!


 先日、風太は一星に誘われ、新江ノ島水族館へ出かけた。選択肢をいくつか出されていたうち、三番目の選択肢だったそこは、一星が風太と行きたかった場所だったようだ。


 水族館にも、魚にもあまり興味はなかった風太だが、いざ行けば、案外と楽しかった。帰りは突然の雨に降られ、みなもと接骨院で一本の傘を借り、相合傘で帰宅したのも、ちょっと照れくさかったが、嫌ではなかったし、そのあと、彼が家で作ってくれたソース焼きそばは最高においしかった。その夜は疲れていたはずなのに、なぜか妙に興奮してしまって、いつも通りに眠る気にはなれなくて、一星と一緒に夜ふかしをした。問題は、その後だった。


 おれを部屋まで、お、お……、お姫さま抱っこで運んだあと……、あのセリフって……。アイツ、ほんとに信じらんねぇ……!


 たしかにソファで映画を観ていたはずなのに、いつの間にか、風太は眠ってしまっていたらしい。だが、ひとりで自室まで戻った記憶はないから、おそらくはソファに座ったまま、居眠りをしていたのだ。ところが、夢と現実の、ちょうど狭間を彷徨さまよっていたところで、甘い声に呼びかけられて、風太は気が付いた。そこが自室のベッドの上だということ。そして、すぐそばに、誰かが立っていること。


 ――とはいえ、それを目で見たわけではない。意識だけがはっきりした状態で、たしかな気配を感じたのだ。すぐに目を開けられなかったのは、それが一星だと気付いたからだった。


 その状況には一瞬、混乱したが、すぐに彼が運んでくれたのだとわかった。以前、足をくじいた風太を、心配しておぶってくれたことがあったと、思い出したからだ。ただし、ふたりで夜ふかしをしたあと、部屋におぶられて運ばれたところで、目を覚ますのも、どうも気恥ずかしくて、ぐっすり眠っているフリをした。ところが、次の瞬間。一星は、風太の手を握ったのだ。


 やべえ……。また思い出しちまった……。


 その手の柔らかさと温もり、それから、握ったあと、優しく手の甲をでられた感触は、今もしっかり記憶に残っている。もう、頭の中は真っ白だった。心臓が急激に高鳴って、どうにかなってしまいそうで、だが、あまりにそれがうるさいものだから、起きていることを気付かれてしまいそうで、たまらなく緊張した。しかし、そんな風太に、さらにとどめを刺すように、一星はその手に口づけ、ささやいたのだ。


 ――大好きだよ、風太……。


 風太の思考は、そこで完全に固まってしまった。驚いて、目を開けなかったのが奇跡だ。幸いそのあと、一星はすぐに部屋を出て行ったが、風太はホッとして再び眠ることなどできるはずもなく、ぱっちりと目を覚まし、起き上がった。そうして、部屋の扉に耳を当て、一星が階段を下りていったのを確認したあとで、ようやく、はぁっと深くため息をき、頭をかかえ、その場にしゃがみ込んだのだ。


 心臓の鼓動がうるさくて、体が揺れているような感覚が忘れられない。おかげでその夜、風太はそれから一睡もできなかった。


 どう考えても、あれから変だ……。一星といると、なんか変に緊張するし、イライラする。特に、アイツがほかの誰かと話したりしてると――……。


 途端にむしゃくしゃして、その場に一緒にいるのさえ、嫌になる。こんなふうになったのは、どう考えてもあの夜のことが原因だ。もっと言えば、その翌日。寝不足で昼過ぎになって、やっと起き出した風太は、昨夜、このベッドに運んでくれた一星に、お礼を言った。再びおぶられたなんて、恥ずかしくてたまらなかったが、お礼はちゃんと言うべきだと思ったからだ。しかし、その数秒後。風太はそれに後悔した。一星は頬を少し赤らめ、こう言ったのだ。


 ――あぁ……。ただ、爆睡してたから、お姫さま抱っこしたんだけど、お前って、すっげえ重いのな。


 一星のくそったれ! あのときは、恥ずかしくて死ぬかと思いました……!


 おんぶだってかなり恥ずかしいのに、お姫さま抱っこされていたなんて、信じられない。風太はもう開いた口がふさがらず、しばらくなにも言えなかった。だが、一星はかなり満足げに笑い「猛さんよりは軽かったけどね」と、冗談めかした口調で、付け足したのだ。いや、そんなことはどうでもいい。問題は、お姫さま抱っこももちろんだが、そのあと、一星が風太にしたことと、それにまさか、ドキドキしてしまった自分自身。それから、あれ以来、ずっと続いている、このわずらわしさだ。


 思い出すと、やべえんだよな……。なんか、妙に顔まわり熱くなるし、ドキドキするし……。一星の顔、ちゃんと見れなくなる……。


 このわずらわしさの原因は、間違いなく一星だ。それは間違いない。そして、思い当たることはなくもないのだ。ここ最近、風太は思い出している。以前、白河に言われた「ほだされている」という言葉を。


 やっぱ、これって……。そういうことなのか……。


 ほだされている――。それは、情にかれて、心がその人に縛られてしまうことだと、白河は話していた。それから彼は、もっとわかりやすく言えば、それは、風太が一星を好きになっていることだ、とも言った。


 あのとき、風太は違和感を得ていた。一星をそれまでのように、嫌っている、とまでは言えなくても、恋愛感情は一切なかったからだ。しかし、今は違っている。


 太一に「脈アリ」と言われたときも、まさか、と驚きはしたものの、否定はできなかった。そして、先日。ふたりで水族館へ行ったのも、焼きそばを食べたのも、夜ふかしをしたのも、あまりに楽しかったせいか、風太が眠ったあとの、真夜中の一星の行動に、風太はたまらなくドキドキしてしまった。


 その余韻よいんが今もまだ、続いている感じだ。おかげで、テスト勉強にはまったく身が入らず、それどころか、一星が自分以外の誰かと親しげにしているのにも、腹を立てていた。ただ、この感情が恋だと認めてしまうのは、ひどく不安だ。だから、風太は今も困惑しながら、行き場を失くした感情を、胸に秘めたままにしている。


 一星と付き合って……、しばらくは楽しいのかもしれない。でも、そのあと、おれたちはどうなるんだよ……。


 風太と一星は、同性同士だ。風太は恋愛経験なんか、つゆほどもないし、ましてや相手が同性となると、まるっきり想像がつかない。猛と烏丸の関係を知っても、それがいざ、自分のこととなると、不安ばかりがつのってしまう。


 加えて、風太と一星は、このままいけば、義理の兄弟になる。恋愛関係になったとして、その関係が続けば、いずれ雅と太郎に打ち明けることになるのかもしれない。彼らの反応によっては、家族がバラバラになってしまわない、とも限らない。できれば、それはけたいところだった。


 それは、すでに太郎と一星が、風太と雅にとって大切な家族になっているから――というのもあるが、それよりも。おそらく一星たちにとっても、そこは同じだと思うからだ。特に、誰とも血の繋がりがない一星にとって、家族の不和ほど悲しいことはない。そんなストレスで彼が苦しむ姿なんて、風太は絶対に見たくなかった。


 そもそも、高校卒業したら、アイツはどうせ、すげえエリートな大学に行くんだろ。おれは、たぶん――……、アイツと同じ大学なんか行けねえし、すぐ離れ離れじゃん。


 それを思うと、途方もなく寂しくなるのとともに、なぜか胸の奥が、ズキ、と痛んだ。東京の大学に行ったら、通うのは大変だろうから、彼は寮に入るか、一人暮らしをするのかもしれない。きっと大学では、新しい出会いがたくさんある。彼のことだから、異性には相当モテるだろうし、もしかしたら、風太よりもずっと合う相手が見つかるかもしれない。


 もっと言えば、風太の進路次第では、遠距離になることだって考えられる。そう思ったとき、ハッとした。一星とこうして一緒にいられるのは、もうあと半年ほどなのだ。


 そっか……、おれたちの、今の関係って……。そもそも期間限定なんじゃん……。

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