「……どういう、こと? あなたたちは、トゥルーの父親の
訳がわからなかった。
父親が人形たちをくれたと、トゥルーは言っていた。信じがたい話だが、その人形は間違いなく
だとすれば、涙幽者にとってトゥルーは仇の子になるはずだ。涙幽者でなくても、人形にされて嬉しいはずがない。
にもかかわらず、目の前の涙幽者はトゥルーを恩人だと言い、実際、トゥルーに危害を及ぼす気配は微塵も見せなかった。
眼前に立つ涙幽者は、相変わらずほとんど身じろぎもせず、ティファニーを感情のない白い眼で見つめている。当然、その眼からは意図を何も読み取れない。室内には、人形遊びをしているのだろうトゥルーの無邪気な声が、木霊していた。
(この涙幽者の言ってることがホントだとしたら……)
涙幽者は、噓をつけない。
威療士の間では、それが定説になっていた。
反転感情に“染まって”しまった彼らに、もはやヒトらしい知性は残されておらず、だから噓をつくことなどできはしない。
が、現に今、この涙幽者は不明瞭ながらも言葉を発し、自分と意思疎通している。その言葉が正しければ、応急手当をしたのもこの涙幽者だ。氷系統の
が、果たして知性を失った涙幽者に、そのようなことができるのだろうか。
(涙幽者が、命の恩人? そんなの、私はみとめない!)
傷の痛みとは別の、苦しさが、胸に込み上げていた。
「さっさと私を喰らいなさいよ。飢えているんでしょ? それとも、いたぶってからじゃないと喰わない癖でもあるってわけ……っ!」
「黙レ。傷ガヒラク。ワタシタチハ、オマエガ死ヌコトヲ望マナイ」
「ご立派。こんなとこに閉じこめて、氷漬けにしといて仲間も呼ばせないで、死ぬのを望まないですって? 呆れる。だったら、トゥルーを解放しなさい。そしたら、好きにしなさい」
「オマエ、頭ガ悪イノカ?」
「はあ?! 今度は侮辱するつもり?」
「レンジャーハ、モット理解ガ早イガトオモッテイタ。オマエ、ガンコカ、頭ガ悪イノカ?」
「り、理解が遅くて悪かったわね。だれかさんのおかげで、頭に血が回らないのよ!」
ついカッとなって言い返してしまったが、中腰のままの涙幽者はただ「ソウカ」とだけ言葉を返してきた。理由はわからないが、なぜかこの涙幽者に悪気がないことだけは伝わってくる。
(どうしてこの涙幽者は襲ってこないの?)
ティファニーにとっては有難いことだったが、あまりに静かな涙幽者の様子は、かえって不気味だった。
〈
それに、この涙幽者には、落泪がない。
どの反転感情を持つ涙幽者でも、その進行度合いによって滂沱の泪を流す。
彼らの泪は、活動限界でもある代謝の度合いを測るのにわかりやすく、だから装備がない状況でも残された時間がどれくらいあるのか、推し量るのに役立つのだが。
「……ねえ、あなた。ホントに飢えてないの? すっごく落ちついてみえるんだけど」
「腹ハ、イツモ減ッテイル。ガマンデキナクナッタラ、トゥルーヲ、呼ブ」
「……呼んでどうするのよ」
「
「っ?!」
さも当たり前といった口調で、黒い巨躯が答える。その答えに息が詰まり、知らず、トゥルーの声がするほうへ視線が向いていた。
本当の使い手は――。
「じゃあ、
「……」
自分に向けられていた眼がすうっと、トゥルーを追うのが見えた。白濁した双眸に、心配する色が浮かんでいた。
そんなはずは、ない。
完全に変異した涙幽者に、相手を気遣う思考など残っているはずがないのだ。そうでなければ、自分は――。
(今は、トゥルーに集中しなくっちゃ……)
「……問いつめたりしないから、答えて。あの子を救うために」
「ダガ、連レテ行クンダロ? レンジャーハ、子ドモニモ容赦シナイト聞イタ」
「人聞きが悪いわね。それじゃただの人さらいじゃない。……でも、たしかに、そういうルールはあるわ」
大人に比べて涙幽者化の割合が低い未成年だが、皆無ではない。
実際、ティファニーも自分より若い涙幽者をドレスコードした経験があったし、近ごろは未成年の涙幽者が増えているとも聞く。
手に人形を持ったトゥルーが、楽しそうに笑いながら駆けている。
もし、トゥルーが涙幽者化しているのなら、採血をしなければならない。〈ギア〉では検出されない初期の兆候も、血が一滴あれば確実に判別できる。そして結果が出てしまえば、規則に従ってトゥルーを家族から引き離さなければならなくなる。
(それか、ユニーカを使ってもらってトゥルー自身を……ううん、ダメ。ユニーカを使うたび、涙幽者化がすすむ。完全に涙幽者化してしまったら、もう)
自分の思考が、どうにかトゥルーの涙幽者化を知られないようにするために回っていることに気付いて、ティファニーは唇を噛んでいた。
威療士として、あるまじき考えだった。
自分の使命は、涙幽者を無力化――〈ドレスコード〉すること。すなわち、救命活動だ。
幼い子どもであれ、涙幽者化している相手を放置すれば、確実に被害が出る。次は、他の子が犠牲になるかもしれないし、トゥルー自身の身も危ない。
威療士としてすべきことは単純だ。目の前の涙幽者二体を〈ドレスコード〉すればいい。
(私のユニーカなら……)
涙幽者に勘付かれるのを避けるために控えていたが、あと一度くらいは
が、それで、確実に〈ドレスコード〉できる。ティファニーの頭も、そうすべきだと訴えていた。――が。
(私にはできない……。トゥルーの心臓に
「うっ……っ!」
「ドウシタ。腹ガ減ッタカ」
「こんなときに食欲なんて出ないから! 血が、止まらないっ」
「ワタシノユニーカデ、モット――」
「――やめて! これ以上、凍結したら壊死するわ」
「ナラ、ドウスレバイイ」
「……ねえ」
「――グリィ89ダ。ソレガ、ワタシノ名前ダ。ソウ呼バナイナラ、答エナイ」
「わかったわよ。じゃあ、グリィ89。私の〈ユニフォーム〉、知らない? たぶん、その、あなたを包んでたはずだけど」
「アア。レンジャーノ証ダロ」
「そ、それ。持ってきて。このままじゃ私、もたないわ。〈ユニフォーム〉には応急キットがあるの。通信しないわよ。あの子に誓ってね」
声は震えずに済んだが、首筋を汗が滴っていた。
早急に傷の手当てが必要なのは間違いない。既に腹から下の感覚がほとんどなく、さきから寒さで震えが止まらなくなっていた。出血は止められても、このままでは遅かれ早かれ凍死する。
が、涙幽者――グリィ89にこれを頼むのは賭けだった。もし、威療士に反感を持っている相手なら、逆上してしまうかもしれない。
「イイダロ。待ッテロ」
意外にも、グリィ89はゆっくりうなずくと、踵を返していった。
「トゥルー。レンジャーヲ見テテクレ。オ話シシチャ、イケナイ。休マセテアゲナサイ」
「うん、わかった」
トコトコと、おぼつかない足取りが近づいてきて、目の前にトゥルーがしゃがみ込む。「おねえちゃん、いいこいいこ」と、その小さい手がティファニーの頭を撫でてきて、仕方なくティファニーは目を瞑った。
(もう……。やってくれるわね)
〈ユニフォーム〉を取りに行く隙を見計らって、ティファニーはトゥルーから話を聞くつもりだった。
が、それをグリィ89は見透かしていたに違いない。試しに、口止めされたトゥルーに話しかけても、ぽちゃっとした手が自らの口を塞ぐばかりだった。そこまで頭が回る涙幽者を、これまで見たことがなかった。
少しして、重い足音が返ると、「コレカ?」と低い声が降ってきた。
「しーっ。おねえちゃん、おねんねしてるよ」
「ソノレンジャーハ、寝テナド――」
「――ふわーあ。ありがと、トゥルー。よく眠れたわ。私、グリィ89とお話してるから、遊んでおいで」
「うん!」
離れていく足音を聞きながら、ティファニーはグリィ89を見上げて言った。
「子どもの相手なら私のほうが上ね。じゃ、ユニーカ解いて」
「ダガ、傷が……」
「私、威療士よ? これくらい、なんでもないわ」
腕を伸ばすと、案外、素直にグリィ89が〈ユニフォーム〉を手渡してきた。続けてその眼が黄金色に輝き、瞬時に溶けた水が一気に傷に染み込んだ。
「っ――! 解くのはユニーカで、氷じゃないわ!」
「消スノハ無理ダ。溶カスシカデキナイ。スマナイ」
あまりの痛さについ愚痴を叫ぶと、気のせいか、しゅんとグリィ89がうなだれたように見えた。
「……そういうことなら、いい、わよ」
〈ユニフォーム〉のポケットから止血帯を取り出し、急いで腹部に巻き付ける。ついで、小さいシリンジの鎮痛剤を取り出し、腕に突き立てた。
できれば消毒をしたいところだったが、触れた感触ではまだ止血できていない。とりあえずはキツく止血帯を縛りつけ、〈ユニフォーム〉を保温モードに切り替えた。
「ダイジョウブカ?」
「……ふー。いまはね。……あと、グリィ89。その、ありがと。あなたのユニーカがなかったら、たぶん私、死んでた」
「刺シタノハ、ワタシダ。礼ハイラナイ」
「そう、だったわね……]
なんとも言えない空気になりかけ、ティファニーは首を振ってそれを振り払う。恨みつらみは、後回しだ。
「ねえ、グリィ89。さっき、トゥルーが恩人だって言ってたわよね。もっと話してくれない? 私、あなたとトゥルーを助けたいの」
「ワタシダケジャナイ。ワタシタチ、ダ」
「わかった。あなたたちを助けたいの。だから、話を聞かせて。お願い」
白濁した双眸を見据え、ティファニーは目を離さない。
本能が今すぐに逃げ出すよう、訴え続けているが、威療士としての理性で抑え込む。
「……ワタシハ、アノ子ノ、トゥルーのシッターヲシテイタ」
ポツポツと、グリィ89が言葉を紡ぎだす。
ティファニーは耳を傾けつつ、傷を押さえる手を少しずつ動かしていった。