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迫り来る黒い巨躯

「……うっ」


 猛烈な寒気を感じて、ティファニーは眉をひそめながらゆっくり瞼を開いた。

 昔の、ひどい悪夢を見たような気がしたが、ぼんやりした思考ではうまく思い出せなかった。


「ここ、は……」


 薄暗い空間だった。

 はっきりしない視覚は周囲の輪郭を得ず、自分が固い床に寝かされていることだけが辛うじて感じられる。

 仰向けに見上げた天井は、白色の間接照明リセスライトが四角く区切っていて、それなりの広さがあるようだった。

 体の向きを変えようとし、床に手を突く。

 が、たちまち、全身を貫いた鋭い痛みに息が詰まり、音にならない悲鳴が口から漏れていく。


「はあ……はぁ……。私……凍って、る……?」


 無理に動くのは得策ではない。そう考えて、深呼吸で自分を落ちつかせていると、ふいに手が腹部に触れた。

 返った感触は、普段触れ慣れた自分の体でなく、痛みさえ感じるほどの冷えた、ツルツルした氷のそれだった。


「私、トゥルーを避難させようとして、それで……」


 絶えず刺激してくる冷気のおかげで、徐々に思考が働くようになってくると、直前までの出来事が一気に蘇ってきた。

 自分は、玩具を取りに部屋へ向かったトゥルーを追いかけていた。そこで彼のを目の当たりにした直後、鋭い痛みが腹部を貫いた。


「――無理ニ、動カナイホウガ、イイ」

「だれ?! ……っ!」


 唐突に部屋へ木霊した、不明瞭なうめき声。尋ねるまでもなく、威療士レンジャーとしての経験が危険を察して、体を立たせようとする。が、まるで腹部が床と一体化したように微動だにせず、ただ激痛が結果として返った。


「ヒドイ、ケガ、ダ。血ヲ止メナイト、死ヌ」

「トゥルーはどこなの! あの子に手を出したら、ゆるさないからっ」


 声の主は依然として見えないが、今すぐにこの場を離れなければならない。

 年端もいかないトゥルーが、涙幽者スペクターと出くわしてどうなるか、想像したくはなかったが、それでも彼を探し出して、仲間たちと合流するのが先決だ。


(コンソールはどこなのよ! あれがあればSOSが送れるのに……っ)


〈ユニフォーム〉も〈ギア〉も手元にない以上、腕輪型バングル通信機コンソールだけが頼りだった。あれさえあれば、ハンドサインでチームに合図を送れる。


「――おねえちゃん、これ?」

「トゥルー!? そこいちゃダメ! 走って! エドゥアルドを……さっきのお兄さんを呼んできて!」


 あどけない声は返事を返さず、代わりにキュキュっという小刻みな足音がティファニーの傍へ寄ってくる。


「おねえちゃん、だいじょうぶ? ねぇ、ぐりぃ89。おねえちゃん、汗びっしょりだよ?」

「ソノレンジャーハ、疲レテルンダ。ソットシテ、アゲナサイ。ウデワハ、ワタシニ」

「うん、わかった。おねえちゃん、ゆっくり寝てね」

「まって、トゥルー!」


 視界の隅に捉えた小さな輪郭が、涙幽者の言葉のせいで今度は離れていく。

 代わって、ドンドンっと、重厚な足音が迫り、ぬっと巨躯がティファニーの顔を覗き込んだ。


「ホカノレンジャーヲ呼ブツモリダロ? ソレハ、サセナイ」

「どうして……。あなたは、だって……」

「“染マッテイル”、カ? アノ子ハ、ワタシタチの恩人ダ。レンジャーニハ、渡サナイ」


 曲がった上背に乗った、狼貌ウルフフェイスから突き出た口吻。

 そこから覗く鋭利な牙の列が、対照的な言葉を紡ぎ出す。

 トゥルーが、ぐりぃ89と呼んだ涙幽者の白濁した双眸が、ティファニーの顔を見下ろしていた。

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