「『天照』、異名の返上を表明、か……」
あの大会から一ヵ月。ついこの前販売された剣道日本にはそう書かれていた。
異名って返上とかできんの? アレって周囲が適当に呼ぶだけじゃねぇか。
公式でもう呼ばないでくださいって意味なのかな。よく分かんねぇ。
じゃあ俺も『剣聖』なんて異名はこっぱずかしいので止めてもらおうか──。
「あ、そろそろ時間か」
伸びをしたところで壁に掛けている時計が目に入る。もう道場に行く時間だ。
準備はほとんどできている。後は竹刀を担げば完璧だ。
「おし、結! 行くぞ──……」
と言って、気付く。もう少女はこの部屋にいないことを。
「……、結が戻ってからもう一ヵ月なのに、まだ慣れねぇなぁ」
あの子のいる生活が濃すぎたんだ。
剣道の匂いがすると言われた部屋には、あの子の匂いも混ざっていたのだが……少しずつ薄れていくのを感じていた。それでもふとした瞬間にあの子の匂いが思い出される。
……なんか変態っぽいな。今の発言は無しで頼む。
とりあえず行くか。
結がいたことの証明が薄れていくのに合わせて、夏の残滓も色褪せていく。
まるであの夏の数週間が夢だったかのように、季節は巡っていく。
少し冷え始め、蝉時雨も聞こえなくなった外に足を伸ばし、道場へ向かう。
道場に着くと、白のワイシャツに黒のパンツという大人っぽい恰好の先生がいた。
「おう剣晴。時間通り来たな」
「おはようございます、楓先生。すいません、無理聞いてもらって」
「別にいいぞ。アタシとしても賛成だったしな」
かんらかんらと笑う先生の顔を見てよかったと素直に思う。
「ま、これでおまえに貸しができたワケだ。さて、どうしてくれようかなぁ」
前言撤回。相変わらず性格悪いなこの先生。
「あの大会で頭を下げた先生はどこ行ったんだか……」
──千虎は決勝のあと、表彰式に出なかった。記者連中からしたら優勝トロフィーを受け取る千虎をカメラに収めたかっただろうから、肩透かしを食らったことこの上ないだろう。
あれから千虎の姿を見ていない。大阪に戻ったと思うが、音沙汰無しだ。
相変わらず無敗記録は続いてるだろうに、何してんだか。
「無理のない範囲ならお手伝いしますから、さっさと準備しましょうよ」
「おお、そうだな。盛大にやるとしようか。にしてもなんでおまえ道着なの?」
「え? 逆に先生はどうして私服なんですか? てっきり着替えるのかと」
「は? 歓迎会でどうして道着に着替える?」
沈黙することしばし。
「……二人の歓迎会って、稽古会のことじゃないんですか? そう信じてますよあの子たち」
「はぁ? 歓迎会っつったら飲み会だろうが! 成人だろうが未成年だろうが関係ねぇ! 無礼講だ! 酒をかっ喰らってくせぇつまみ摘まんで騒ぐもんだろうが!」
「アンタ馬鹿か! あの子らは小学生だぞ! 未成年の飲酒は犯罪です!」
「アタシが許す!」
「大馬鹿野郎!」
アンタ本当に道場の師範か? もっと模範的な考えをしてください。
「……っていうか、迎えに行かなくていいんですか」
「ん? ああ、あの子は今日だけは自分の足で来たいんだと。普段はアタシが見に行ってるから心配ないぞ。掃除もな。あと、料理がしたいって言うから教えてもいる」
そう言えばそうだった。この人は一通りの花嫁修業を終えているんだっけ。肝心の相手はいねぇけどな。しかし、そこを突っ込んだら殺される。
「何か言いたげだな」
「……いつか、先生にもいい人が現れますよ」
元気出してください。そういう意図を込めて先生を見ると、なぜかこの人は竹刀を持ち出した。俺にはその竹刀が真剣に見えてしょうがなかった。
「そう言われて続けて早五年だよ。アタシゃいつまでハクバノ王子サマを待てばいい?」
「いい歳こいてハクバノ王子サマとか言ってっからじゃないすか?」
「もういやだァッ! おまえがアタシを娶りやがれェッッ!」
「人権侵害も甚だしいなッ!」
マジで誰かもらってあげて。剣道関係者ならなお歓迎です。
ギャースカギャースカと揉めていると、道場の前あたりで二人分の足音がする。
──予感があった。
全国の決勝で敗れ、敗北の恐怖に飲まれたが、そんな俺の元に突撃してきた少女がいた。
元気いっぱいで、どこか幼くて、自己中心的でワガママ……でも、それでいて目に鋭い切っ先を宿し、強迫観念に駆られた負けん気の強い少女。
そして俺と似たような境遇で、俺よりも辛い立場から逃げてきた少女がいた。
鈴を転がしたような声で、とても『良い子』。でも心の内には年相応の願いを持っていて、上手く表現することのできなかった少女。
その子たちは、俺も含めて孤独だった。
そんな子たちが、これからも俺と一緒につながりを作ってくれる予感が──あった。
少女たちは仲が悪かった。偶然が重なったが故のすれ違いだった。
しかし、剣を通じて互いに心を明かし、二人は歩み寄った。
剣道の理念は勝敗に非ず。
剣法の習得による人間形成の道。打って反省、打たれて感謝……稽古をしてくれた相手への礼が作る人のつながりにこそ、重きを置くべき武道だ。
そのことを理解し、あの子たちは成長した。
そして俺も輪の中に入り、孤独ではないと実感した。
あの子たちが与えてくれた。
これからはその輪がどこまで広がるのか……手をつないで、一緒に見ていきたい。
「「おはようございますっ!」」
道場の扉が開けられる。元気な声が聞こえてくる。
道着姿で、揃って礼をする。
その姿を見たら、自然と頬が緩んでいた。
「ほら、稽古する流れですよ」
「マジかよ。師範室にいろいろと用意してたんだけどなぁ」
「それは後でいただきます。あ……親子丼の具材ってあります?」
俺たちの会話を他所に、二人は俺の前に駆けてくる。
黒い防具袋を担いで、腕には竹刀袋を抱えて。
「せんせーっ!」
「剣晴さん」
この子たちは俺に──こう言うのだ。
「「今日も、剣道を教えてくださいっ!」」