九奈白本島とKCCを行き来するには、東西に架かったふたつの連絡橋を渡るしかない。
しかし厳密にはもうひとつだけ、普段は使用されていないルートがあった。有事の際の避難用に作られた、巨大な海底トンネルである。
両島間の距離がそれほど離れているわけではないため、トンネルの長さは然程でもない。
しかし車両も通れるようにと作られており、横幅は非常に広かった。大型車両であっても、ゆうに四台は並んで通過できるだろう。もちろん普段は使用されていないため、現在は非常灯の灯りが仄かに道を照らすのみである。そんな薄暗く静かで、ひんやりとした空気で満ちたトンネルの中を、一人の男が歩いていた。
瞳に濁った光を宿す、長身痩躯の男。
ふたつの連絡橋に魔物を放り込んだ張本人、アールだ。
『
そもそもアールは部下に指示を出すばかりで、現場には殆ど姿を見せない。それは本人の
特殊な技能を用いて裏で糸を引く、保身に長けた男。
アールという男を端的に表現すれば、概ねそんなところだろう。そしてそんな臆病な男が何故、こんな場所を一人で歩いているのかといえば。
「くそ……
偏に自分では太刀打ち出来ない程、恐ろしい相手に命じられたからであった。
今はこうして悪態を吐いているアールだが、直接本人に文句をいうことなど出来はしない。あの女――――
「チッ……今に見てやがれ。いつか必ず殺してやる」
目の前を飛んでいた一匹の羽虫を叩き落とし、ぎりと奥歯を軋らせる。
同じ組織の一員とはいえ、所詮『
そうしてアールがぶつぶつと、一人文句を言いながら歩くこと暫く。
彼の眼前にはトンネルの終着点、巨大なゲートが姿を現していた。このゲートを潜ればKCCの中心、展望台の地下へと抜けることが出来る。流石は世界有数の迷宮都市というべきだろうか、トンネルを封鎖する形で聳えるそのゲートには、惜しむことなくダンジョン産の資源が投入されていた。ゲートの開閉は
「さァて……」
ポケットを弄り、アールが取り出したのは一枚のカードキー。
このトンネルに進入する直前、
そうしてゲートの脇へと設置された端末の前に立ち、アールがカードキーを通そうとしたその時だった。
重厚な音と振動を伴い、ゲートがひとりでに開き始めた。もちろんアールはまだ何もしていない。
(なんだと……? 警備にバレた……いや、早すぎる。よしんばそうだとして、なら敵は後方から追いかけてくる筈……どういうことだ?)
勝手に開いてラッキー、などと思えるほど楽観的でもない。あからさまに不審な現象にアールは眉を潜め、油断なく静かに警戒を始める。そうしてたっぷり二分ほどをかけ、漸くゲートが開いた。ゲートの向こう側――――アールが向かおうとしていた先から現れたのは、
「やっほぉー、ひさしぶりぃ」
どこか間延びした、酷く呑気な声。
それを聞いた途端、アールの顔にはわかりやすい『怒り』が浮かんでいた。
「テメェ……よくもまぁ俺の前にツラが出せたもんだな、えぇ?」
「ボクだって、アンタのキモいツラなんて二度と見たくなかったけどねぇ。これもお仕事だから仕方ないよねぇ」
「この尻軽が……ウチの組織にはマトモな女はいねェのかよ、なぁオイ黒鴉」
「あはは、気安く呼ぶなよオッサン」
裏切られた者と、裏切った者。それらを考えれば、アールの言葉は尤もなものであった。
しかしクロアはまるで悪びれもせず、それどころかポケットに手を突っ込んだまま、アールに向かってひと睨みをくれた。如何に相手が犯罪組織といえど、裏切った側が取るにしてはあまりにもデカすぎる態度であった。
「……どうして俺の居場所が分かった?」
「逆になんでバレてないと思ったワケ? 監視なんてされてるに決まってるじゃん」
「舐めるなよクソガキ。監視カメラは避けたし、警備も気づかれる前に潰した」
くすくすと、まるで小馬鹿にするかのように笑うクロア。
「オッサンさぁ……ここに来る途中で、羽虫を一匹潰したでしょ? ほら、コレと同じヤツ」
そう言ってクロアが指差す先には、ふよふよと力なく漂う羽虫が一匹。何処にでもいるような指先サイズで、この薄暗いトンネル内であればそれこそ、纏わりつかれでもしなければ気付けないほど。それは先ほどアールが手で払い、叩き落としたものと同じ羽虫だった。しかしそれが何だというのか。確かに人の寄り付かない非常用トンネルではあるが、虫の一匹も居ないワケではない。よもや仲間を殺された報復に、虫が仇の居場所を知らせたわけでもあるまいし。
アールがそう言葉にしようとするより前に、クロアは答えを告げた。
まるで悪戯に成功したかのような、小悪魔的な笑みを浮かべて。
「これさぁ、虫じゃなくてカメラなんだよ。めぼしいところには事前に撒いてあるんだ」
「……チッ」
「普通は気づくと思うけどねぇ……オッサンさ、もう随分長い間自分で戦ってないでしょ? 耄碌したんじゃなぁい?」
終始小馬鹿にした態度のクロアだったが、最後の言葉には侮蔑が込められていた。クロアは相手の内面を見抜く能力に長けている。戦闘好きのクロアからすれば、自ら手を汚すことのないアールはただの卑怯者、或いは臆病者なのだ。クロアが必要以上に舐めた態度を取っているのは、偏に彼女がアールを毛嫌いしているからであった。
一方のアールはといえば、もはや爆発寸前だ。
居場所がバレて先回りされたこともそう、裏切り者の小娘からバカにされたこともそう。組織内でどれほど高い地位にいようとも、アールの器は本質的に小さいのだ。平時より
「舐めやがって……ッ! 俺がガキに優しいように見えんのか、えぇオイ? ぶっ殺すぞテメェ」
「あははは! 出来ない事は口にしない方がいいんじゃなぁい? 魔物を撒くか、無抵抗の弱者を虐めるくらいしか出来ないくせに。やーい、ざぁーこ♡」
終わらないクロアの挑発に、アールはいよいよナイフを取り出す。そうして慣れた手つきでくるくると、まるで威嚇でもするかのようにナイフで遊んでみせる。とても耄碌しているとはおもえない、熟達した刃物捌きであった。どうやら怒りのあまり、もはや言葉すら出ないらしい。ただただ怒りを湛え、ぎろりとクロアを睨みつける。
そんな狂気の男を見ても、しかしクロアの表情は変わらない。
ちろりと、僅かに唇を舐める。そうして微笑みを浮かべ、アールに手招きをしてみせた。
「かかって来なよ。このあとオッサンが見る走馬灯、全部ボクの顔にしてあげる」