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第1羽 アレッタ・ハワード


 ジリリリリと黒色のシックなデジタル時計が鳴り響く。アレッタはベッドからむくっと起き上がり、またかと呟いた。あの事件から二年が経った今でも彼女は悪夢に悩まされていた。それから「まただわ!」と、今度は大きく吐きだした。


 窓は閉めきっているにもかかわらず、部屋に霜が降りていた。制服はカチコチに固まり、モノトーンに固めている部屋に似つかわしくない桃色の熊のぬいぐるみには、白い結晶がまばらにちらついていた。それに吐く息も白い。アレッタは買ったばかりの温度計で気温を確かめるとマイナス2度。これは寒すぎる! 冷蔵庫並みの寒さであるにも関わらず、アレッタは身震いの一つもしていなかった。



〈寒くもなんともないわ。この買ったばかりの保温性の高い毛布のおかげだとでも言うの? 何をバカな。これはただのタオルケットよ。どうして私が寝ている間にこの部屋だけ異常気象が起きるの? 今は真夏なのに!〉



 アレッタは黒一色の寝巻きを脱ぎ、制服に着替える。そして姿見の前に立ち、あの時負った頬の傷痕を隠すように丁寧に髪をとかしていく。右頬にできた大きな十字架状の傷はアレッタの心にコンプレックスを植え付けた。



<一生この傷と付き合っていかなくてはならないの? 醜い顔のままずっと生きていくのかしら>



 父親はリストラに遭ったばかりであること、一年前にアレッタの姉のアニタとアレッタの進学が被ったこともあり、彼女は整形したいということを軽々と口にすることはできなかった。



<私がお願いしたらきっと、うんって言ってくれる。でも両親が私のせいで苦しむところは見たくないわ>

深くため息をつくと、櫛を机の上に置いた。



<いつになったらあの悪夢を見なくなるのかしら。それにあの綺麗な男の人。本当に天使だった? それにあの雪は? 警察がきたら一瞬にして雪が無くなってた。たしかに小屋の中で大量の雪が積もっていたはずなのに〉



 アレッタはあの美しい天使も部屋の中に舞い降りた雪も、警察に話すことなく自分だけの秘密にしようと決めていた。周りに言ったところで、幻覚だと言われるのがオチなのをわかっているからだ。


 彼女は黒いナイロン素材のリュックを掴むと、一階に降りる。そして自分の席に座ると机に既に置かれていた食パンをかじり、牛乳をちびりと飲んだ。朝食はいつもと変わらないピーナッツバターサンドとハムエッグだ。


 アレッタは台所で洗い物をしている母親の背中をじっと見つめる。



<今日は、緑色だわ>



 あの事件の後から、アレッタはあるに悩まされていた。



 母親の背中にほんのりと緑色のオーラがまとわりついている。それだけじゃない。姉の背中にも新聞を大きく広げて求人欄を読んでいる父親の背中にも、色は違えど霧のようなオーラがアレッタにだけ見えているのだ。


 そのオーラは時折人間の上半身の姿に変わる時がある。それらが精霊だと気づいたのはつい最近のことで、アレッタがそのオーラに話しかけたことがきっかけだった。精霊たちは自分の存在が見えるとわかるとしつこくアレッタに話しかけてきた。


 やれ森を救ってくれだの、2ブロック先の家に言って夫婦喧嘩を止めてくれだの散々と頼み事ばかり聞かされた。寝るときもお風呂に入るときもそれが続いた時は、アレッタの気はいよいよおかしくなりかけていた。そういったことがあり、アレッタは彼らの存在を無視することに決めたのだ。

 だが、彼らを無視しきれていないのか、姉のアニタが気持ち悪いと言った表情で母親に告げ口した。



「ママ。またアレッタがまたキョロキョロといろんなところ見てる。なーんにもいないのに、変なの」母親は洗い物をしながら、いつものことのように

「そんなこと言わないの」

と言って皿を片付けた。



 アニタの嫌味に慣れっこのアレッタは姉の言うことを無視して、牛乳を一気に飲み干す。それからマスクをつけて「いってきます」と玄関を開けると、高校までの道を歩いた。


 アーノルド高校までは徒歩で20分、自転車通学をするには微妙な距離にあった。今まで通っていたランベールス中学校よりはそれほど遠くない。あそこまでは30分以上かけて通学していたのだから文句は言えなかった。


 歩いて10分が経過すると、アレッタは空を見上げ、遠くで工事をしている首の長い大きな建築機械を眺めた。



 アレッタが悩んでいるもう1つのが始まった。



〈あの長い機械の上から空を飛んだらどれだけ素敵だろう〉



 アレッタはあの陰惨な事件の後から高所恐怖症ならぬ、高所大好き病になってしまった。高層の屋上や山のてっぺん、高くて見晴らしのいい場所を見つけると、あそこから飛び下りたい衝動で頭がいっぱいになるのだ。


 だが、そんなところから落ちたら一溜りもないことを彼女自身もわかっている。だが、そんな危険を思うよりも誘惑の方が勝ってしまうのだ。そのため、どうしても飛び下りたい時は、公園のジャングルジムのてっぺんから飛び降りて、どうにか後遺症と戦っている。

 ほぼ毎日そんなことをしているためか公園で遊んでいる子供たちはアレッタを怖がった。


 でもアレッタにはどうしようもできない。どんなに人に奇妙な目で見られようが、どうしても高いところから飛び下りたいのだ。



<きっとあの事件のショックで体が勝手に自殺しようとしてるんだわ。いつか寝ている間に窓から飛び下りて死ぬのかもしれない!>



 アレッタが身震いして、再び歩き始めようとすると、男の子の叫び声が聞こえた。不審者に遭遇したのかとアレッタは叫び声がした公園まで急いで駆けつける。公園に入った奥の茂みで男の子2人が尻餅をついてわなわなと震えていた。



「どうしたの?」

 男の子たちは口を揃えて、

「死んでるんだ……天使が」

 と訴える。



「天使ですって?」



 アレッタはすっとんきょんな声をあげた。からかってるのかと最初は思ったが、男の子たちの怯えようを見ると、そうではないようだ。



「茂みの奥で死んでるんだ。嘘だと思うなら見てよ」



 指を差した方にゆっくり歩いて茂みを掻き分ける。最初に見えたのは裸足だった。それから恐る恐る上へ上へと見ると、アレッタは驚いて思わず後ずさった。



「あなたたち。誰か人を呼んで……け、警察を……早く!」



 彼女はもう一度、茂みを掻き分ける。男の子たちの言ったことは正しかった。



 天使が死んでいる!



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