憂鬱だ。今日ほど気の重い日を俺は知らない。
練習試合の翌日、授業を終えて剣道場の前でため息を吐く。
ちなみに、今日ここへ足を運ぶのはこれが初めてじゃない。二度目だ。一度目はどうしても踏ん切りがつかなかったので、喫煙場所に逃げてタバコを吸っていた。
「……指導を辞めるって、言わなきゃ……」
幸い、剣道部に関係ある三人は体育の授業がなかったため、学校でほとんど顔を合わせることはなかった。水瀬と獅子堂は終礼の時、いなかったけども。まさかサボりか?
「……今日に限っては、サボってくれてる方がありがたいな」
タバコを消し、剣道場の前に立つ。一縷の望みに賭けて扉を開ける。瞬間、
「「おかえりなさいませっ! ご主人様っ!」」
猫耳を付けたミニスカメイドが二人、ウインクしながら俺の出迎えをした。
「すいません、間違えました」
すぐに扉を閉じる。今のは何だろうか。夢かな?
「…………疲れてんのかな」
目頭を擦る。しっかりしろ俺。現実逃避するな。
身だしなみを整えてTAKE2。もう一度扉を開ける。
「「おかえりなさいませご主人様っ!」」
どうやら夢ではなかったらしい。二人の猫耳メイドの正体を俺は知っている。
「ウチがマッサージでご主人様の疲れを癒してやるにゃん!」
と言いながら威嚇のポーズを取っていのは水瀬という名前の少女だ。断じて猫ではない。
「ご主人様、お風呂になさいますか? ご飯になさいますか? それともワ・タ・ク・シ?」
新婚の定型文を謳い上げているのは雅坂という少女だ。繰り返すが断じて猫ではない。
「なにやってんだおまえら……」
「先生ノリ悪~。ウチらがごほーししたる言うてんねんから素直に喜ぶべきところやろ?」
「身の回りの世話から夜のご奉仕までなんでもござれの万能メイドですわ」
「……どっちの入れ知恵だ?」
ス、と水瀬が雅坂を指さして、「男はこれで喜ぶ言うてたから」と真顔で言った。
頬を両手で抑えながら身を捩じらせる雅坂。なんかもうこれだけでお腹いっぱいだわ。
「とはいっても、ワタクシたちもふざけているワケではございませんの。先生は昨日から随分と落ち込んでいた様子でしたから、少しでも元気が出ればと思いまして……」
ああ、なんだ。そういうことか。
「気を使わせちまって悪いな……」
「とんでもございません。それで、どうでしょう? 殿方はメイド服の女性にご奉仕されるのがお好きだと統計が取れましたので、実践させていただいたのですが……」
「どこ調べだよ。だが、まぁ、こんな可愛いメイドたちにご奉仕してもらったら、そりゃ男なら嬉しいだろうよ。気持ちは伝わった。ありがとな」
「先生……ッ」と感激に頬を紅潮させながら、二人が手を取り合って喜んでいる。
「あー……ところで、獅子堂は? まさかアイツもメイド服着てんのか?」
「着とるよ~。やけど、先生の気配を感じ取ったら猫みたいに跳ねて隠れてもうた」
ほら、あそこと水瀬が指さす方を見ると、確かに道場の棚の影に獅子堂がいた。
「愛奈ちゃん、こっちおいでや。せっかく可愛いんやから」
「う、うるせぇっ! なんだよこれ、なんでこんなフリフリなんだよ……ッ。恥ずかしすぎるだろ! なんでおまえらはそんな堂々としてんだよ!」
「まぁ、最初は恥ずかしかったけどなぁ……」
「慣れですわ。獅子堂さんも似合っているのですから、恥ずかしがらなくてもいいのに」
「絶対やだーっ! おっさん笑うもんっ!」
「あーもう、ワガママ言うな! 出てきぃや!」
水瀬が獅子堂に近付き、棚の陰から引っ張り出す。相手が水瀬だからか、獅子堂も強く抵抗できずにメイド姿を俺に晒した。二人とは違ってロングスカートのメイド服だった。確かに長身の獅子堂にはミニスカよりもロングの方が似合うかもしれない。
「はい、愛奈ちゃん、練習した言葉。『ご主人様、私の萌え萌えキュンで元気出して』」
「ちょっと待て、本当に獅子堂がその言葉を練習したのか?」
「本当ですわ。動画がありますが、見ますか?」
「おぉいっ! なんで動画撮ってんだよ!」と涙目で叫ぶ獅子堂。
「動画を晒されたくなければ今ここでやりましょうね、獅子堂さん」
「おまえ悪魔かよっ!」
「ほれほれ、愛奈ちゃん。先生に元気出してほしいって言うてたやん」
さすがの獅子堂も二対一で攻められたら何も言えなくなっていた。
「うぐ、ぐ……ご、ごごごご主、人、さ……わ、私の……萌、え」
「なんて~? なんて言うた愛奈ちゃ~ん、もっと大きい声で~」
「わ、わわわ、私の、萌、萌え……あああ言えるかぁぁ──────────ッッ!」
獅子堂の我慢が限界を迎え、火山が噴火するように両手を突き上げた。顔真っ赤だ。子どもの癇癪みたいに腕を振り回すが、全て水瀬に捌かれていた。
……なんか、言う気削がれちまったな。俺はもうおまえらの指導を辞めるって。
柊への責任を果たせてない状態で、コイツらを指導するワケにはいかない。
ちょっと考えれば分かることだ。柊は腕を折られ、不自由と苦労を被ったというのに、一方で加害者である俺はのうのうと被害者を過去のことにしようとして、別の子を指導する。柊の立場で考えたら、マジでふざけんなって話だろ。
だから、俺はコイツらを指導できない。
柊に一生を捧げろと言われても、俺には逆らう権利などありはしない──。
と、そこまで考えていたら、剣道場の扉が叩かれた。
「あの、ごめんなさい。霧崎先生は──って、あなたたちなんですかその恰好は!」
えーと、家庭科の教諭の川西先生だったか。その恰好って……ああ、メイド服か。そりゃそうだわ。傍から見たら剣道場で女子生徒三人にメイド服着せて楽しんでる二十九の男だもんな。やべぇ、字で書くと犯罪臭がすげぇ。
「あ、川西先生こんにちは! 実はこれ、次の文化祭のイメトレなんです!」
どう誤魔化したもんかと悩んでいたら、水瀬が風紀委員の腕章をチラつかせた。
「ぶ、文化祭……? まだ先ですが」
「確かにそうですが、早めに構想を練っておくことはいいことかと思いまして」
「ま、まぁ確かにそうね。風紀委員長の水瀬さんが言うならそうなんでしょう」
なんか納得した。すげぇ水瀬。今だけはそのドヤ顔も許してやろう。
「あの、ところで……僕に何か用事でしょうか」
「あ、そうなんですよ! 今すぐ理事長室へ来てください」
? なんだ? 本題を思い出した瞬間、焦った様子になった。
「獅子堂さんに関することです」
「──なんですって?」
どういうことだ。後ろの三人も戸惑っていたが、俺は川西先生に連れ出されてしまった。