いつものように湊のお店でお茶を飲んで会話を楽しんだ後の帰り道。
小雛の前方から男が走ってくるのが見えた。
どうやらランニング中のようで、フードを深く被った男が、小雛を見て立ち止まった。
「桜咲さん……ですよね」
その男の怪し気な風貌に小雛の胸に警戒心が湧く。
考え得るは有名人ならば誰でも起こり得る現象。
女性ならば特に気を付けなければならない、勘違いを起こした厄介なファンの過激な行動。
所謂ストーカーだ。
しかし、小雛は必要以上に怯える必要がない。
なぜなら彼女は一般人相手ならどんな暴漢でも簡単に鎮圧ができる探索者だからだ。
それでも、女性としてそんな相手には嫌悪感を抱くし、自分の方が強いと分かっていても怖いものは怖い。
小雛が少し身構えた素振りを見せて男は慌ててフードを外して弁明した。
「あっ、す、すみません!俺は別に怪しい者じゃないんです!偶然桜咲さんを見かけたので」
フードを外した男の顔を小雛はどこかで見たような覚えがあった。
若干粗野だが整った顔立ちに、少しの痣。
太い首は格闘技経験者のように見える彼の姿に小雛が「あっ!」と声を上げた。
「プロのボクシングの方!」
フードを取った男の顔は小雛にとっても記憶に新しい人物のものだった。
日本ボクシング界の至宝。
そう、呼ばれていた。
曽我部とのスパーリングを行う前は。
「えっと……確か、お名前は」
小雛も例の一件は知っている。
しかし、曽我部の格闘技界への悪辣な態度と物言いに反感を覚えただけで、そのスパーリング相手であるプロボクサーの名前までは小雛の記憶には残っていなかった。
「
そんな小雛の様子を察してか、男が名乗る。
「津久見さん……そ、それで私になにか?」
突然男に呼び止められる理由が小雛には思い当たらない。
ただのファンだろうかと考えるも、男の様子を見る限り、そのような浮かれた様子も伺えない。
小雛が警戒を見せるのも当然だった。
「突然で失礼かも知れないですけど、少しお話できませんか?」
「話?」
初めて会う接点のない男からの突然のお誘いに小雛も困惑を浮かべた。
自分のファンのようには見えないし、下心があるようにも見えない。
津久見のその沈んだ表情からは、自分に害を加えるようなそんな危険な香りは感じられなかった。
なにを思い悩んでいるのか、小雛にも見当がついたが、しかしなぜそれを自分なんかに……と、訝しんだ直後、津久見の言葉に食いついた。
「それに、湊さんのことについても話したいですし」
「ま、マスターのこと御存じなんですか!?」
小雛は二つ返事で津久見の提案を受け入れた。
◆
場所を近くの公園へと変え、2人でベンチへと座る。
夜も更け、この公園には小雛と津久見以外の姿はなかった。。
探索者の台頭以降、治安が悪化したことの影響により、遅い時間に出歩く人が一時期大きく減ったことが今もなお尾を引いているからだ。
そのため周囲のことをあまり気にすることもなく2人は夜の公園にてベンチに腰を掛けることが出来ていた。
ベンチの端と端に座る小雛と津久見。
ベンチに座ってから数分、津久見は中々話を切り出さないでいた。
何かを思いつめたまま地面を見続ける津久見のその重苦しい雰囲気に、小雛もそろそろ話してくれと言い出せない。
虫の音が嫌に大きく聞こえた。
「桜咲さんはどんな気持ちで探索者になったんですか?」
「え……」
ようやく口を開いた津久見のその質問に当時の記憶が蘇る。
「私は……わくわくしたかな」
自分に探索者の適性があると知った時、舞い上がって何度も飛び上がるほどにはしゃいでいた。
周囲の視線に気付いたとき、恥ずかしくなってその日はそそくさとダンジョンを出た思い出だ。
「昔から探索者には憧れてたから、自分にその才能があるって分かった時は凄くはしゃいじゃいました」
「才能……ですか」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
「謝らないでください。俺はもう踏ん切りを付けているので」
小雛は津久見のその言葉に嘘がないことを感じ取った。
本当に今の彼には探索者への未練は感じられなかった。
「俺も昔、探索者ギルドには行った事があるんです」
「え、でもそれって」
小雛が少し驚いたように津久見の顔を見た。
それもそのはずだ。
彼の所属するボクシング協会は原則として探索者の出場を認めていない。
普通の人間に比べ大きな力を有し、探索者同士でも力の差が大きく開いてしまうそんな探索者をただのスポーツ団体が適切に扱える訳がないからだ。
下手をすれば死人を出してしまいかねない。
そのことからボクシングに限らず、興行での格闘技の世界に探索者が公式で参加することはできないのだ
「俺だって強さっていうのに憧れるんですよ。……男ですから」
誤魔化すようなぎこちない笑みを向ける男に小雛は胸が締め付けられるような思いだった。
「それでも幸か不幸か、俺には探索者の才能がありませんでした」
しかし、津久見の表情がどこかほっとしたような表情に変わったのを小雛は見逃さなかった。
「そのおかげで俺はチャンピオンリングを奪いに行ける」
強く握った拳を見つめる津久見。
彼がボクシングの才能に溢れた人間だいうことは小雛もメディアを通して知っていたが、それはどうやら小雛が思っている以上の才能だったようだ。
格闘技に明るくない小雛は、彼の言うチャンピオンリングがどれほどの規模の物なのかは見当もつかないが、それでもすごいことだということは漠然と理解ができた。
「すごい」
「はは、ありがとうございます」
褒められて素直に屈託なく喜ぶ彼に、小雛は彼が根っからの善良な人間であることを知った。
自分を正面から馬鹿にして負かした相手と同じような存在にそう褒められても、普通は簡単に受け入れられないだろうからだ。
上から目線だと捉えられてもしょうがない。
「でも親父にこっそりダンジョンに入ったことがバレた時は大変でしたよ。もう肝が冷えるほどの形相で全身隈なく調べられた挙句ボコボコに殴られて、その上お祓いまで行かされたんですから」
「そ、それは強烈なお父さんですね」
選手生命に関わる問題のため、親御さんの気持ちも分かるが、一般的な感覚の小雛からすれば少々、どころかかなり過激な反応だと言えるだろう。
折檻も時代にそぐわないと思うが、お祓いまでとは。
彼のお父さんから見て、自分たち探索者はどう映っているのだろうかと少し気が滅入る気持ちだった。
「ダンジョンでの魔物との戦いはどうですか?」
「どうって……どう、なんだろ」
踏ん切りは着いていると言っていたが、それでもダンジョンの中が気になるのだろうかと、小雛の中に疑問が浮かんだ。
小雛にとってダンジョンは今や配信目的のものだ。
人が多く集まるから、注目を浴びるから、そしてそれがお金にもなるから。
今ではそのためにダンジョンに潜り続けているから魔物との戦いがどうかと言われても少し困る質問だった。
まぁ、今は配信以外にも楽しみができたのだが。
それを口にするのが少し恥ずかしい小雛はそのことを自分の胸の内に秘める。
「俺は探索者を人間を辞めた存在だと思っています」
穏やかに話していた彼の口から出た言葉は、どこか憂いを帯びているような気配が感じられた。
嫌にその言葉が頭の中で木霊する。
虫の音も今は聞こえない。
月明かりのない曇天の夜空の下、優しい素振りを見せていたはずの彼のその言葉に、小雛が固まる。
それはなぜか自分でも驚くほどのものだった。