ふむむむむ。ふむむむむむ。

　かれこれ二十分ほどになろうか。私はこの狭苦しい空間に立ち、しゃがみ、呆然を尽くしている。

　自己紹介から始めるとしよう。私は今年で六十を超える物書きである。大昔にどこぞの新人賞を頂きそれから歴ばかりが重なり未だにその作品が代表作である鳴かず売れずも死なずのゾンビのような物書きである。

　そんな私が霞を食わずに生きていけるのは私が家族も物も持たない変わり者だからである。しかしそれでよいのだ。衣食と住あれば人は生きてゆける。電話機を携帯してなんの意味がある。

　しかし私のこの達観した生き方が今の私を苦しめている。

　起こりは三十分前。私は不意の便意に見舞われた。腹が悲鳴を上げる。屁が出そうであるがそいつが確かに屁だという保証もない。私は声にならぬ声を喉から漏らし尻からは漏らさず厠へと急いた。戸を乱雑に開閉し、錠を下ろし、迅速に履物を脱ぎ迅速に尻を出し迅速にしゃがみ込んだところで落ち着きを取り戻しとっぷりと事をなした。

　私は和式便器にしゃがみ込んだまま勝利の余韻に浸り万象に想いを馳せる。人はなぜ生き、なぜ死ぬるのか、人とは、生命とは、宇宙とは何か。私がこのような思想を持つのは締め切り後である。さらに限れば締め切りをとうに過ぎているにも関わらず、原稿用紙の上にはちとも物が書かれていない時だ。このような時はまずこの屋敷の電話が鳴る。それを無視すればあの編集者が取り立てにやってくる。鬼のような女、いつも灰色のスーツを纏い目尻を吊り上げて金貸しのように私から原稿を巻き上げるあの女がやって来る。

　電話機の線は既に引き抜いてある。締め切りは五日前。無論原稿は上がっていない。宇宙だの言っている場合ではない。もういつあの鬼がこの家の門を蹴破るかわかったものではない。私は覚悟を決め、自らを鼓舞し、迅速に尻を拭き迅速に履物をあげ迅速に排泄物を流し、勇ましく錠を上げドアノブを捻った。その時、脳に稲妻が駆ける。

　やってしまった。

　開かぬのだ。ノブを右に左に幾度も回し時には左左右左右右といったfakeを織り交ぜるもこの厠の戸はびくとも言わぬ。むむむ、と観察すると錠が引っかかったままになっている。しかしこちらから錠は上げてある。

　錠が壊れた。

　予感はあった。この錠は以前から悲鳴を上げていた。己の限界を私に伝える為、気まぐれにノブを空回りさせ、時には頑なになってみたりと年の頃十五そこらの女子の如く態度で示してくれてはいた。が、私はそれに気付けなかった。否。気付いてはいたが見てみぬふりを決め、この時限の見えている問題を先へ先へと送り騙し騙しこの厠戸を取り扱ってきた。まるで年の頃十五そこら娘を持つ年の頃四十そこらの親父の如く。

　正直申せば面倒くさかった。厠の戸の錠などといった込み入った分野にド素人の私が土足で踏み入りあまつさえ修理まで行うなど想像もできない。であれば必然残るはプロの手。厠の戸の錠の修理を生業としこの世を渡る者の手が必要となるのだがここで一つ問題が生まれる。私は極なる内弁慶と呼ばれる人種である。学名では内弁慶目内弁慶科内弁慶属に分類される。そんな私が他人様に修理の依頼などできることがあろうか。いや、ない。心の内壁や原稿用紙には言葉が踊っても、他人様との会話となれば私の語彙は『はい』『そうです』『ごめんなさい』『許してください』『土下座致します』に限定され意思疎通の困難な生物へと退化を遂げる。

　上に挙げたやんごとなき故々が故に私はこの厠の戸の錠を放置し、あわよくばこのまま永遠にこのお嬢のようなお錠との危うい関係を続けたいと願っていたがその想いはもはや泡沫となり便器に流れた。

　何故、独り身たる貴様が錠を下ろし用を足すのか。との諸兄のご意見はもっともであるが、これには毅然たる理由があるのだ。

　そう、一人の少女に悲しい最期を遂げさせないためだ。

　先に申したように私は物書きである。読者たる者も少なからず存在する。

　さて、その中に思春の少女がいたらどうだろう。誰しもかつてそうであったように彼女らは非常に多感である。当然、私の生む物語の登場人物に対し抱いた憧憬の念を私自身への恋心と誤ってしまう事もあるだろう。であれば私に会いたくなるだろう。夏休みなどを利用して遠く離れた地方から寝台列車に運ばれ私を訪ねてくるであろう。やがて彼女はこの屋敷にたどり着く。暑い暑い昼下がりのことだ。しかし呼鈴を幾度鳴らせど憧れの先生は出てこない。ならばと彼女は私の名を呼び家中の窓という窓を叩いて周る。そして一つの窓が開いていることを目視で認めた彼女はその身を突っ込み転がり込むようにこの屋敷への侵入を成功させる。そして、先生先生いらっしゃいますかと声を響かせながら廊下を練り歩きやがて一つの戸へと辿り着く。彼女はその先に想い人がいることを直感し、染まる頬を隠すようにやや俯きつつノブを回しドアをゆっくりと開く。その瞳に排便中の私の尻が飛び込んでくる。蹲踞の姿勢で今まさに便を捻り出さんとする尻の穴と見つめ合ってしまう。想い人のあられもない姿と、およそこの世のものとは思えぬ悪臭に打ちのめされ彼女は絶命する。その訳を聞いた彼女の父親、年の頃四十そこらの彼はひどく打ちひしがれ頬を濡らすだろう。全ては私が錠を下さなかったばかりに。故に私は錠を下す。この悲劇を起こさぬ為に。

　以上が私の現状とそこに至る道程である。

　世に憚る事象の半なりが自業ならば、もう半なりは縁であると言う。であれば、今この惨状は私が錠を放置し酷使した自業と、締め切り過ぎたるこの日に錠が絶命したという縁が生み出したものといえる。厠から出れぬも原稿が上がらぬも宿命なのだ。私は全てを受け入れる。時を待てば何かの縁でこの戸は開くかもしれぬ。たとえ永久に開かずともそれならそれと来世のよき縁を願い眠りにつけばよい。

　……あれから幾の時間を経たか。正直もう限界である。到底受け入れられない。なぜ私がこのような場所で便器を抱えて死なねばならぬ。ふざけるなふざけるなとチンピラのごとく蹴り足で天神様を踏みつけにしたいほどに私の心は憤っている。何が自業だ縁だ。どこの生臭坊主だそのような世迷い事を抜かすのは。お前俺と代われハゲ。

　腹が減り喉が渇くもここには飲み水すらない。あと臭い。厳密には水はあるがまだそれを飲み水と表現したくはない。いや、すべきか。いやいや、いくらなんでも。いやいやいやいや、たとえ便の器に流れけりとも清らかなる水ぞ。いやいやいやいやいや、この問題に対し便の器という言葉の占める割合は看過するにはあまりにも甚大であるぞ。いやいや……。

　その終わりなき地獄問答の末、飲み水派なる私が汚水派たる私を寄り切り、現実の私が今にも便器に顔を突っ込まんと決意したその刹那。

「先生ー！」

　遠くに響く声が微かに耳を打った。

　幻聴だろうか。

「先生ー！いらっしゃいませんかー！」

　此度ははっきりと聞こえた。幻聴ではない。私はがばりと便器から顔を上げ右腕に僅か残っていた力を目一杯に込め戸を叩く。声の主よ、私はここにいるぞ。この厠にて生きているぞと。強く。しかし思いの丈に反しこの弱り切った体から放たれるそれは頼りなく、こつりこつりと弱々しい打音を響かせるのみであった。

　それでも声の主は私からの微弱な電波を感じ取りギシギシと床を軋ませこちらへと近づいてくる。

　あゝ主よ、私はなんと愚かだったことか、あまつさえ神を蹴たぐり仏をハゲと罵った。なんと詫びてよいものか。しかし今私は救われようとしている。そう、恐らくは今、思春の少女が私の家を訪れ首尾よく侵入に成功し廊下を練り歩き私を探している。その足を一歩一歩と踏みしめながら確実にこの厠へ近づいてきている。

　あぁ、これが縁というものか。

　やがて彼女は戸の前で立ち止まった。　　

「先生ここですか？」

　私は精一杯喉を震わせる。

「……はい」

「もしかして出られないんですか？」

「そうです」

「わかりました。引っ張りますよ……せーの、よいしょ！」

　声に合わせグシャッという乾いた音が響き戸が外れた。開いたのではなく戸ごと外れた。なんという怪力か。

　とかくこれで私の長く臭い旅は終わりを迎えた。

　へろへろと廊下に這い出て彼女の顔を見上げる。私の救世主たる彼女。頬を染めた少女ではなく薄い灰の色をしたスーツを纏った大人の女性。見覚えのあるその釣り上がった目尻。

　主様はにこりと微笑み私に告げる。

「大変でしたね先生。原稿はどうですか？」

　私は限られた対人用語彙の中から一つ抜き出し、おあつらえむきの姿勢のままにそれを繰り出す。

「……土下座いたします」

　世はやはり自業である。