ミルゥに抱きかかえられて、目をキラキラさせながら、始めて見るお船に大人しく見入っていたにゃんごろーだったが、突然、小さなお鼻をピクッとさせたかと思うと、グンッと前に身を乗り出した。
「うわっ! あ、危ないよ? きゅ、急に、どうしたの?」
「………………………」
慌てて抱え直しながらミルゥが腕の中の子ネコーに尋ねたけれど、子ネコーは答えない。キラキラではなくギラギラとした眼差しで、ギンっとお船の方角を凝視している。お耳もピーンとお船の方を向いていた。何か匂いを嗅ぎ取ったのか、小さなお鼻がヒクヒクしている。
んー?――――と首を傾げるミルゥの鼻にも、遅れて匂いが届いてきた。
少ーし甘くてクリーミィな匂い。
匂いを嗅いで、ミルゥは思い出した。そう言えば、ミルゥたち救援班とは別に、お船に残ったメンバーで、森へ逃げたネコーたちのために炊き出しをすると言っていた。お船や人間を警戒しているネコーもいるから、お船の空き地にテントを張って、外でスープでも作れば、匂いにつられてネコーたちがやって来るかもしれない、などと話していたはずだ。
腕の中の子ネコーは、その作戦に見事、引っかかってくれたようだ。
子ネコーの様変わりに合点がいって、ミルゥは口元を緩ませた。
「ふ、ふふ。にゃんごろーくん、お腹すいてるの?」
「…………おやつにトマトをたべちゃから、おにゃかはしゅいちぇにゃい…………」
「ふむ? ということは、つまり。にゃんごろーくんは、食いしん坊なんだね?」
「ううん、ちらうよ。みんにゃは、しょーゆーけりょ、にゃんごろーは、くいしんぼーりゃ、にゃい、じゅる…………」
次の質問には、ちゃんと子ネコーからの返事があった。大分、心ここにあらずな状態ではあったし、口調も怪しいが、一応会話は成立している。
食いしん坊ではないと答えたにゃんごろーは、今にも涎を垂らしそうなお顔で、まるで説得力がなかった。
「ふ、ふふ。そっか。よーし! そういうことなら、ちょっと張り切って、飛ばしちゃおっかな! 落ちないように、しっかり掴まっててね! にゃんごろーくん!」
「へにゃ? はぅ? にゃ? うにゃぁああああああああ!」
指先でにゃんごろーの背中をトントンしながらそう言うと、ミルゥはにゃんごろーをしっかりと抱え直し、森の坂道を駆け降りる。
ミルゥの笑い声と、にゃんごろーの悲鳴が森の中に轟く。
大慌てでミルゥにしがみついて、フルフル震えるにゃんごろーだったが、止まないミルゥの笑いに釣られて、段々と楽しくなってきた。
しがみついたまま顔だけを前に向けると、道の脇の木立がすごい勢いで後ろに流れていくのが見えた。潮風が毛並みを荒々しく撫でていく。
けれど、それが心地いい。
「うわぁあ! はやーい! ミルゥしゃん、しゅごーい!」
「んっふっふー。任せてー」
にゃんごろーを抱えたまま喋ったり笑ったりしているのに、にゃんごろーの全力よりもよっぽど早い。
風を切る高揚感に包まれて、にゃんごろーも笑いだした。
「しゅごーい! しゅごーい! ふっふふ! にゃはは! にゃははははははははは!」
「あっははははははは!」
笑い合いながら、転がるように森を駆け抜けていくミルゥ。その足取りは、羽でも生えているかのように軽い。にゃんごろーよりも足が長いのに、躓くことも、縺れさせたりもしない。軽やかで安定感のある足取りで、少しもスピードを落とすことなく、にゃんごろーの心を奪った匂いの元へと進んで行く。にゃんごろーを運んでいく。
やがて、森の終わりが見えてきた。
お船の後部には、森を抜けるための広い道がある。森の小道は、広い道の手前の開けた場所に繋がっていた。空き地にはテントが張られ、数人の人間が集まって、何やら作業をしている。青猫号の炊き出し班たちだ。
森から聞こえてきた笑い声に、炊き出し班は何事かと手を止めて森を見上げた。子ネコーを抱いたミルゥが姿を現すと、炊き出し班のみんなも笑い出す。
楽しそうな笑い声に包まれながら、にゃんごろーはお船手前の炊き出しの地へと降り立った。
「ただいま!」
あんなに走った後なのに、少しも息を乱れさせることなく元気に帰還の挨拶をすると、ミルゥは腕の中に大事に抱えていた子ネコーを、トンと地面に降ろしてやる。
にゃんごろーは、お手々の肉球と肉球をお腹の前で合わせて、尻尾をユラユラさせた。
ちょこんと小さなお耳が載っているまぁるい頭が、ミルゥの膝より少し上くらいに見える。見下ろしたアングルのあまりの可愛らしさに、気づけば勝手に手が動いて、ミルゥは後ろからにゃんごろーの頭を撫でていた。蜂蜜のように甘く蕩けた表情で、柔らかい感触を堪能する。
当のにゃんごろーは、それに気づいた様子もなく、目を真ん丸に見開いて、ある一点を食い入るように見つめていた。
ミルゥに挨拶を返した炊き出し班が、にゃんごろーにも挨拶をしてくれているのに、それにも気が付いていないようだ。子ネコーに無視された形になった炊き出し班の面々だが、子ネコーの無作法に眉をしかめたり、怒りだしたりする人はいなかった。みんな、子ネコーの様子を見て笑ったり、笑いを堪えたりしている。
にゃんごろーが、心も視線もお鼻もお腹もがっちりと掴まれているのは、空き地の奥側に設置されたコンロの上で、くつくつといい香りの湯気を立てている、大きな寸胴鍋だった。
にゃんごろーがすっぽり入りそうなくらい、大きな寸胴鍋だ。
にゃんごろーは頭を撫でるミルゥの手からスルリと逃れ、フラフラと寸胴鍋に向かって歩いて行った。一歩踏みだす度に、尻尾がユラユラ揺れる。
ミルゥも、その後をついて行った。「お鍋は熱くなっているから触ったらダメだよ」とミルゥが声をかける前に、にゃんごろーはちゃんと直前で止まった。
「お腹がすいているのかい?」
「うんにゃ。おやつにトマトを食べたから、お腹はすいていないって。単なる食いしん坊みたいだよ。本人ならぬ本ネコーは違うって主張していたけどね」
みんなの気持ちを代表して、エプロンをした恰幅のいい女性が寸胴鍋をかき混ぜながら尋ねると、鍋に釘付けの子ネコーに代わってミルゥが答えた。
それを聞いて、すでに笑っていた人間も、笑いを堪えていた人間も、本格的に笑い出す。
楽しそうな笑い声にも気づかないまま、にゃんごろーのすべては、寸胴鍋の中身へと寄せられていた。
ポタリ、と地面によだれが落ちる。
「あともう少しで、出来上がるからね。それまで、いい子で待ってておくれ」
「にゃ!?」
食いしん坊な子ネコーは、エプロンをした女性の「いただきます予告」に反応を示した。ユラユラさせていた尻尾を、ピーンと真っすぐに立てる。「いただきます予告」に続く「いい子」というワードに、長老から言い聞かされていた言葉を思い出したのだ。
『よいか、にゃんごろーよ。お船でごはんをいただくときは、お行儀よーくしておるのじゃぞ? でないと、美味しいごはんがもらえないかもしれないぞ?』
何度も聞かされていた長老のお言葉が、電流のように、にゃんごろーの脳内を駆け抜けていく。
いい匂いに夢中なあまり、まだご挨拶もしていなかったことに、子ネコーはようやく気が付いた。
さぁっと全身から血の気が引いていく。
今からでも、急いでお行儀よく挨拶をしなければ、と居住まいを正し、にゃんごろーはキリッとお顔を引きしめた。
「ご、ごあいしゃつら、おくりぇました。ネコーのこの、にゃんごろーれしゅ! よろしるるる、る!」
精一杯のつたないご挨拶とともに、最後の「る!」に合わせて、深々と頭を下げる。
寸胴鍋の中身にすべてを奪われていたにゃんごろーの突然のご挨拶に、みんなはポカンと口を開けて、にゃんごろーを見つめた。食いしん坊子ネコーから、礼儀正しい子ネコーへの変貌ぶりに、ついていけなかったのだ。
みんなの視線をひとり占めにしながら、にゃんごろーは、恐る恐る頭を上げる。
みんな、変な顔でにゃんごろーを見ているけれど、誰からも挨拶が返ってこない。
やっぱり、ご挨拶が遅すぎたのだろうか?
自分に注がれている視線の意味が分からず、にゃんごろーはオロオロと、不安な胸の内を語り始める。
「も、もしきゃして。にゃんごろー、ごあいしゃつら、おしょしゅぎちゃ? おぎょーぎわるいって、おもわれちゃっちゃ? も、もう、おいしもにょ、もりゃえにゃいにょ?」
不安と動揺のあまり、かなりたどたどしく、けれど一生懸命に訴えるにゃんごろー。最後の一言と同時に、つぶらな瞳から、ほろほろと涙が零れ落ちていった。
落涙と共に、爆笑が鳴り響いた。
炊き出しスペースにいる人間たちはみんな、身を捩るようにして笑い転げている。
今度は、にゃんごろーがポカンとする番だった。
にゃんごろーは、まあるいお目目をパチパチして、みんなを見回す。びっくりのあまり、涙は止まっていた。
あちらこちらから、人間の手が、にゅっと伸びて来て、子ネコーを遠慮なく撫で回し始めた。お耳にも、頭にも、お胸にも、お腹にも、背中にも、所在なさげにしている腕にも。もふもふした体の至る所に、手は伸びてきた。最初はビクッとしたけれど、伸びてきた手はどれも優しくて、少しも嫌ではなかった。むしろ、嬉しい。
それでも、どうしてこうなったのかが分からず戸惑っていると、お耳の上から、笑いを含んだミルゥの声が降って来た。
「ふっくくく。だ、大丈夫。大丈夫、だよ、にゃんごろー、くん。ふっふは。ちゃんと、上手に挨拶、出来てたよ。お、お行儀も、よかったよ。くふふふふ。うっ、くはは」
「あっはっはっはっ! 心配しなくても、とびっきり美味しい料理を食べさてあげるから、楽しみにしてな。あっはっはっはっはっ!」
ミルゥに続いて、鍋をかき回していたエプロンの女性からも、大笑いと美味しい料理を約束してくれる言葉が贈られてきた。
みんなが笑っている理由は、やっぱりサッパリなままだった。けれど、にゃんごろーは、ちゃんと美味しいものを食べさせれもらえるらしい、ということだけは分かった。
それだけで、にゃんごろーには十分だった。
「ほ、ほんちょ!? ありあちょー!」
小さなお顔に満開の笑顔を咲かせて、嬉しそうな声をあげるにゃんごろー。
途端に元気になった現金な子ネコーに、人間たちはさらに激しく笑いながら地面へ崩れ落ちていく。どうやらここには、笑い上戸ばかりが集まっているようだ。
人間たちは、地面に寝っ転がって、拳で地面をどんどんと叩きながら、笑い転げた。ただ一人、鍋をかき混ぜていた女性だけは、鍋の番をしている使命からか、辛うじて耐えているようだったが、腹を抑えて腰を屈めた姿勢でプルプルと震えている。
「ふにゃ? にゃにゃ? にゃ?」
小さくて丸い頭をキョロキョロと動かして、体もグルグル動かして、順番にみんなの様子を見て回るにゃんごろー。
どうして、こうなっているのかは、やっぱりサッパリ分からない。
けれど、みんな。
笑いすぎて苦しそうだけれど、とてもとても楽しそうだ。
だから。
「んー、にゃんごろーも! ふふ、にゃははははははははははははは!!」
にゃんごろーも真似してみることにした。
とぅっ、と地面に寝っ転がって、にゃろんごろんと笑い転げる。
初めのうちは、わざとな笑いだったけれど、やっている内にだんだん楽しくなってきて、本当の笑いに変わっていった。
自分たちの真似をして転がる子ネコーに誘発されて、子ネコーを中心に、更なる笑いの渦が起こる。
笑いの宴は、どうやら、まだまだ続きそうだ。