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第13話 好きな人とのお勉強

 モデルをする代わりに勉強を教えてもらう約束をしてから数日後。その言葉通り、私は高坂くんと図書館にいた。


「ほら、ここはこっちじゃなくてこの公式を使うんだ」


「え、なんで?」


「符号を確認してみ。三角関数の合成は符号の勘違いがよくあるんだ」


「んー……あ、ほんとだ。ここプラスじゃなくてマイナスじゃん」


 高坂くんの説明はとても丁寧でわかりやすかった。たまに瞳さんにも勉強を教えてもらうことはあるが、頭の回転が早すぎてなにをどう考えてるのかさっぱりわからないのだ。ああいうのを天才というのだろうが、私は天才ではないので高坂くんのようにひとつひとつ教えてくれるほうがありがたかった。ごめんね瞳さん。


「ていうか、春見ってマジで数学苦手なんだな。これは壊滅的すぎる」


「壊滅的いうな」


 まあ、ときどき一言余計なのが玉にキズなんだけど。あと私が反論したらなんで笑うの。

 微妙に不貞腐れつつ、私は高坂大先生のご指導のもと問題を解き続ける。


「そういえば、この前描いてた絵の細部の進捗はどう?」


 大問三の問題文を流し読みしながら私は尋ねた。どうやらまた三角関数の合成らしい。


「ん? ああ、春見のおかげでだいぶ鮮明になってるよ。ただ、時間見つけて家で描いてるんだけど、進みはあんまり良くない」


 くるり、と高坂くんは右手で赤ペンを回した。


「ふーん。やっぱり結構かかりそう?」


 教科書に載っている公式通りに、私はシャーペンをノートに走らせる。


「うん。わりーけど、もう二、三回は頼むかもしれない」


 高坂くんはまた赤ペンを二回、三回と回転させた。


「それは全然構わないけど……っと、よし。できたよ」


 縦にいくつも並んだ一番下のイコールのあとに、私は求めた答えを書いた。


「お、できたか」


 高坂くんはペン回しをやめて、その先を私の途中式に丁寧に当てていく。そして一番下まで特になにも書くことなく進み、そして。


「おーいいじゃん。正解だ」


 大きな赤マルをひとつ、さらりと描いた。


「わっ、やった!」


 小さな達成感に心が満たされる。そんな私を見てか、高坂くんは柔らかな笑みを浮かべた。


「この調子で基礎をつけていけば、来年受験する頃には結構いい線まで行くと思うぞ」


「ほんと?」


「うそなんか言わないって」


 まぐれじゃない、確かな正解の感触を味わいつつ、それじゃあ早速と私は次の問題に視線を移した。


「ちなみに、春見は行きたい大学とかあるのか?」


「え?」


 ペン先が一行目で止まる。代わりに、私は問われたことへの答えを考え始めた。けれど。


「んーまだ決まってないかな。私、勉強苦手だし」


 出てきたのは真っ白な感覚だけだった。いやむしろ、これはなにも出てこなかった結果か。

 私は高坂くんと違って特にやりたいことはない。不幸の青い糸が見えるからといってそれを活かそうなんてとても思えないし、勉強も嫌いだしきっと無難な大学に進むんだろう。


「そういう高坂くんは? やっぱり絵に関することを学べる大学に行くの?」


 私は視線をノートから外して訊いた。

 曖昧な私と違って高坂くんは絵が好きだし、芸術方面はもちろんデザインとかそういう方向性もいいと思う。高坂くんのデザインしたお菓子のパッケージとか絶対惹かれそうだ。

 そんな呑気なことを考えながら彼を見ると、なぜか高坂くんは驚いた表情をしていた。


「なんで? なんでそう思うんだ?」


「え? 違うの? 高坂くん、絵描くの好きだし、芸術方面のハードルが高くてもデザインとかそういう方向性もアリかなって思ったんだけど」


 もしかして、私は余計なことを言ったんだろうか。意外にも微妙な高坂くんの反応に一抹の不安を抱いていると……


「ふふ、あははは!」


 唐突に高坂くんが笑い出した。


「え、ええ? なんで笑うの?」


「いや、はははっ!」


 私が戸惑っても、高坂くんは笑うのをやめない。意味不明すぎる。てかここ一応図書館なんだけど。

 そうこうしているうちに司書の先生に注意され、ようやく高坂くんは笑うのをやめた。


「いやー笑った笑った」


「怒られたじゃん。というか、なんで笑ったの」


「いや、ははっ、なんていうかやっぱ春見だなって思ってさ」


「はあ?」


 この男は本当になんなんだろうか。私のことをバカにしているんだろうか。

 私が訝しげな視線を送ると、高坂くんは「ごめんごめん」と謝ってから口を開いた。


「俺今まで、親からも先生からも偏差値のいい学校に行ったほうがいいって言われてきてたんだ。選択肢を広げるためにさ。もしくは、陸上の強い学校とか。友達も当然みたいにそう思ってるし、俺自身もそれでいいのかなーって思ってたんだけど、春見は違うんだなって思ってさ」


「いや、まあ……」


 確かにそう言われればその通りだ。高坂くんは学年でもトップクラスに入る実力を持っているし、陸上でも指折りの実力者だし、どっちをとっても引く手数多だろう。普通に考えれば絵は趣味で、頭の良い学校か陸上の強い学校が妥当だ。

 ちょっと喋りすぎたかな、と反省しつつ私は視線をノートに戻した。大問三は終わったから、次は大問四で……


「ありがとな。俺、やっぱり春見のこと好きだわ」


「なっ!?」


 突然かけられた言葉に、私は全力で断り倒した。けれど、公園の時とは違い、高坂くんは陽気に笑っていた。

 そしてまた司書の先生に怒られて、その日はそのまま解散となった。


「じゃあな! また明日学校で!」


 教室で友達に向けていた優しい笑顔を、彼は私にも向ける。私だけに、向けてくれた。


「うん。またね」


 喜びの熱はあるし、ついさっきまで隣に高坂くんが座って勉強を教えてくれていたことへの充実感もある。

 だけど、どうしても逃れられないものがこの世にはある。

 少し近づきすぎてしまったかな。

 別れ際に振られた左手の先には、変わらず青い糸が光っていた。

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