「おはようございます」
いつになく、軽やかな挨拶とともに
静かな自信に満ち溢れた顔で、萌流水は悠々と自席へと向かう。クラスメートたちの戸惑いを、楽しんですらいた。
ぎちぎちの三つ編みにしていた髪形をハーフアップに変えて、色違いの細めのリボン二本で結わえている。白と青のリボンは、清楚な萌流水の魅力をよく引き立てていた。地味でお固い印象は消え、派手な顔立ちの
何気ない風を装い、談笑を続けながらも、みな女王である梨々花の様子を恐る恐る窺っている。仮初の平穏がついに終わりを告げるのかと、ビクビクとしている。女王の標的にされるのが自分ではないとしても、それまで凪いでいた水面が荒れるのは好ましくないのだろう。波が荒れては、これまで安全だった小舟だって、穏やかではいられない。波に足を取られて転覆しないように、常に気を張っていなければならない。
女王への恐怖心が、萌流水への非難に変わる前に、女王自らが先に動いた。
「おはようございます。萌流水さん、髪形を変えたのね。いいと思うわ。あなたに似合っている」
「ありがとう、梨々花さん」
梨々花がにこやかに話しかけ、萌流水もまたにこやかにそれに答える。
教室内にどよめきが走った。それくらいに、有り得ないことだった。
梨々花が萌流水を褒めながら笑いかけたとしても、本来の梨々花ならば、それは宣戦布告の意味を込めた挑発的なものになるはずなのだ。答える萌流水が、作り物めいた笑みではなくて、本心からの笑みを浮かべているのも、滅多にないことだ。実際、クラスのみなの前で、萌流水が本当に心からの笑顔を見せるのは、これが初めてのことかもしれなかった。
梨々花はどよめくクラスメートを不思議そうな顔で見つめたけれど、またチラリと萌流水の方を見て納得したように頷くと、取り巻きたちと談笑を始める。みなも、萌流水の変貌ぶりに驚いているのだろうと、自分を納得させたのだろう。
取り巻きたちの方は、萌流水にも梨々花にも何一つ納得も理解も出来ていない様子だったけれど、梨々花に話しかけられると、声を上ずらせながらも女王の話に追従する。
「自分の魅力を引き立てるためのお洒落って、大事よね。リボンって、少し子供っぽいと思っていたけれど、使い方しだいよね。わたしも、自分に似合うリボンを探してみようかしら」
「わあ、いいと思います。今度、買いに行きましょう?」
「梨々花さんには、もう少し落ち着いた、ワインレッドとかゴールドなんかも似合いそうですよね」
髪形を変えたクラスメートを褒めて、自分も真似してみようかと仲のいい友達に相談する。女学生らしい、ごくありきたりな朝の光景にみえる。何もおかしなところはない。
これが、萌流水と梨々花でなければ。
取り巻きたちは、内心の動揺を押し隠して梨々花の話に合わせているけれど、他のクラスメートたちはその様子を見て、よりいっそう困惑を深めているようだった。
関係のない話を続けながらも、チラチラと梨々花たちや萌流水へと視線を投げかけてくる。
困惑の中に、萌流水の変化に対する称賛する視線もいくつか含まれていることに気が付いて、萌流水は気をよくした。
鞄の中身を引き出しに詰め終えると、窓の外を見つめる。
窓の外はあいにくの曇り空だったけれど、気分は晴れやかだった。
最上の次のターゲットは、決まっていた。
予行練習がうまくいった後の本番は、もちろん、梨々花以外には有り得ない。
決行は、昨日の夕方だった。
こっそりと手紙を渡して、梨々花一人を放課後の図書室へ呼び出すと、梨々花はあっさりとそれに応じた。利用者が少なくなる、利用時間終了の十五分前という半端な時間だったけれど、ちゃんと取り巻きを連れずに、一人で現れた。
頭のいい梨々花のことだから、なるべく二人きりで話したいという萌流水の意図には気づいているはずだ。だが、一人で来たのは萌流水の意を汲んでというよりは、萌流水など恐れるに足らずという意思表示のつもりなのだろうと、萌流水は判断した。プライドの高い梨々花の性格を見越して、手紙に「逃げずに一人で来てほしい」というようなことを書いたのも、一役買っているはずだ。
かなり早めに図書室に訪れた萌流水が、本を読みながら待っていると、梨々花は時間ピッタリに姿を現した。
本を閉じて鞄に仕舞い、図書室の一番奥の本棚の裏、最上を仕留めた場所へと無言で向かうと、梨々花もまた無言でそれに続いた。
本棚の後ろで向き合うと、梨々花は腕を組んで、やはり無言のまま萌流水を見つめてくる。無言なのは、ここが図書室だからと言うこともあるのだろう。
視線だけで、言いたいことがあるなら早くしろと訴えている。
挑戦的な光を宿してはいたが、突然の一方的な呼び出しに、怒ったりイラついたりしている様子はなかった。萌流水がどういうつもりで呼び出したのか、予想がつかなかったのだろう。純粋に、萌流水の話に興味を抱いているようだった。ただし、話は聞くけれど、言いなりになるつもりはないという圧だけは、怠りなくちゃんとかけてきている。
もう少し不機嫌なくらいの方がやりやすいのに、と思いながらも、萌流水は余裕を崩さなかった。
梨々花を本気で怒らせるのなんて、萌流水には簡単なことだからだ。
放課後のなるべく人の少ない図書室で、本棚の影に二人だけ。後は、梨々花を怒らせて、その口の中にゼリービーンズを放り込んでやればいい。
それで、女王様の独裁は終りだ。
悪魔様も、その時を待っている。
美味しいご馳走にありつける、その時を待っている。
その証拠に、萌流水が呼びかける前に、悪魔様は現れた。
馴染みとなった、胸の奥がざわつくような気配。悪魔様の気配。
萌流水は、勝利を確信した。心の奥のどこからか、声が聞こえてきたような気がしたけれど、何を言っているのかは聞き取れなかった。
何を言っていたのだとしても、今さら止まるつもりはなかった。
「心の準備をさせてあげた方が親切かと思って、ここに呼んでみたの」
「は?」
声を潜め、でも梨々花には聞こえるように告げると、梨々花は眉を吊り上げて低い声で答えた。まさか、いきなり宣戦布告めいたことを言われるとは思っていなかったのだろう。瞳の奥に、怒りの炎がチラついている。その先の萌流水のセリフがなんなのか、梨々花には予想出来ているはずだ。
そうと知りつつも、言い含めるようにことさらゆっくりと、萌流水は女王の耳元に囁きを落としていく。
「あなたの顔を立てるためだけに、地味を装ったり、テストで手を抜くのを止めようと思って。本気を出せば、あなたよりもいい成績を取ることなんて、簡単なのよね」
「……………………」
前触れのない萌流水の突然の反逆宣言を、梨々花は黙って聞いていた。
寛大な心で受け止めてくれている…………わけでは、もちろんない。
腕組みをしている梨々花の指の先に、力が籠っていく。指先が、腕に食い込んでいた。無言で萌流水を見つめ返す瞳の中には、炎が荒れ狂っている。爆ぜた火の粉が飛び出してきそうなほどに。
怒りを爆発させることなく抑え込んでいるのは、室内にいる図書館司書の北見先生や、図書当番の生徒を気にしてのことだろう。はしたなく声を荒げたりしたら、
梨々花のことは気に食わなかった。けれど、計算高く、感情をコントロール出来るその能力を、萌流水は評価してもいた。改めて感心しつつも、手綱を緩めることなく、萌流水は追撃を続けた。
爆発にまでは至っていないが、梨々花の怒りのボルテージは、十分に上がっている。けれど、まだだ。まだ、足りない。
悪魔様に満足してもらうためには、もう一歩足りない。もう一味、足りない。
理性の蓋をこじ開け、限界ギリギリまで高まっている怒りを爆発させるための、仕上げのスパイスが何なのか、萌流水は知っていた。そのスパイスを、萌流水は持ち合わせていた。
容姿で並び立たれることも、成績で抜かれることも、萌流水が
萌流水がどうこうではない。萌流水が、何か梨々花の気に障るようなことをしたわけではない。
梨々花は、
外来星にとっての、悪しき魂。
それに根差した、激しい怒り。
それをこそ、悪魔様は求めているのだと、萌流水は今、強く感じていた。
だって、悪魔様がこんなにも喜んでいる。その波動を、確かに感じる。萌流水が最後の仕上げを施すのを、舌なめずりせんばかりに待ち構えている。そのことを、確かに感じるのだ。
その期待に応えるために、腕によりをかけて、絶妙の加減で最後にスパイスを一振りする。
「ご自慢に思っていたはずの、容姿においても、勉強においても。外来星であるわたしに完膚なきまでに打ち負かされることになるなんて、さぞや惨めな思いをされるでしょうから。ふふ、先に心構えをしておいた方が、ショックが和らぐのではないかと思って。少しおせっかいをやいてしまいました」
「あんまり、いい気に……んぐっ!」
「どうぞ、召し上がれ」
いつもの梨々花の態度をお手本に、高圧的かつ丁寧な物言いで、梨々花にとっての禁句を告げると、効果は覿面だった。内容ももちろんだが、外来星である萌流水に上からものを言われたことにも、これ以上ないくらいにプライドを傷つけられたはずだ。萌流水の思惑通り、悪しき女王が声を張り上げようとしてきたので、大きく開いたその口の中に契約の証を放り込んでやった。
召し上がれの一言は、梨々花ではなく、悪魔様へ向けたものだ。
梨々花の声は少し響いたはずだが、すぐに口をふさいだおかげか、様子を見に来るものはいなかった。
後は、井原の時と同じだ。
話は終わりだから、今日はもう帰るように告げると、梨々花の形をした虚ろな人形は、言われたとおりに一人で図書室を出ていった。
首尾は上々だった。
穢れた純血星の魂を食べられた女王は、純血星にも外来星にも公平な、正しい魂の持ち主へと生まれ変わったのだ。魂が浄化された、と言ってもいいかもしれない。
もはや、梨々花は脅威ではない。
萌流水が梨々花よりいい成績をとっても、萌流水がクラスで孤立させられることはないだろう。
図書室の空気がざわめいていた。喜びの波動。満ち足りた波動。
萌流水が仕上げた料理の出来に、悪魔様も満足しているのだ。
悪魔様につられたかのように、自然と口元がほころんでいた。
卒業するまで続くはずだった牢獄から、萌流水は今まさに解放されたのだ。
「おはよう、萌流水! 髪型変えたんだね! すごく似合っているよ!」
「…………おはよう、
昨日の顛末を思い返し、勝利の味を噛みしめていると、流風の声が聞こえてきた。流風はいつも時間ギリギリに登校してくるので、あいさつの後は少し言葉を交わすだけで、すぐに自席へ向かってしまう。
軽く鼻歌を歌いながら席へと向かう流風は、教室の雰囲気がいつもと違うことには気が付いていないようだった。ご機嫌で、鞄の中身を引き出しへと移していく。
昨日までは気に障ってならなかったその浮かれっぷりも、鈍感さも、今は全く気にならなかった。
――――今のうちに、せいぜい浮かれていればいい。だって、最後に
図書室の窓から、校舎の裏でゼリービーンズをこっそり食べている綺璃亜を見つけた時よりも、ずっと心が躍った。
萌流水にとって綺璃亜は、これまでずっと手の届かない高値の花のような存在だった。そのままずっと。萌流水だけでなく、誰にとっても高値の花のままでいてほしかった。
綺璃亜と、綺璃亜以外の誰かの世界が交わることはあってはならないと思っていた。
あってはならないと願っていた。
萌流水自身を含めた、誰であっても。
綺璃亜の世界は綺璃亜一人だけのもので、透明な膜越しに、綺璃亜は他の世界のその他大勢を眺めているにすぎないのだと、いつしか信じていた。
透明な膜に気がついているのは、綺璃亜と萌流水だけで、他の生徒や教師は世界を隔てる膜の存在にすら気がついていないのだと、そう思い込んでいた。
そして、綺璃亜には。
いつまでもずっと、綺璃亜の世界の、ただ一人の存在でいてほしかった。
自分の隣でいつも揺れている白いリボンを見る度に、その思いを強くした。
だから、余計に許せなかった。
白いリボンの主が。
膜があることにすら気が付いていない鈍感のくせに、強引にその膜の向こうへ侵入しようとする流風のことが、許せなかった。
――――でも、わたしは違う。強引に、膜を破ったりなんて、無粋な真似はしない。
萌流水は萌流水で。自分一人だけの世界を創るのだ。
綺璃亜と同じように。綺璃亜と同じ存在になるのだ。
綺璃亜は綺璃亜の世界で。萌流水は萌流水で。その他大勢たちは、その他大勢対たちの世界で。透明な膜に隔たれた、三つの世界。
世界を隔てる透明な膜に気が付いているのは、綺璃亜と萌流水だけ。
綺璃亜の存在を損ねることなく、萌流水はその他大勢から脱出して、綺璃亜と同等の存在となる。
そうするための力を手に入れたことで、よりその想いが強くなった。
――――綺璃亜先輩はもう、わたしが悪魔の力を手に入れつつあることに、気がついているんだろうか?
そうであってほしい気もしたし、そうでない方がいい気もした。
まだ、萌流水の力は完全ではない。けれど、図書室の中でならば、簡単な暗示をかけるぐらいのことは出来るようになっていた。梨々花を帰した後、司書の北見先生と図書当番の子に、何かあったのかと尋ねられた。梨々花が張り上げかけた声を、聞かれてしまったのだろう。適当に誤魔化すつもりで、先生と目を合わせたら、先生の目がフッと虚ろになった。これはもしかしたらと思って、「気のせいじゃないですか」と言い含めたら、先生は「そうね」とあっさり頷いた。怪訝な顔をしている当番の子にも、同じように目を合わせて言い含めると、萌流水の言う通りに頷いた。
図書室の中であれば、目を合わせて命じるだけで、誰でも思い通りに出来る。
悪魔様に供物を捧げ、繋がりを深めたことで、萌流水は”力”を手に入れたのだ。
図書室を統べる、女王になった気分だった。
少しだけ、綺璃亜に近づけた気がした。
でも、まだ、それだけでは足りない。綺璃亜と肩を並べる存在になるためには、校内のどこであっても、この力を使えるようにならなければならない。
綺璃亜のように眼差し一つで、相手の魂を操れるようにならなくてはならないのだ。
綺璃亜と同じ高みまで昇りつめて初めて、萌流水は綺璃亜に認められる。
余計な言葉はいらないし、慣れ合う必要もないと思っている。
そういうのは、綺璃亜には相応しくない。
目と目を合わせるだけで、お互いにそうなのだと認めあえる、それだけでいい。
――――それだけがいい。
その日が訪れるのは、きっと、そう遠いことではないと、萌流水は夢を見た。
望む通りの未来を、きっと手に入れられるのだと信じた。
だって、萌流水には、悪魔様がついているのだから。
悪魔様さえいてくれれば、恐れるものは何もない。
何の疑いもなく、萌流水は、そう信じた。