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第55話 誘惑に

 李仁は、また仕事帰りにバーへ立ち寄った。

 湊音には「遅くなる」とだけ伝えているが、その理由をつけて出歩く頻度が増えている。


 かつて自分が働いていたバーだった。だが今では経営者もスタッフも変わり、店内の雰囲気もすっかり様変わりしている。店員たちも、以前のように話しかけてくることはない。


 ――それが、今の李仁にはちょうどいい。

 誰とも関わらず、ただひっそりと酒を飲むには、居心地のいい場所だった。


 店の隅の席に腰を下ろし、タバコとともにワインを嗜む。

 本当はタバコをやめたはずだったが、いつのまにか手に戻っていた。


「課長、またここに?」


「麻衣ちゃん……あなたこそ」


 最近、このバーで麻衣と顔を合わせることが増えた。彼女は李仁の部下であり、仕事帰りの一杯に立ち寄るようになっていた。もともと彼女もこの店の常連だった。


 麻衣は隣に座り、ビールを注文しながらタバコに火をつける。


「……家で待ってるんじゃないんですか?」


 麻衣が湊音のことを気遣うように尋ねると、李仁は軽く肩をすくめた。


「ん? 遅くなるって言ってあるわ」


「でも、仕事ないのバレバレですよ」


「ふふ、結婚前もそんなだったし」


「前科ありですね」


 二人は、ここでは上司と部下という関係を忘れたように、砕けた口調で会話を続ける。


 タバコの煙と会話が混じり合い、仕事以上に心が緩んでいく。


「恵山さん、たぶん今生理で……すっごく八つ当たりされてて」


「昔からそう。ホルモンバランスで不安定になるのは仕方ないけど、病院にも行かないし、薬でコントロールもしない……周囲に迷惑かけてるって、本人は気づいてないのよね」


「……正直、しんどいです」


 李仁は、長年共に働いてきた恵山のヒステリックな一面に振り回された記憶がよみがえっていた。


「麻衣ちゃんはいつもフラットよね」


「……私、病院通ってますから。ちゃんと薬も飲んでますし」


「自己管理、偉いわね」


「評価に反映してくださいね? 今度評価面談、ありますよね?」


「やだ、プライベートまで査定しないわよ」


 二人は笑い合った。

 李仁はふと、こんなふうにくだらない話で笑い合うのは久しぶりだと感じる。

 ふと手元のタバコを灰皿に押し付けた、そのときだった。


 麻衣が、空いた李仁の右手をそっと握った。

 李仁は驚いて麻衣を見る。


「冗談はやめてちょうだい」


 職場では使わない“おねえ”の口調も、この場所では素のまま出てくる。

 しかし、麻衣の視線はどこか熱を帯びていて、李仁の手を自分の太ももへと誘った。


「冗談じゃありませんよ、課長」


「……なにやってるの。店を出ましょう」


 李仁は視線を外し、さっと会計を済ませる。


 普段なら麻衣を家まで送るだけだったが、その夜は違った。

 店を出てすぐの路地裏で、李仁は麻衣にキスをした。

 麻衣は応えるように抱きつき、唇を重ね、深く、何度もキスを繰り返した。


 一旦唇を離して、李仁が言う。


「店の中であんなことしないでちょうだい。……あなた、まだまだお子ちゃまね」


「女の人、好きなんですね」


 再び麻衣がキスをしてきて、李仁も応じる。唇が重なり、舌が絡む。


「人として好きなだけよ」


 微笑みながら言い、李仁は彼女の下着に手をかけた。


「課長、お薬飲んでますから……」


「ばかね、そう言って騙す女、いるのよ?」


 二人は目を合わせ、くすっと笑い、またキスをした。

 そして、路地裏で――。



 その頃、李仁の帰りを待つ湊音。


 夕食は、あとは温めるだけだった。

 かつて李仁の浮気に何度も心を痛めてきたが、さすがに今はもう、そんなことはないと信じていた。


「李仁……お仕事、忙しいもんね。僕の代わりに働いてくれてるんだから……」


 スマホに通知が来た。画面に表示された名前は「シバ」。

 湊音は画面をしばらく見つめた後、そっとスマホを伏せた。


「……もう、いい加減にしなきゃね」



 その夜、李仁は結局、家には帰ってこなかった。


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