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第56話 誤解

朝。


「起きて!!」


 李仁は誰かの怒鳴り声で目を覚ました。昨晩が花の金曜日だったこと、飲みすぎたことには心当たりがある。けれど、まだ頭が痛くて、目は開かない。


「……もうちょっと寝かせてぇ」


 寝返りを打ちかけた瞬間、自分が裸であることに気づく。記憶の奥に、部下の麻衣と激しくキスを交わした場面がよぎった。


「起きなさいってば!」


 怒声が一段と大きくなる。それは麻衣の声じゃない。


 まぶたを無理やり持ち上げると、光の向こうに見慣れた顔があった。


「早く起きなさい、李仁! 家に帰らないと!」


 ――大輝!?




* * *




 大輝が差し出したスウェットに着替え、テーブルの前で李仁は抜け殻のように座っていた。目の前のコーヒーから湯気が立ち上る。


「湊音くんには連絡したけど、寝てるみたい。いまも電話出ないってことは、きっと一晩中あなたのこと待ってたんじゃない?」


「……かもね」


「“かもね”じゃないでしょ!」


 大輝は怒りながらも、手際よく朝食の支度をし、李仁の世話を焼く。


「フラフラしながら美容室のドア叩いてきたの、覚えてる?」


「……うん」


「新人の練習してたから泥棒かと思ったのよ。ドア開けたら、酒と香水とタバコのにおいプンプンの李仁がいたんだもん」


「う、うん……部下と……女性の部下と飲んで、キスして……それで……エッチな流れになりかけて……」


 大輝が呆れ顔でため息をつく。


「昔は男相手に誘惑する側だったのに、今じゃ女の子に誘惑されて応じちゃうの?」


「その話はしないでってば! だいたい大輝だって昔、路地裏で私と……!」


「十年前ね。懐かしいけど今はどうでもいいの! で、やったの?」


 李仁は首を横に振る。


「いや……誘われて、その気になったんだけど……私が下着に手をかけた瞬間に彼女の足が震えだして。もしかして、って聞いたら……」


「……処女?」


「うん。経験者としかしたことなかったし、目が覚めて慌ててタクシー乗せて帰した……」


 李仁は記憶をたどりながら顔を覆う。


「あああ、もう私のバカ!!」


 お酒に強いはずなのに、深酒。女性の誘惑にも負けないつもりだったのに、ついフラついた自分が情けないと思う李仁。


 そんな李仁の様子を見ながら、大輝はスマホをちらっと見て言う。


「湊音くんから着信よ。出る?」


「……やめとく。うまく言っといて」


「電話は出るけど、昨晩の服はタバコと香水のにおい、シャツには口紅とファンデ……」


「……出るわ」


 李仁は観念して、スマホを手に取った。




『李仁……どうしたの? 大丈夫?』


 湊音の声は、不安と心配に満ちていた。


「ごめん、いまは……大輝の家にいるの。昨日ちょっと飲みすぎて……」


『大輝くんのとこなら安心だよ。僕は今から道場で稽古。帰りは迎えに来てくれる?』


 李仁は思わず固まった。予想していたよりずっと、穏やかな声だった。


「……わかった。昼ごはん、ちゃんと作って待ってるから」


『もう用意したよ。李仁はゆっくりして』


「ミナくん……」


 電話が終わると、李仁は静かに肩を落とした。


「さすがミナくん。まるで奥さんね。過去に何度も浮気されて免疫できたかもよ?」


 からかうように笑いながら、大輝はバナナをかじる。




 李仁のスマホにメールが届いた。差出人は――麻衣。




『課長、おはようございます。昨日は本当に申し訳ありません。無事、家に帰られましたか?』


「……できる部下よね、こういうときに限って」


 もう一通、続けて届いた。




『路地裏でのキス、嬉しかったです。またご一緒したいです。』


 画面を慌てて閉じた李仁だったが、大輝はそれも見ていた。


「あーら、これはまだチャンスありって思われてるわね?」


「……う、うるさい。もう飲む場所変えるわ」


「ていうか、そもそも飲みに行かなきゃいいのよ。ミナくんいるのに……」


 その言葉に、李仁の肩がビクッと震えた。


「……飲みたくなるのよ、いろいろあると」


 そのとき――ふと、頭の奥で“シバ”の名前がよぎった。




 李仁の変化に、大輝は気づいた。元恋人ならではの直感が働く。


「ねぇ李仁……何があったの? あなた、酒に呑まれるタイプじゃなかった。女に誘惑されても、流される人じゃなかった……」


「……大輝……」


 言葉にならず、李仁は大輝にそっと身を寄せた。




* * *




「……そういうことだったのね、李仁」


「……うん」


 涙が頬を伝う。ベッドの中で、かつての恋人――大輝の腕の中に、李仁は身を委ねた。


 年下だけど、甘えられた。あの頃のように。


「大丈夫だよ、李仁。何があっても」


「……大輝……」


 李仁は昼過ぎまで、大輝のそばにいた。


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