朝。
「起きて!!」
李仁は誰かの怒鳴り声で目を覚ました。昨晩が花の金曜日だったこと、飲みすぎたことには心当たりがある。けれど、まだ頭が痛くて、目は開かない。
「……もうちょっと寝かせてぇ」
寝返りを打ちかけた瞬間、自分が裸であることに気づく。記憶の奥に、部下の麻衣と激しくキスを交わした場面がよぎった。
「起きなさいってば!」
怒声が一段と大きくなる。それは麻衣の声じゃない。
まぶたを無理やり持ち上げると、光の向こうに見慣れた顔があった。
「早く起きなさい、李仁! 家に帰らないと!」
――大輝!?
* * *
大輝が差し出したスウェットに着替え、テーブルの前で李仁は抜け殻のように座っていた。目の前のコーヒーから湯気が立ち上る。
「湊音くんには連絡したけど、寝てるみたい。いまも電話出ないってことは、きっと一晩中あなたのこと待ってたんじゃない?」
「……かもね」
「“かもね”じゃないでしょ!」
大輝は怒りながらも、手際よく朝食の支度をし、李仁の世話を焼く。
「フラフラしながら美容室のドア叩いてきたの、覚えてる?」
「……うん」
「新人の練習してたから泥棒かと思ったのよ。ドア開けたら、酒と香水とタバコのにおいプンプンの李仁がいたんだもん」
「う、うん……部下と……女性の部下と飲んで、キスして……それで……エッチな流れになりかけて……」
大輝が呆れ顔でため息をつく。
「昔は男相手に誘惑する側だったのに、今じゃ女の子に誘惑されて応じちゃうの?」
「その話はしないでってば! だいたい大輝だって昔、路地裏で私と……!」
「十年前ね。懐かしいけど今はどうでもいいの! で、やったの?」
李仁は首を横に振る。
「いや……誘われて、その気になったんだけど……私が下着に手をかけた瞬間に彼女の足が震えだして。もしかして、って聞いたら……」
「……処女?」
「うん。経験者としかしたことなかったし、目が覚めて慌ててタクシー乗せて帰した……」
李仁は記憶をたどりながら顔を覆う。
「あああ、もう私のバカ!!」
お酒に強いはずなのに、深酒。女性の誘惑にも負けないつもりだったのに、ついフラついた自分が情けないと思う李仁。
そんな李仁の様子を見ながら、大輝はスマホをちらっと見て言う。
「湊音くんから着信よ。出る?」
「……やめとく。うまく言っといて」
「電話は出るけど、昨晩の服はタバコと香水のにおい、シャツには口紅とファンデ……」
「……出るわ」
李仁は観念して、スマホを手に取った。
『李仁……どうしたの? 大丈夫?』
湊音の声は、不安と心配に満ちていた。
「ごめん、いまは……大輝の家にいるの。昨日ちょっと飲みすぎて……」
『大輝くんのとこなら安心だよ。僕は今から道場で稽古。帰りは迎えに来てくれる?』
李仁は思わず固まった。予想していたよりずっと、穏やかな声だった。
「……わかった。昼ごはん、ちゃんと作って待ってるから」
『もう用意したよ。李仁はゆっくりして』
「ミナくん……」
電話が終わると、李仁は静かに肩を落とした。
「さすがミナくん。まるで奥さんね。過去に何度も浮気されて免疫できたかもよ?」
からかうように笑いながら、大輝はバナナをかじる。
李仁のスマホにメールが届いた。差出人は――麻衣。
『課長、おはようございます。昨日は本当に申し訳ありません。無事、家に帰られましたか?』
「……できる部下よね、こういうときに限って」
もう一通、続けて届いた。
『路地裏でのキス、嬉しかったです。またご一緒したいです。』
画面を慌てて閉じた李仁だったが、大輝はそれも見ていた。
「あーら、これはまだチャンスありって思われてるわね?」
「……う、うるさい。もう飲む場所変えるわ」
「ていうか、そもそも飲みに行かなきゃいいのよ。ミナくんいるのに……」
その言葉に、李仁の肩がビクッと震えた。
「……飲みたくなるのよ、いろいろあると」
そのとき――ふと、頭の奥で“シバ”の名前がよぎった。
李仁の変化に、大輝は気づいた。元恋人ならではの直感が働く。
「ねぇ李仁……何があったの? あなた、酒に呑まれるタイプじゃなかった。女に誘惑されても、流される人じゃなかった……」
「……大輝……」
言葉にならず、李仁は大輝にそっと身を寄せた。
* * *
「……そういうことだったのね、李仁」
「……うん」
涙が頬を伝う。ベッドの中で、かつての恋人――大輝の腕の中に、李仁は身を委ねた。
年下だけど、甘えられた。あの頃のように。
「大丈夫だよ、李仁。何があっても」
「……大輝……」
李仁は昼過ぎまで、大輝のそばにいた。