仲夏のある日のことだった。
「はぁ......」
高校から下校したブレザー制服の黒髪の少年がポツンと玄関扉の前で佇んでいた。
少年はあどけさが残る顔には畏怖を覚えていた。
「やっぱり夢じゃないんだよなぁ」
少年が呟いた。
冷たい鉄製のドアノブがいつもより重く感じる。もしかしたら夢を見ているだけかと考えるも、扉越しに聞こえるお湯の沸騰する音、小型掃除機のモーター音が現実味を帯させる。
そう思いながら自分の頬を抓ると。
「痛い......」
これで夢ではないと確信を持てた少年は深呼吸をするとドアノブに手をかける。
別に現状が嫌というわけじゃない。現実味のない状況に慣れていないだけなのだ。
「......何やってるんですか、ご主人様?」
「いや、なんでもないよ?」
少年が扉の前で戸惑っていると、カチャリと静かに扉が開いた。
慌てて手を引くと視界に映ったのは丈の長いメイド服に身を包む銀髪碧眼の美少女。細目を向けられる。
彼女は人よりも少しだけ表情が読みづらい。彼女が何を考えているのかわからないでいた。
少年の住む1SLDKのアパートにはメイドが派遣されている。
彼女はなんでも完璧にこなす完璧メイドだ。欠点という欠点の存在しない彼女。だが、ひとつ挙げるとしたら主人を揶揄ってくるところだろう。
「なんですか?私を襲う算段でも立てていたのですか?」
「そ、そんなことないから!」
「ふふ……冗談です。暑いですし早く入ってください」
少年は慌てて否定した。その様子にメイドの彼女は口角を少し上げて鼻で笑う。
いつも通り揶揄われたとがっくりとした少年は促されるまま玄関に入りリビングに向かう。
メイドは少年から荷物を預かると、話しかける。
「今日の晩御飯はカレーですよ」
「お、いいね!」
まぁ、揶揄われてもいつも通りなので気にせずに話をする。実際楽しいと感じている部分もあるのだ。
そもそも、少年はメイド雑誌を買うほどのメイド萌えであり、メイドの装いは萌えのドストライクだったりする。そのため毎日が新鮮なのである。
蓮は靴を脱いでサキに荷物を渡すとその背中を見ながらこう思った。
ーーふふ。やはり蓮くんの反応は面白いですね。
メイドは微笑んでいた。メイドの名は《やなぎ》柳=ロゼリア=サキ。少々訳ありのメイドさんである。
このような特殊な経緯になった理由は1ヶ月前に遡る。
一際目立つ大きな屋敷の一室で柳=ロゼリア=サキは身支度を整えていた。
母親譲りの綺麗な長い銀髪を後頭部でまとめ、長いまつ毛をビューラーで整える。
潤んだ唇に薄い口紅を塗り、何度も鏡で自分の容姿を確かめる。
シワひとつない膝下丈の濃紺のワンピースに白いエプロンをつける。いわゆるメイド服と呼ばれるサキの仕事着だ。
彼女は鏡の前に立つとニコリと作り笑みを浮かべる。
そんな彼女がここまで念入りに準備するのには理由があった。
「……10年ぶりなんですね」
これから果たす、想い人との再会。
普段感情の起伏の乏しい彼女が胸を高鳴らせていた。
『立派なメイドになれるよう頑張ります』
その言葉は幼い頃にサキが蓮の前でした誓いであった。
サキは決意してからメイドの腕を磨き続けた。
掃除に炊事、洗濯、護身術。メイドとして必要だと思ったことは全て習得した。
サキは身支度を整えると執務室へ向かった。
「おじい様、お待たせしました」
「準備が整ったようじゃの」
サキはノックをすると執務室に入る。
耳に届くバリトンボイスが響く。ピッシリとしたスーツに身を包み、口と顎に白髭を生やしたダンディな男……《やなぎ りゅうすい》柳流水がいた。
流水はサキの姿を見るとニヤリとした。
「それにしても、今日は随分と気合が入っておるのぉ?」
「そんなことはございません」
サキは流水の言葉を受け流した。
だが、流水は気にせず人差し指を目元に置き、泣き真似をする。
「親として、娘の成長は嬉しいものじゃわい」
「そのわざとらしい泣き真似はやめてください」
「ほっほっほ。相変わらずつれないのぉ」
「おじい様?」
「わ、悪かった。だからその笑顔やめてくれんかの?正直怖い」
「義娘に対しての言葉とは思えませんね」
流水の反応に呆れたサキであった。
二人の関係は少し特殊である。
流水はサキの育ての親であり、雇い主でもある。
サキの両親は物心つく前に他界してしまい、親戚の流水に引き取られた。
流水は海外に事業を展開する大企業の会長で御年75歳。年齢に伴わないほど、現役バリバリだ。流水はゴホンと咳払いすると話を切り替える。
「サキ、話すので座っておくれ」
「わかりました」
流水はサキをソファーに座るよう促した。
育ての親の流水でもサキは普段から冷静沈着で表情が出ずらい。だが、なんとなく雰囲気で察することができる。
今日のサキは、声が弾んでいるように思えた。
「そうじゃの。これはワシが仕事が外を歩いている時であった」
流水は語り始めた。
数日前、仕事のため流水は私用で出かけていた。
だが、道に迷ってしまい炎天下で倒れそうになったところをとある少年に助けられた。
お礼と言う形でメイドを派遣することが決まった。
その少年は氷室蓮という。
急に派遣する話が決まり、誰を蓮の元へ派遣しようか悩んでいる時にサキが名乗りを上げたのだ。
「わかりました。もちろんお引き受けします」
「わかったわい。まさか、サキの友人じゃったとは。世間は狭いものじゃ」
「友人……というより、ただの知り合いというだけです」
「なるほどのぉ」
サキは流水に蓮との関係を話していた。初めはただの同姓同名なだけかもしれないと思った。だが、流水から話を聞く中で蓮の出自を知り、写真を見て確信した。
幼い頃の蓮はおっとりしている雰囲気でどこかあどけない少年だった。写真は特徴そのままに成長したようでサキも一眼で確信した。
サキと蓮の出会いは10年ほどに前になる。
サキは幼い頃、流水の仕事の付き添いで日本に来たことがあった。その時にサキは流水から買い物を頼まれたのだが路頭に迷ってしまった。困っていたサキを助けたのが蓮だった。
それがきっかけで蓮とサキは数日間行動を共にし、一緒に遊んだり時に悪戯したりと過ごした。
同年代の友人のいないサキにとって初めての経験で、蓮の優しさに触れて異性として好意を寄せたのだった。
「では気をつけて行ってくるように」
「かしこまりました」
話を終えるとサキは退出した。
「ここまで上手くいくとはのぉ。……恋というのは不思議なもんじゃ」
サキが退出した後、流水はポツリと呟く。
だが、流水は簡単な経緯だけしか話していなかった。
蓮とした別の約束があることは伏せていた。
それが原因でサキの10年募った恋は覚めることになる。
入念に準備を整えたサキは蓮の家に到着した。到着後はインターホンを鳴らした。
「初めましてメイドさん。《ひむろ れん》氷室蓮です!」
「お初にお目にかかります。柳=ロゼリア=サキです。以後お見知り置きを」
初対面は好青年だろう。ただ、サキが名乗っても反応が変わらないところを見るに覚えていないのだろう。
まぁ、そこは問題ないと結論づけた。10年も経っていれば忘れている可能性もあると踏んでいたから。
いつかは思い出してくれるだろう。サキはそんな淡い期待をした。
だが、期待は別の意味で裏切られる形となる。
サキが掃除をしている時、蓮が唐突に話しかけてきたのだ。
「あの、メイドさん。お家メイドプレイの件で聞きたいことが」
「……は?」
「い、いや。なんでもないです!」
下心が見え見えだったので思わず威圧をしてしまったサキ。
蓮は慌てて否定して距離をとった。
「お家メイドプレイとは?」
「え?じいさんから聞いてないの?」
知らない言葉だった。
サキは蓮に詳細を聞いた。
お家メイドプレイとは蓮が望んだことをメイドが奉仕するという内容だった。肩揉みとか、ご飯を食べさせたりするらしい。
驚いたことに流水から提案されたとか。
だが、一番に驚いたことは蓮はメイド萌えの変態になったこと。
「そんなことする訳ないじゃないですか。この変態」
説明を聞き終えたサキは蓮を罵ってしまった。嬉しいような嬉しくないような。
蓮の部屋を掃除していると色んなメイド雑誌が複数見つかった。
年頃といえばそれまでだが、10年間好意を募らせたサキは心のどこかがパリンと罅が入る感覚に陥る。
10年間で心優しい少年の蓮に何があったのだろうか。
この日サキは人生で初めて理性より感情が勝ったのだった。
今まで募った恋は蓮に対しての理想像を押し付けていただけだったと自覚した。
サキにとって今までメイドとして働いていた原動力の一部が蓮という存在であった。その蓮はサキのことだけでなく、約束のことを忘れているだろう。
変な虚無感。そのせいか、冷静さを失ってしまった。
それからサキは派遣された日から蓮に対し、揶揄ったり失礼な物言いをした。
初めはあわよければ話が破談すればいいと考えていた。
だが、いくら揶揄っても蓮は断ることなくむしろ受け入れていた。
サキも揶揄っていくうちに、以前のような素で接することが増えて、派遣の日がどんどん楽しくなってしまったのだった。
そのまま派遣の続いて早1ヶ月。
「いいでしょう、 あなたを社会的に抹殺ーー」
「サラッと怖いこと言わないで!そんな気ないから!」
もともとは早く嫌われようとして行った言動だったが、蓮の反応が面白く、受け入れてくれている。しかも、この今の接し方は10年前と似ていた。
だから、サキと蓮のこのやりとりは日常の一幕なのだ。
これが毒舌のメイドとメイド好きの高校生の日常である。