「酷いです、オリアーヌ・カスタニエ公爵令嬢」
目の前でピンク色の髪の少女が、泣きながら倒れている。庇護欲をそそられそうな愛らしい顔に、潤んだ緑色の瞳。可愛らしい小さな口から出てきた言葉は、強い意志を
「入学したばかりで不慣れなのに、ただ肩が当たったというだけで、このような仕打ちをするなんて!」
まるで悲劇のような発言をしているが、彼女はただ肩が当たっただけで倒れているにすぎない。
どうしてそのような状況に陥ったのか……は、目の前の彼女が誰なのか知らなかったら、ただのおかしな少女だと片付けられたことだろう。
けれど彼女は、乙女ゲーム『救国の花乙女』のヒロイン、シルヴィ・アペール男爵令嬢。そして私は悪役令嬢、オリアーヌ・カスタニエ公爵令嬢なのだ。
だけどこれは、どういうことなの?
私はさっきまで、シルヴィ嬢の罠にはまって断罪されたはずである。そう、婚約者であるエミリアン・ホス・レムリー第一王子を彼女に奪われた挙句、いわれのない罪を犯したという、たったそれだけの理由で。
もちろん、お父様たちは庇ってくださった。たかだか男爵令嬢の証言だけで、公爵令嬢が断罪されることなど、あり得ない話だったからだ。けれど我がカスタニエ公爵家はレムリー公国の王族とは、敵対する勢力、貴族派の筆頭でいたため、その声はほぼ届かなかった。
そもそも私とエミリアン王子の婚約自体、貴族派である我がカスタニエ公爵家と手を組む形で結ばれたものである。だから、そんな容易く破棄していいものではない。たとえ、公王様とエミリアン王子が望んでいなかったとしても、だ。
あぁ、そうか。二人はカスタニエ公爵家の要求を聞いたフリをして……貴族派を潰すつもりで、私に難癖をつける気でいたのだろう。
シルヴィ嬢がでっち上げたオリアーヌの罪を、安易に受け入れたのがいい証拠である。本当にエミリアン王子がシルヴィ嬢を愛していたのか、はこの際どうでもいい。彼は公王様主催のパーティーで、憑依したばかりの私に婚約破棄を言い渡したのだから。
エミリアン王子の口から出る、オリアーヌがやったとされるシルヴィ嬢への嫌がらせの数々。
私はオリアーヌの記憶と照らし合わせるだけで精一杯になり、何も言い返すことができなかった。さらにここが、乙女ゲームの世界であることも、私を混乱させる原因のひとつだった。
そして私はシナリオ通り断罪された挙げ句、毒を盛られて最期を迎えてしまった、というわけである。本当に不甲斐ない。言い返すことも、やり返すことすらできずにやられて、そのまま死ぬなんて……。
だからリセットされた、というの? もしくは神様が、私に慈悲をくれたのかもしれない。
生前、シスターとして仕え、牧師様と教会を支え、悩める子羊たちの悩みと苦しみを一緒に分かち合ってきた。それを神様は、ちゃんと見てくださったのだ。
なんて慈悲深い
恋愛とは無縁で、その憧れを乙女ゲームで追体験していたから、今世こそは恋を、とか?
いやいや、今の私は悪役令嬢よ。攻略対象者と恋愛なんてできないわ。エミリアン王子の婚約者でもあるのだから……他の方となんて……。
一応、気になる攻略対象者は、いるにはいるけれど接点がまるでない。ヒロインが辿ったルートを使えばできてしまうけれど、あまり介入はしたくなかった。
再び断罪される恐れもあるし、何より彼はシルヴィ嬢よりも厄介な性格をしていたからだ。エミリアン王子のように、正統派ヒーローならば
これは折角、神様がくれた千載一遇のチャンスなのだ。恋はしたいけれど、まずは生存確率を上げるのが先決だった。
しかし戻った先が、乙女ゲームの序盤に発生する、シルヴィ嬢とオリアーヌが出会うイベントになってしまったのだろうか。乙女ゲームをプレイするのはシルヴィ嬢であって、私ではないのに。
とりあえず今は、シルヴィ嬢を泣きやませなくては、私が悪者にされてしまう。すでに、周りにいる学生たちは怪しんでいた。
「どうしたのかしら?」
「また、オリアーヌ様が新入生を虐めているみたい」
「あの倒れている人って、確か最近、アペール男爵が引き取ったという孤児ではないかしら? なんでも特別な力を持っている、とか」
「まぁ! ということは平民なの? だからオリアーヌ様が……なるほどね。あの子も運が悪いわ」
運が悪いのは私の方だ。けれどさすがは乙女ゲーム。モブがシルヴィ嬢の素性と、普段どんな振る舞いをオリアーヌがしているのか、教えてくれる。
私はポケットから白いハンカチを取り出して、シルヴィ嬢の前にしゃがみ込んだ。
「ごめんなさい、シルヴィ嬢。私が不注意だったばかりに……可愛らしい貴女には、泣いている顔より笑顔が一番よ」
頬にハンカチをあてながら、攻略者さながらのセリフを吐く私。ここが乙女ゲームの世界だと思ったら、ついそんなクサいセリフが出てきてしまった。
だってシルヴィ嬢が泣いている理由が、ただぶつかってしまった、というだけのこと。それで『酷い』と言うのはさすがに無理がある、と思うが言われてしまったのだから、仕方がない。
「オリアーヌ、様?」
先ほどの勢いはどうしたのか、なぜか困惑しているシルヴィ嬢。私もつられて首を傾げた。
死に戻る前の状況でも思ったが、そもそもヒロインであるシルヴィ嬢が悪役令嬢オリアーヌを罠にかける理由が分からない。
もしかしたら……彼女も転生者なのだろうか。『救国の花乙女』のストーリーを知っているからこそ、今の私の行動に驚いたのかもしれない。
それなら辻褄が合う。チマチマと攻略するよりも、オリアーヌという悪役令嬢を退場させれば、邪魔者はいなくなるのだ。すると当然、あとはシルヴィ嬢の天下、というわけである。好きなだけ攻略対象者とイチャイチャすればいい。逆ハーレムだって簡単だろう。
なるほどなるほど。シルヴィ嬢の目的は逆ハーレムってところかな? それならお好きにやってくださいな。邪魔なんてしないから。
「あら、何かおかしなことを言ってしまったかしら。どうしましょう。シルヴィ嬢を驚かせてしまったわ」
いかにも、そんなつもりはなかったと、おどけてみせた。するとどうだろう。周りにいる者たちの反応に変化があった。
「あのオリアーヌ様が、謝罪!?」
「ぶつかったのは、アペール嬢の方なのに……」
「えぇ、私も見ましたわ。立ち止まっているオリアーヌ様に向かって、一直線に歩いて行くのを」
「まぁ! それなのに謝罪を……これはどういうことなのかしら」
謝罪一つで、この有り様。シルヴィ嬢がオリアーヌを、容易く悪役令嬢に仕立て上げるのも納得できる。
彼女が仮に転生者であったとしたら、オリアーヌに勝ち目などないだろう。しかし私は違う。先手必勝とばかりに、私はシルヴィ嬢の出方を待たずに言葉を続けた。
「もしかして、どこか怪我でもしたのかしら。私が医務室に連れて行って差し上げられたらいいのだけれど……」
「えっと、私は……その……」
シルヴィ嬢が戸惑っているが、私も同じ気持ちだった。
なにせ死に戻ったばかりで、医務室の場所が分からない……。いや、そもそもオリアーヌが医務室を使うようなことがなかったから、記憶にもないのだ。不必要でも、そこは覚えていてほしかった。
すると、助け舟を出してくれるのが、さすが乙女ゲームの世界である。ヒロインであろうが、悪役令嬢であろうが、女性が困っていれば声をかけずにはいられないらしい。
「オリアーヌ嬢。どうかしたのかい?」
「エミリアン王子」
案の定、そこにいたのは銀髪の男性こと、エミリアン王子であり、乙女ゲーム『救国の花乙女』の筆頭攻略対象者だった。ヒロインのピンチに颯爽と現れるところからしても、まさに正統派ヒーローである。
目の前にいるシルヴィ嬢もそうだが、この学園の制服がよく似合う。黒のブレザーというのは一見、一般的で地味に感じるかもしれないが、二人が着るとまた違った見方になる。
シルヴィ嬢のピンク色の髪と、エミリアン王子の銀髪。その双方に映えるのが、まさに黒なのだ。加えていうと、私オリアーヌの赤毛にも映える。
お陰で、さらに人だかりが増えたような気がした。けれどエミリアン王子にとっては、いつものことなのだろう。気にも留めず、その青い瞳で私と泣いているシルヴィ嬢を交互に見た。
シルヴィ嬢がこの機を見逃すとは思えない。それは私も同じだった。私は勢いよく立ち上がり、エミリアン王子の前に出る。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。私の不注意で、シルヴィ嬢に怪我をさせてしまったようなのです」
「不注意? 君が?」
「はい。それでシルヴィ嬢を医務室に連れて行きたいのですが、私の力では無理でして。だからエミリアン王子さえよろしければ、私の代わりにシルヴィ嬢を医務室まで連れて行ってもらえないでしょうか」
「僕が? なぜ?」
貴方が攻略対象者だからよ!
「シルヴィ嬢も一国民だからです。怪我をしている国民を無視するのですか?」
「……だけど、いやそうだね。オリアーヌ嬢の言う通り、彼女も一国民だ。医務室に連れて行こう」
「ありがとうございます」
王族として、それらしい理由をあげてみた私がいうのもなんだが、あっさりと承諾し過ぎじゃない? 相手がシルヴィ嬢だから? もしくはギャラリーが多かったからか。
すこしだけ間があったのが気になるけれど……とりあえず、シルヴィ嬢も泣き止んだから良しとしよう。
エミリアン王子は、まさに王子様らしくシルヴィ嬢を横抱きにして学園の校舎へと歩き始める。
私はその後姿を見ながら、これでシルヴィ嬢も私に敵対心を抱かないだろう、と安易に考えていた。事態は、そんな簡単に変わるわけがないというのに……。
そう、人の心は
けれどその影響で、シルヴィ嬢とエミリアン王子が変わることを、私は切に願った。