急に無言になった一樹さんは私の手を引き自分のマンションの部屋に連れて行った。
玄関の扉が閉まるなり、私からキスを仕掛ける。お酒の味がするキスは初めてだ。
一樹さんは急に私を強く抱き寄せ、より深いキスをしてきた。
唇が離れて彼を見つめる。
「瑠璃、本当にいいの? 後悔しない?」
突然呼び捨てにされてドキッとした。それにしても、明らかに我慢できなさそうに見えるのに意思確認される瑠璃が羨ましい。傷つけたくないと大切にされてる証拠だ。
今までそんな扱いをされた事は一度もない。
いつも気がつけば私は相手の都合に合わせた道具。
私さえも無視しようとしていた己の感情を問いかけてくれる彼に惹かれた。
「ここでやめたら、後悔するのは一樹の方だと思うけど」
私が耳元で囁くと、彼は私を横抱きにしてベッドまで連れてった。
彼が好きなのはこの世界の森本瑠璃。
分かっているけれど、今はどうでも良い。
予想外に激しく求められ愛されている実感が湧く。私は思わず隼人には言えない言葉を伝えていた。
「私と結婚して!」
「瑠璃、好きだ。明日にでも結婚したい」
彼に間髪入れずに返答されて、嬉しくて涙が溢れる。
それに気がついた彼が指で私の涙を拭おうとしてきたので、その手に指を絡めた。
「指、細いんだね。守ってあげたくなる」
守ってあげたいなんて言われたのは初めてだ。きっと私を守ろうとしてくれた人は今までで真智子だけ。他の人は私を利用してきた。私は自分がなぜこれ程までに一樹に安心感を感じたのかを理解した。
「守ってくれなくていい! 私が一樹を守りたい。毎日癒してあげたい! だから、一樹はずっと私だけを愛して」
私は明らかに自分が隼人に言いたくて言えない言葉を一樹にぶつけていた。7年間、隼人に夢中だった。いつも余裕に見えて、時々弱さや黒さを見せてくる彼を守りたいと思った。でも、彼の方は私を性欲処理の道具としか考えてなかったのだろう。考えるだけで虚しくなる。隼人は沢山私に愛を語ったけれど、その言葉に今は何の意味も感じない。
隼人は私が自分だけを愛してと言ったら、おそらくルリだけを愛してると返すだろう。きっと、私はその言葉を聞く度に奥さんがいる癖にと彼を軽蔑し、自分を嫌いになる。だから、元の世界に戻ったら隼人とは絶対に別れようと思った。
私を大切そうに抱きしめながら眠っている一樹を見ていたら急に息苦しくなってくる。
(入れ替わりの限界時刻なのかも⋯⋯)
私は体にシーツを巻きつけ、クラッチバッグに入った小瓶から錠剤を取り出す。一錠飲んで、目の前の窓ガラスに手を当てた。深呼吸して口角をあげ、余裕の表情を作る。
私の人生と交換したいかを聞いたら、森本瑠璃は呆れたように自分の29年生きてきた人生を大切にしたいと言った。
その言葉は想像以上にに私の心を抉った。仕事もあり自分と結婚したいと言ってくれる男が2人もいる森本瑠璃。何もない誰にも愛されない私なんかと交代したい訳がない。
私の世界に戻ると自分には何もない現実が襲ってくる。
薬の副作用なのか、頭に虫が湧いたような気分の悪さがおそってくる。私は頭をかきむしりながら床に倒れ込んだ。
薬は関係ないのかもしれない。この身体はあの時穢されてからおかしくなってる。私の精神も不安定で全く制御できない。生きているのが苦しい。こんな人生は終わりにしたい。別世界での私になった現実逃避の時間は終わり。当たり前に電車に乗って、お酒を飲んで、仮初の恋をした。現実の私は急な動悸に悩まされ、まともな生活ができない。隼人に溺れていた時は誤魔化せていたけど、私の頭も身体も狂ったままだ。
(苦しい⋯⋯なんで、こうなっちゃったの?)
息苦しさにもがいていたら、真智子用の着信音が聞こえた。私は鉛がついたような重い体を引き摺って電話に出る。
「もしもし、ルリ? どお? もう1人の自分に相談できた?」
「真智子、ごめんなさい⋯⋯私、言われたのと違う薬の使い方した⋯⋯」
私はもう1人の私が、私とは違って人に愛され、自分の人生を大切にできるような子だった事を話した。私が歩んでいたかもしれない人生。当たり前に仕事をして、人から必要とされる。私が粗末にされるのは当たり前。見た目を綺麗にしても、私は何もない空っぽな女。親にも捨てられたような穢れた人間。
真智子は私の話を聞いて、涙声になっていた。私はまた自分が「死」を口にしてしまった事に気がついた。
「ルリ、これからは私に何でも相談して。話なら幾らでも聞くから。私が間違ってた。あんな薬を渡すんじゃなかった。お願いだから、死にたいなんて言わないで。ルリがいなくなったら私は悲しいよ。ルリが死んだら、私、須藤聖也を殺しに行くよ。私が殺人犯になっても良いの?」
「いやだよ。そんなの! それに、本当に悪いのは須藤聖也じゃなくて、私のような気がするんだ。だって、もう1人の私はあんな男に引っ掛からず、結婚なんてしなくて良いみたいな感じで自信に溢れていたもの」
瑠璃に私の人生を認めてほしかった。
「お部屋も素敵だしお金に困らない生活があるなんて羨ましい! 彼氏もめちゃくちゃカッコいい」
そんな風に言ってもらえれば、自分の現状を受け入れられる気がした。
冷静になって考えれば分かる。
瑠璃が私の生活を見れば軽蔑する。
私が自分の人生に吐き気がしているのだから当然だ。
(彼女はもう1人の私だもんね⋯⋯)
「ルリは悪くない! 何度でも言うよ。ルリは悪くない! ただ、真っ直ぐで頑張り屋さんだから、無理し過ぎて自分を追い詰めてしまっているだけ。ルリのこと誰も愛さないなんてありえないから。私はルリのこと大好きだから」
真智子の「大好き」という言葉を噛み締める。
私を好きでいてくれる人がいる。
私がいなくなったら、泣いてくれる人がいる限り自分を諦めちゃいけない。
隼人と縁を切って、私は自分を立て直さなければならない。
「うん⋯⋯。私も真智子が大好きだよ。電話ありがとう⋯⋯」
電話を切ると、体が重くて私はそのまま床に倒れ込んで意識を失った。
「ルリ、ルリ! 起きてくれ! お願いだから目を開けてくれ」
私が目を開けると、見たこともないような必死の形相をした隼人と目が合った。