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第125話 私は私

今、私はこれ以上ないくらい動揺している。

いつも通り真咲隼人と打ち合わせを終えた時だった。

彼はマンゴージュースを飲み干すと立ち上がる。

「忘れ物」

そう、軽やかに囁くととリップ音をたててキスをされた。

私はしばらく応接室から動けなかった。


秘書が来て声を掛けられて初めて気が付く。

(えっー! なんで?)


私は混乱して頭が働かないまま、真智子さんに電話をかけた。

真智子さんの家に来るのは初めてだ。

上野にある低層のマンションの2階の部屋。

インターホンを押すと真智子さんが出た。

「どうぞ、入って」


変わらずいつも冷静な彼女を見るとホッとする。

廊下にキッチンがあり、中に入ると一人暮らしのワンルーム。

シングルベッドと小さいテーブルが置いてあるだけで狭い。

窓も小さくて藍色のカーテンが締め切られていて閉塞感がある。


「もしかして、あちらの世界の真智子さんも同じ部屋に住んでる?」

「そうよ。この狭い部屋で真咲ルリと4年近くも暮らしてたんだって。信じられないわよね」

「本当に信じられない⋯⋯。プライベートなんてないじゃない」

私は結婚して家族がいる今でさえプライベートの時間を重視している。


「ねえ、瑠璃さんそこに座って」

床に置かれたクッションに私は足を崩して座った。

私も真智子さんも背が高いせいか、小人の国にいるみたいだ。


何だか急に冷静になる。

私とルリさんは全く違う。

事情があったとはいえ、こんな狭い場所で他人と暮らせるのがルリさん。



「はい、どーぞ。冷静になったみたいね」

グラスに入った烏龍茶に口をつけると、喉を通っていく苦味に脳が整理される。


「真咲隼人がどうしてあんな事をしたのか考えてグルグルしちゃったんだけど⋯⋯」

「考えてはダメよ。キスに意味があっても、大した意味もなくしたものだとしても、瑠璃さんが惑わされてはダメ」


真智子さんの言葉が腑に落ちる。

あちらの世界の私の夫だからか、私は彼を妙に意識してしまっていた。

それは彼の方も同じかもしれない。


実際、私は彼とどうにかなりたいとは思っていない。

私が守りたいのは家族で、愛したいのは一樹だけ。


「落ち着いた。この部屋って何だか落ち着くわね。なんだろうカーテンの色? アロマ?」

「違うと思う。私たちって遺伝子レベルでお似合いの友人なんじゃない? だから落ち着くとか⋯⋯」

予想外の言葉を彼女が投げかけてきて、私は目を丸くする。

そんな私を見て、彼女はニヤッとした。


「同じような事を真咲隼人に言われたらどうする? また、動揺するんじゃない?」


⋯⋯図星だ。


ルリさんが彼を運命の王子様のように連呼するからか、私も彼と結ばれるルートもあったのではと考えてしまっていた。


「並行世界を知るのって怖いわね。違う選択なんて見るもんじゃないわ。ルリさんとの出会いには感謝しているけれど、私と彼女は違う人間だって理解しなきゃね」


私の言葉に真智子さんが深く頷く。


「そうよ。いつも自慢げに良い男と結婚したって言っているんだから大切にしなさい」

私は彼女の言葉に少し棘を感じた。


「自慢のつもりはなかったんだけど⋯⋯事実だし」

私が首を傾げながら言う言葉に真智子さんは手を叩いて笑った。


「そうよ! 園田瑠璃! 貴方は優しくて包容力のある夫と、可愛い子供、やりがいのある仕事を持ってるの。それを大切にして。目の前の幸せを守るのよ」

「そうだよね。ありがとう。もう、本当になんで真咲隼人は⋯⋯」

私は彼とのキスを思い出して頭を振る。


「ちょっと大丈夫? 絶対、旦那さんに何かあったか聞かれるわよ。顔も赤いし目も泳いでるし」

真智子さんが私の頬をペタペタと叩く。その手が冷たくて自分の顔が熱くなっているのが分かる。

私は嘘をついたり取り繕ったりするのが下手で、この状況は喜ばしくない。


でも、今回のキスのことは墓まで持っていた方が平和だ。


真咲隼人はアメリカ帰りだし、彼にとってキスなんて挨拶程度だろう。

ただ、私があそこまで自然で軽やかでスマートなキスを知らなくて動揺しているだけ。

「大丈夫よ。真智子さん、ありがとう」

私が差し出した手を戸惑ったように真智子さんが握った。

誰にも言えないような相談をできるような友達ができて良かったと私は心から感謝した。

1人では処理できない事柄をなんとか整理することができる。


「良かったら、今日は泊まってく? 流石にこの状態で返すのは心配なんだけど」

こちらの世界の真智子さんは、人を泊めたりするのが苦手そうなお1人様好き。

彼女が心配するくらい私は側から見て冷静さを保ててないんだろう。


「もう、大丈夫よ。こう見えても今まで数々の緊急時対応をこなしてきたの」

私は今までこなしてきた数々の緊急時対応を思い出す。CAやホテル勤務の緊急時にも私は上手に対応してきた。

中でも私がした1番の緊急時対応は、並行世界に送られても慰謝料を払いに行き仕事まで決めてきた事だろう。


(自信が湧いてきた。あの事態に対処できたのだから私は大丈夫)


「じゃあ、落ち着いていつも通りね。キスのことは言わない方が良いよ。波風立てるだけだから」

「アドバイスありがとう。また、お茶しようね」

この年で友達ができた事に感謝しつつ、私は彼女の部屋を出た。


マンションを出てタクシーを拾う。

「すみません、白金の⋯⋯」

私は言いかけた言葉を紡ぐ。白金はあちらの世界の真咲隼人が住んでいたタワーマンションのある場所。

私は恋愛経験が豊富な訳ではない。

今は時空の彼方の記憶になった元カレ冴島傑も、愛する夫の一樹も突然のキスをするようなドラマチックな男ではなかった。

王子のような優雅な動作でされた突然のキスは初めての経験。

アラフォーで2人の子の母親なのにときめいてしまった。


「六本木のスカイタワーまでお願いします」

私は両頬を思いっきり叩く。私は私。

大切な人を悲しませるような選択は絶対にしない。


並行世界を知ることの弊害を感じながらも、私は愛する家族の元へと急いだ。








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