【一】
「オイ、ちゃんと前見て歩けよ!」
大きな声が昼休みの廊下に響いたとき、
ぬっと影が足元に現れて、はっとしたときにはもうぶつかりそうになっていた。びくっとして本をばさばさっと取り落とす。そろりと顔をあげれば、聞き覚えのある声の主はやはり長身の金髪プリンだ。傍から見れば、一年ヤンキーに影の薄い二年男子が絡まれたようにしか見えないだろう。
この人が雨の日の捨て猫に傘をさすタイプだったらいいのにな。
洸太の頭の中で黒い子猫がニャーンと鳴いた。
「貸出期間は二週間です」
「ありがとうございます」
図書室のカウンターで本を三冊受け取ると、洸太は図書室を出た。
昼休みの廊下は梅雨の湿気が入り込んでじめじめしていた。この時期はくせっ毛の髪がふくらむのが嫌いだ。眼鏡にかかる前髪を手ですき、渡り廊下から本校舎へ戻る。複数の科が集まるこの高校は生徒数も多く、休み時間は常にざわざわとして騒がしい。特に静かな図書室から出ると学校の音の波が一気に押し寄せてくるように感じる。
学校でもっとも静かな図書室は、洸太のお気に入りの場所だった。
図書室という魔法はじきに鳴き始める蝉のうるさい鳴き声さえ、本に集中するためのBGMにしてしまう。本をめくる音に貸し出しのカウンターでやり取りする声や、ときおり聞こえるピッという電子音、勉強する生徒のシャーペンがカリカリと走る音が、水たまりに水滴を落としたように静かに広がっていく。
そこに置かれた小説を読めばひとつひとつの世界が広がっていて、現実世界からそちらへと逃げ込むことができる。本をめくるという行為が洸太にマジックをかけるのだ。電子書籍では感じられない指先の感触は部活中も感じるもので、どこか親近感がある。
だが、その親近感を求めに行った帰りの廊下で彼と遭遇するとは思わなかった。図書室のカウンター内にいなかったから完全に油断していた。
「オイ、失礼だろ。ちゃんと謝れよ」
低い声に思わず首を縮める。「ごめんなさい」と声を振り絞り、勇気を出してぐっと顔をあげた。
ところが、白シャツの第一ボタンが外れた彼は洸太を見ていなかった。一緒にいる集団の中のひとりを目つきの悪い目で睨んでいる。
「先輩にぶつかりそうになったんだぞ。謝れよ」
洸太の理解が追いつく前に、隣の男子が眉尻を下げて「すみません」とぺこりと頭を下げてくる。
「そっちから人が来ると思わなくて」
自分が謝られている。はたとそのことに気づき、慌てて首をぶんぶん横に振る。
「僕こそごめんね! 下を見てて気づかなくて」
「いえ、驚かせちゃったみたいで本当にすみませんでした」
洸太と男子がやり取りしている横で、「ったく」と金髪プリンが洸太の落とした本を拾った。そしてポケットからタオルハンカチを取り出す。白と青のボーダーのふっくらとしたタオル。
彼は丁寧に本の表紙を拭き、「先輩、すんませんでした」と差し出してきた。驚いて受け取ると、彼が真面目な顔で隣の友人を指さして言う。
「ダチがすんません。先輩の代わりにオレがこいつをボコっときます」
気づけば廊下にいる二年生が固唾を飲んでこちらを見守っている。ボコるの言葉に体が硬直した洸太の前で、金髪プリンが親指と中指で丸を作った。
「オイ、歯ァ食いしばれ」
彼の鋭い声と同時に指が友人の額にデコピンを放った。やられた友人が「くすぐって!」と額を押さえる。
「もう、ミナトの『ボコる』っていつもやわいデコピン」
「んだよ。グータッチのほうがいいのかよ。グーは痛えだろ」
「グータッチはタッチの一種だからボコれねえだろ」
デコピンを受けた男子が笑い出し、彼らのうしろにいた他の一年生集団からも「ミナトって天然だよな」とどっと笑いが起こった。だが、金髪プリンは真剣な顔つきでこちらを見下ろしてきて、「グータッチのほうがよかったっすか」と尋ねてくる。
急いで首を横に振ると、彼は「そすか」とあっさりと頷き、彼らは別の話題に移っておしゃべりしながら特別教室のほうへ歩き出した。あははという笑い声が遠ざかり、ほっと胸をなで下ろす。
ああ、びっくりした。僕が怒られたのかと思った。
思わず目でその背中を追いかける。集団の中でもひとりだけ頭がぴょんと飛び出したプリンが隣の彼になにか言い、友人がおかしそうに笑う。雨の日の捨てられた子猫に傘をさすタイプかは分からないが、本を落としたら拾って拭いてくれるタイプらしい。
本を抱きかかえてはあとため息をつくと、廊下中の二年生が安堵した表情でこちらを見てくる。顔が熱くなった洸太は、誰ともなくぺこぺこと頭を下げた。長い前髪がぼさぼさに見える自分が恥ずかしくなって、手で髪をすく。
そこへ奥の教室から出てきた女子が「コータ!」と手をあげた。
「今日の部活、顧問の先生いないって」
「あ、うん、分かった」
「ソータにも言ってあるから」
「ありがと」
洸太はもう一度息をつき、自分の教室に入って五時間目の数学の教科書を取り出した。放課後のことを考えるとすぐにわくわくしてくる。先日の学内公演が終わって三年生が引退し、次の学内公演は九月の文化祭。一、二年生だけで行う演劇の学内公演は文化祭がデビュー戦だ。
洸太が所属する演劇部は、この辺りの高校ではそこそこ有名である。筋トレや発声、エチュードの基礎練習もしつつ朗読でコンクールに出る生徒もいるし、一昨年昨年と連続で県大会に出場、卒業生には俳優や声優になった人もいる。
二学年の現在、二十人ほどいる部員たちは日々切磋琢磨しており、教室では大人しい部員も舞台の上に立てば生き生きと振る舞う。
洸太は照明係で、全体を通して舞台の調光を行っている。スポットライトの明るさ調整だけの簡単な役と思われがちだが、光が与える印象や色彩の勉強もするし、電気系統の知識も必要だ。
照明係も裏方であることは変わりないので、工具や軍手を入れた腰袋を下げて大道具係とノコギリを扱うことも珍しくない。おかげでやたらと筋肉が鍛えられる。
今は夏大会と九月の連休に行われる文化祭の練習が始まるところで、在校生や来校する受験生が親しみやすい高校生が主人公の作品を披露する。友情や恋愛などに揺さぶられる青春を描いた話は、脚本で賞を取ったこともある有名作品だ。
キーンコーンカーンコーン。始業のベルが鳴る。洸太は入ってくる教師の姿を確認し、「起立」と号令をかけた。