「じゃあまた今度」
お盆前最後の夏期講習の日、クラスメイトにそう告げて洸太は校舎を出た。
昇降口を出ると途端に夏の日差しが肌を焼いてくる。ミンミンと蝉の声が降りしきる中、コンクリートの下り坂は熱されたフライパンのように照り返しが強い。門を通り過ぎるまでの数十メートルを歩くだけで肌から汗が噴き出す。ソーダ味のアイスが食べたい。
今日で一旦勉強も終わり。洸太は疲れで重い頭を振った。ゴールデンウィークは連休を楽しめたが、それからはずっと勉強ばかり。大会が近づくと部活で土日もなくなるので、ようやく一息つけるという感覚だ。
お盆はなにをしようかな。そんなことを考えながら校門を出て道を曲がったとき、ふと足が止まった。今日湊太はある劇団のオーディションを受けに行っている。未成年は保護者同伴だったから、家に帰っても誰もいないだろう。夕飯も遅いはずだ。どうせなら夏期講習前半が終わった開放感を味わいたい。
ちょっと寄り道しよ。
洸太の革靴がいつもと逆の道を歩き始めた。駅前の商店街のほうへ進むと、夕方の買い出しの人々がざわざわと道を行く。駅前広場の植木の近くは蝉がうるさくて、洸太はカンカン鳴る踏切を渡って反対側へ出た。栄えているそちらに大きな本屋がある。店の中に入ると途端に冷房の風が吹きつけてきて、急に体がひんやりとする。お目当ての棚の前に行くと、並ぶ背表紙を眺めた。
洸太の一番の趣味は読書だ。部屋は本棚から溢れた本が床に積み上げられていて、ベッド前を中心に
そうは言ってもな。
一番上の棚を右からじっくり見ていく。
本は読みたいときに手に取れるところにないと。
お小遣いのほとんどを本につぎ込む洸太の目が『二.五次元文化の今』という新書の背表紙を捉えた。最近は舞台の評論も好きで読んでいる。つま先立ちでそれに手を伸ばしたとき、隣からにゅっと伸びてきた大きな手が本を取った。
「あ」
先に取られた。
一瞬そう思ったが、「はい、先輩」と本を差し出されて、手の主を見た。そこには黒のTシャツにグレーのジーンズ姿の金髪プリンがいた。髪をハーフアップにして左側を黒いピンで留めている。全体的に黒っぽいせいか、金髪が目立つ。見上げるような身長は、すらっというよりもひょろっとして見えた。
「あっ、久しぶり!」
思わず笑顔になると、彼も白い歯を見せた。改めて洸太の手に本をぽんとのせる。
「先輩、制服でどうしたんすか? 部活っすか」
「ううん、特進の夏期講習。毒島君はなにしてるの」
「オレはバイト帰りっす。駅に行こうとしたらここに入る先輩を見つけたんで、一分弱ストーカーやってました」
「全然気づかなかった。私服だと大人っぽいね。大学生くらいに見える」
「身長のせいっすね。そんな難しそうな本を買ったことはないっすけど」
彼はからりと笑い、「このあと時間あります?」とうしろポケットから出してきたスマホのロック画面の時間を指さした。
「いいときに先輩に会えたっす。相談があるっす」
「あ、佐藤さんを見つけたんだ?」
「そうなんすよ」
会計をして袋に入れてもらった本を鞄にしまうと、ふたりで商店街のファミレスに行った。涼しい店内で向かいの席に座り、ドリンクバーのカルピスで乾杯してフライドポテトを頼む。赤いケチャップをつけると甘塩っぱくて、ついぱくぱく食べてしまう。
だが、彼はポテトにフォークを刺してため息をついた。
「先輩、聞いてくださいよ。一年の特進に佐藤さんって女子がいたんす。でも彼氏がいるらしくて。オレ、進路変更を迫られたっす」
「そっか、残念だったね。どんな子だった?」
「いや、顔とか分かんないっす。いるって聞いただけなんで」
顔も知らない女子の彼氏の存在にため息をつく金髪プリンに、洸太は俯いて笑いをこらえた。夏期講習の疲れなどどこかへ行ってしまった。この子は本当に独特だ。発想と言動がおもしろすぎる。
「でも、また別の素敵な佐藤さんに会えるかもしれないよね」
「別棟の農業科とかも調べに行くべきかとも思ったんすよ。でも、オレ、農業とか分かんないし」
彼はそう言い、まばたきの少ない目でじっとこちらを見た。
「オレ、重大なことに気づいたんす。佐藤って名字だけで女の子のことを決めつけちゃダメなんじゃないかって。農業科の佐藤さんと付き合えても、多分話は合わないっす。『
至極当たり前のことを大発見したように言うので、とうとう洸太はぷはっと吹き出してしまった。
「毒島君、ようやくそれに気づいたの!?」
つい腹を抱えてははっと笑ってしまう。
「多分だけど、普通は名字で決めないと思うよ!」
すると彼はむっとしたようだった。頬杖をついてくちびるをとがらす。
「名字が毒島から佐藤に変わったらすごいって言ってくれてたじゃないですか」
「すごいとは思うよ。毒から砂糖って発想はおもしろいと思うし」
「じゃ、夢は諦めねえっす。話の合う佐藤さんと結婚してみせるっす」
「うん、分かった。そのときは報告よろしくね」
洸太がくすくす笑うと、彼は不服そうにポテトにケチャップをつけた。それを一口で食べてじろりと見てくる。
「先輩、オレのこと名字で呼ぶのやめてください。下の名前、ミナトって言います」
「ミナト君、それはどうして?」
「佐藤になったときに備えてです。先輩とは結婚後もお付き合いを続けたいんで」
またぷはっと吹き出してしまい、洸太はフォークを置いて突っ伏してしまった。笑いがこらえきれず背中が震える。
ダメだ、この子といるとペースに飲まれてしまう。存在だけで場の空気を変えられるオーラがある人はいるが、この子は別の路線で空気を変えていく。
ミナトがいると急に現実がカタカタと音を立てて揺れ始めるような、日常に新たな風が吹き込んでくる。洸太は顔をあげてコップに口をつけたが、途中でまた思い出し笑いしてしまった。
「先輩、なにがそんなにおもしろいんすか。笑いすぎっしょ」
「ミナト君がめちゃくちゃおもしろいんだよ! ちなみにミナトの漢字はさんずいに奏でる?」
「いや、普通の港です。湊じゃありふれてるからって普通のほうをつけたらしいっす。でも、字面を思い浮かべてくださいよ。毒島港。どっかの漁港みたいじゃないっすか。オレ、漁業とか分かんないっす。名字と名前の組み合わせはマジ最悪っす」
洸太はそれを想像し、またも笑ってしまった。咳払いし、震えそうな腹筋に力を入れて笑いをこらえる。
「人の名前で笑ってごめん」
「でも、ぶっちゃけフグが釣れそうな漁港を想像したっしょ?」
ふくれっ面のミナトの言葉に太ももをつねる。ここは笑っていいところではない。
「ミナト君は名字も下の名前も珍しいってことだよ。いいんじゃない?」
「先輩は名字が寿で困ったことないんすか」
「親が葬式に行きにくいとは言ってた。ほら、香典に寿って書くことになるから」
「香典ってあの白黒の袋っすよね。そっか、めでたい名字も大変か」
彼は少し納得したような口調になり、ポテトをぱくりと食べた。見た目は年上に見えるが、しゃべっている内容はまだ後輩という感じでかわいい。演劇部というのは変わり者の集まりになるのがあるあるだが、彼は普段しゃべり慣れている部員とはまた違う。
「先輩、ちなみにお盆休みはなにするんすか」
「家でのんびりするかな。うち、祖父母も同じ県にいるから帰省とかなくて」
「マジっすか。お盆休み中、勉強を教えてくんないっすか。先輩は特進っしょ。オレ、宿題がキャパオーバーなんすよ」
彼は簡単に懐に飛び込んできて距離を詰めてくる。普段ぐいぐい来る相手は苦手なのだが、なぜかミナトは平気だった。笑って「なにを知りたいの」と聞いてしまう。
「僕、数学は苦手なんだ。ちゃんと教えられるかどうか分かんないや」
「理系なんで数学は大丈夫っす。英語とか国語とか社会とか、そっち系が分かんねえっす。こうやってファミレスで勉強しませんか。家にいるとどうしてもマンガとかに目が行っちゃうんすよね」
つい床の本を拾って没頭してしまいがちな自分も同じなので、思わず頭を掻いた。髪を手櫛ですき、コップを持った。
「いいよ。いつにする? 僕も宿題やっちゃいたいし」
「マジっすか? やった! 急ですけど明日って空いてます? 早く片づけないとって焦ってるんすよ」
ミナトが机に両肘をついて頭を抱える。去年夏休み最後に「宿題が終わんねえ!」と湊太に泣きつかれたことを思い出してしまった。
「いいよ。どこのファミレスにする?」
「先輩の最寄り駅はどこっすか。オレは隣の駅っす」
「僕はここ。高校から家は歩いて行ける距離なんだ」
「じゃあ明日ここに来ましょ。メニューのピザがうまそうっす。明日食べたいっす」
ミナトがタッチパネルを指でスライドさせて、洸太もそれを見た。常にお腹が空いていると言っても過言ではない男子高校生の目が吸いつくような料理の写真が並んでいる。
「ピザよりパスタが食べたい。明太子しそパスタ、夏っぽくておいしそう」
「マジすか。だったら冷やし中華のほうが気になるっす」
「デザートはアイスが食べたいな。二つの味が楽しめるっていいよね」
「いや、そこはケーキ一択っしょ。ケーキなんて普段食えねえっすよ」
結局その後はたわいもないおしゃべりをし、連絡先を交換して翌日九時半の集合となった。