結局その後はたわいもないおしゃべりをし、連絡先を交換して翌日九時半の集合となった。昨日と同じ席に座り、ドリンクバーを注文してテーブルの上にペンケースなどを取り出す。洸太が冷房対策で上着を
「まず古文が分かんねえっす。形容詞と形容動詞ってなんすか」
ミナトが古典の問題集を広げる。書き込み式の問題集は真っ白だった。
「形容詞形容動詞は現代語で考えたほうが早いかも。かわいい、とか、つらい、とか、静かだ、とか」
「ああ、そういうこと。美しい、優しい、とかっすね。つまり、美し、とか」
「そうそう。それが活用するんだよ。活用表も習ったでしょ」
するとミナトはノートを引っ張り出してきた。表紙が黄色のキャンパスノートのページをめくる。
「えっと、活用っていうのは……変化すること、か。言葉が変わるやつっすよね。歩かない、歩きます、みたいな」
ノートを広げて問題集をじっと見つめるミナトを見ると、そのノートが視界に入った。字を見て目を丸くする。それは見覚えのある丸文字だった。秘密の文通相手の文字だ。角の丸い、どことなく女の子っぽくも見えるかわいい字。男子かもしれないとは思ったが、金髪プリンの背が高い大人びた容姿のミナトとは結びついていなかった。
あの字、ミナト君の字なのか?
驚いて思わず尋ねる。
「ミナト君は国語って誰先生に習ってる?」
「森先生っす。昔の文を読むとかだるいと思ってたっすけど、『ね』の数を数えてたらおもしろくなったっす」
洸太が見つめる前でミナトのシャーペンが動いた。「く、から、く、かり、し、き、かる、けれ、かれ」とぶつぶつ呟きながら表を埋めていく。シャーペンの先から生まれるきちっきちっとした丸文字はどう見ても机に書かれた字と同じだった。
あれ? 夏休みにも授業を受けているみたいだから特進科の子だと思ってたんだけど? ミナト君は普通科だよな?
洸太は自分も問題集を広げつつ、ミナトのシャーペンの先から生まれる字をちらちらと見た。何気ないふうを装って尋ねる。
「特進って夏休みは毎日登校だから、案外宿題って少ないんだよね。ミナト君はどう?」
すると彼は問題集を睨みながら「んー」とシャーペンの頭で顎をトントンと叩く。
「オレ、古文とかできねえから、夏休みの始めは補講で毎日登校だったっす。宿題をやらせてくれないから、宿題をする時間が減っただけっしたね。でも、動詞の活用表は埋められるようになったっす」
「……ラ行変格活用の動詞を四つあげなさい」
「あり、をり、はべり、いまそかり!」
顔をあげた彼は即答し、白い歯を見せて「暗記したっす。褒めて!」と自信満々に親指を立てた。洸太は「さすが」と言いながら心臓がどきどきしてくるのを感じた。
あの質問、ミナト君だったのか。同じ教室で、同じ席で、授業を受けていた。学年も科も違ってなんの共通点もないと思ってたのに。あの秘密の文通相手はミナト君だったのか。
顔がにやけそうになり、慌てて顔を引き締める。たった一行のやり取りでも、他に知られないつながりにどこか安心感を覚える相手だった。それがとっくに知り合っていた相手だと分かって、偶然と特別感にどきっとしてしまう。
ミナト君がこっちに気づくまで黙ってよう。いつ気づくかな。
内心ふふっと笑い、広げた日本史の問題集をじっと見る。教科書を思い出しながら空欄を埋めていくと、暫く沈黙が下りた。カリカリとシャーペンの走る音と店内のざわざわとした人の声が溶け合って、BGMの中に脳が馴染んでいく。だが、暫くして向かいのミナトが手を止めた。
「……先輩、すごくないっすか」
顔をあげると、ミナトがこちらの問題集を指す。
「なにも見ないで全部書けるじゃないっすか。そういうの、教科書を見ながら書くんじゃないっすか」
久しぶりにそれを指摘されて、一瞬顔が熱くなった。
「僕、特技があって。一回文章を読むとだいたい覚えられるんだ。だから暗記系の科目はほとんど間違えない」
「えっ? 一回で? 全部?」
「だいたい、だけど。今ミナト君が持ってる文法の教科書、ラ行変格活用のことが載ってるのって三十四ページだよね。読んだことのある図書室にある本なら、内容を言ってくれれば、どこの棚の何段目にある本の何ページ目かだいたい分かる。でも、何ページのあのへんに書いてあったけど、肝心の部分は思い出せないってことはある。見たものをそのまま覚えられる力をカメラアイって言うらしい。調べたけど、僕には当てはまらないことも多かったから、一般的なカメラアイとは違うんだと思う。不完全カメラアイって感じ」
ミナトがぽかんとしたようにこちらを見つめ、文法の教科書をめくった。三十四ページ。ラ行変格活用の文字を見て「マジかよ」と呟く。
「それ、遺伝っすか? 家族もできるんすか」
「いや、誰もできない。なんでだろうね。僕としては当たり前だったから、他は違うって小学校の途中まで気づいてなかったよ」
「すごいじゃないっすか。数学とかもいけますか」
「数字は苦手。パッて見せられただけの数字は数日後には忘れてる。歴史の年とかが覚えられるくらいで、クラス全員の誕生日を覚えろとか言われても無理。数学の公式は覚えられるときもあるけど、さっきも言ったように肝心なところを思い出せなかったりするから、混乱して間違えることも多いよ」
するとミナトがああと思いついたように納得した声を出した。
「だから図書室で本を借りて返す間隔が早いんすね。読めば覚えられるから。オレ、理解するのに時間がかかるから読むの遅いっす」
「なんていうのかな、一回読めば覚えられるから、図書室の本は返却したあとも思い出して楽しんでる。でも、ちらっと見ただけで覚えるとかは無理なんだ。フラッシュ暗算とかはできない。そういう意味では特技っていうのは言い過ぎかもしれない」
「いやいや、充分すごいっしょ。じゃあ、文法の教科書で上一段活用の動詞はどこにあるでしょうか」
「二十八ページの四行目。『口語の上一段活用動詞の「見る」は文語でも「見る」である。次の表のように活用する』。この文の隣に活用表がある。み、み、みる、みる、みれ、みよ」
すぐに答えると、ミナトがこちらと文法の教科書に目線を行ったり来たりさせて、ぽかんと口を開いた。
「えっ、一字一句間違えない感じ?」
「写真みたいに映像で覚えてるから、そのあたりは正確。でもピントがぼけて思い出せないってことはあるし、覚えてないページは一文字も分かんないよ」
洸太は口の前に人差し指を当てた。
「他の人には内緒ね。学校じゃ誰にも言ってないから。多分、ただ暗記が得意な人って思われてると思う」
「自慢すればいいのに。すげえ特技っすよ?」
「変に注目されたくないから。逆にみんながどうやって覚えるのか、僕には分かんないし。いいよなって言われても返事に困るし、やり方も説明できないし」
ミナトはへええと感心した声を出し、「そっすね」と頬杖をついた。
「オレも背が高くていいよなって言われても、ありがとうくらいしか言えないっすね」
「でも、身長ってスポーツでは有利じゃない? 部活は何部なの」
「最初バレー部に勧誘されたんすよ。で、仮入部二日目にブロックしたら突き指したんで辞めました。利き手を突き指するとか、シャーペンが握りにくくて不便でした。なんで今は帰宅部っす。図書委員でバーコードをピッてやってるのが楽しいっすね」
洸太にはミナトの反応が新鮮だった。小さな頃まだ自分が人と違うと分からなかったとき、自分の覚え方を教えると「羨ましい」とか「すごい」とか興味津々でいろいろ聞かれた。だが、ミナトはもうすっかり受け入れた様子で、自分の話題に話を移した。過度な期待を持ってこちらを判断しないこと、そのことに肩の力が抜ける。
ミナトの側にいると落ち着く。洸太は金髪プリンの彼と話していて居心地がいいことに我に返った。
たしかにクラスメイトとは勉強のことを話せる。たしかに部活仲間とは分かち合える楽しさがある。湊太とはお互いのことが分かっているし、趣味が重なることが多い。
それでも、学年が違って、科が違って、部活が違って、家族でないミナトといると自然な笑顔になれる自分がいる。
「先輩は部活以外の趣味とかあるんすか。読書が好きなのは分かってるっすけど」
ミナトが何気なく聞いてきたそれに思わず洸太は財布を取り出した。笑顔で「聞いてくれる?」と財布を開く。
「僕、すっごく自慢したいものがあるんだけど!」
「なんすか」
「これ見て!」
洸太は財布から角の折れた映画の半券を取り出して見せた。映画の題名と座席番号が書いてある半券だ。つい早口になる。
「映画を見に行くのが好き! 半券コレクション! これを見ると内容を思い出せるから、すごい魔法のチケットなんだよ! 好きな映画を二十に厳選して持ち歩いてる! 分かる? 映画の入場料を払わなくても何度もその席から見た映画の好きなシーンを思い出せるわけ! 僕の暗記力、多分このためにあるんだと思う!」
二つ折りの財布の形によれた半券二十枚。それを自信満々にトランプのように広げて見せると、ミナトが「嘘だろ」と言わんばかりにドン引きしたような顔をした。
「先輩って変わってる……絵柄もなにもないマジの半券じゃないっすか」
「文字と数字だけで思い出せるからこれでいいんだよ。このちょっと汚れてるやつは小学生のときに見に行った子ども向けのアニメ映画なんだけどね、すっごく感動するラストだったんだよ。これを見ると泣けてくるんだよね」
「先輩ってコレクターっすか? 変なの集めてそうっすね」
だがミナトはそこでぷっと小さく笑った。頬杖をつき、髪ゴムから漏れた髪が頬に垂れる。
「じゃあ夏休み中に映画を見に行きません? なにかおすすめはありますか」
「え、ホント? 来週から始まるもので見に行きたいのあるんだよね。小説が原作で映画化された作品。高校生が主人公なんだけど。それでもいい?」
「先輩のおすすめを見たいっす」
「じゃあ今予約を取っちゃってもいい?」
いそいそとスマホをいじり出すと、向かいの席でまたミナトが笑う。人混みが緩和しているときを狙い、お盆後の土日で席を探す。未来に楽しい時間が約束されているだけでうきうきしてくる。ミナトが汗を掻いたコップでジュースを飲み、テーブルについたコップの丸い輪を紙ナプキンで丁寧に拭いた。