そっと手を持ち上げ、翳したビー玉を覗き込む。
青いガラス玉の中には、ボブカットの青い髪に青い目の若い男の顔が映っている。
多分、元々の見た目は悪い方ではなかったのだろう。それが右目の眼帯と鼻筋を横断する巨大な傷で台無しになっている感がある。明らかにワケアリだとわかる顔。でも、男は――
何故か。
この顔を見れば、そのたびに再認識することができるからだ。自分がなすべき目的が何であるのか。自分が心に刻み、抉って、血を流しながらも果たすべき使命がどんなものであるのかを。
けして忘れてはいけない。忘れることなど許されない。それは、律が律であることを放棄することと同義なのだから。
「不可思議様」
「ん」
ドアがゆっくりと開いていく。ノックもせずこの部屋に入ることが許されている人間は極めて少ない。
案の定、そこに立っていたのは眼鏡をかけた白スーツの男だった。名前は
「いつも不可思議様は、ビー玉を眺めていらっしゃいますね。何か意味でも?」
「あるさ。正確には……映るもの、が好きなんだ。鏡でも、ガラスでも、水でも、なんでも」
「映るもの?」
「ああ。ワタシは、このワタシの顔が大好きだからねえ」
「…………」
そう言うと要は、整ったその顔を露骨に曇らせた。律が〝己の顔が好き〟という本当の理由がよくわかっているからだろう。
彼こそ、律の顔を特に好きでいてくれる人間の一人である。もし律が己の美貌を褒め称えてそう言ったなら、彼はもろ手を挙げて賛同していたはずだ。
そうしない理由は、間違いなく。
「わたくしは、あなた様の顔が好きです。でもそれは、あなた様とは同じ意味ではありません……不可思議様。あなた様は……とてもとても、とてもお美しい人ですから」
嘘偽りないとわかるその言葉に、律は心から笑うしかない。この傷だらけの顔を本気で綺麗だと思っているようなもの好きは、この男くらいなものである。
「それはそうと不可思議様、報告が。鏑木達が、任務に失敗して消滅したと。……魔王学園は、いつも通り林間学校を続行したとのことで」
「ん、そうか。それは残念だったねえ。彼らの忠誠心は好ましいものではあったのだがね」
残念というのがほぼ言葉だけであることはわかりきっているだろう。要は一切不快感を示さない。
そもそも、彼だけは律の本当の目的を知っているのだ。最終到達点がどこかを知っているのなら、友だろうと恋人だろうと一体何を悲しむ必要があるだろう?
みんな結局、同じ地獄に堕ちるだけなのだ。この世界には、醜いモノしか存在していないのだから。
「まあ、何も問題はないさ。鏑木は最低限の仕事はしてくれた。ビリヤードと言う組織の名前は伝えてくれただろうし……巨大マフィアが彼らを狙っていることも、上層部に伝わっただろう。今後はより一層警戒してピリピリしてくれるはずさ。今はそれで充分」
ビー玉が、そっと手から滑り落ちる。がしゃん!と派手な音とともに灰色の床で砕け散った。割れた破片には、より歪になった己の顔が映っている。
いずれあの学園という箱庭もまた、このビー玉と同じようにしてやる。否、学園だけじゃない、この国も、世界も全て。
「勢力はじわじわ増えている。今回はただのご挨拶」
ぺろり、と唇を舐め上げて律は告げる。
「さあ、一緒に行こうか、破滅へ」
「はい、不可思議様」
「もう、やめたまえよ、そんな他人行儀なのは」
どっかりとソファーに座りなおし、律は要を手招きする。
「二人きりの時は……〝律〟、だろう?」
「……そうですね、律」
彼を抱き寄せ、一緒にソファーに沈む。キスの味はいつもどこか、鉄錆の味がする気がした。
***
林間学校、一日目の夜。
キャンプファイアーの準備でバタバタしている仲間たちを後目に、ミノルはトイレに連れ込まれていた。――それも何故か、大空に。
「……は?どういうこと?」
一体なんでこうなったんだろう、とミノルは冷や汗だらだらだった。背中に壁、目の前に大空。何故自分は、トイレで大空に壁ドンなんてものをされているのか。
しかも目の前の少年は極めて機嫌が悪そうに見えるわけで。
「それ、どういうこと?まさかのまさかだけど……洞窟で二人きりなんて美味しいシチュを経験しておきながら、静クンと何もなかったとか、そういう?」
「い、いやいやいやいや、お前は何を勘違いしてるのカナ?み、ミノルサンは、何もワカリマセンケド!?」
何故かカタコトになってしまう。確かに、ちょっと静と話をしたのは確かだ。しかし、二人きりであった時間はそう長いものではないし、あれはあくまで泰輔を助けに行くための目的で穴に降りただけである。
何かのロマンスを期待するなんて、そんな不謹慎なことはないわけで。
というか、別に自分と静はそういう関係ではないわけで。
「あくまで五條の奴を助けに行っただけだし!たまたま適任だったから静と一緒だっただけだし!でもって、そのあとすぐ五條と合流したから、そのなに二人きりだった時間が長いわけでは……」
「あああああ!もう、もう、もーう!!あいつ、またここでも恋路を邪魔してくんの!?心底うっざい!もう僕がぶっ飛ばそうかなあ!?」
「待て落ち着け!何か邪魔されたとかじゃないし!!ていうかお前がさっきから何言ってるのかマジでさっぱりと言いますか、とにかく暴走しないで!?」
どうにも大空的には、今回の件を何かのチャンスだと思っていたらしい。
実際大空からは、〝静がミノルのことを好きらしい〟という話は聞いている。また、彼とのゲームで負けている以上、いつか静が告白してきた時真剣に受け取る義務が自分にはあるのは事実だ。
しかし現状、彼は思わせぶりな素振りはしてきても、具体的に何かを言ってきたわけではない。二人の関係は、友達とかルームメイト以上のものではないはずだ。
ミノルの側もそう。彼にそれ以上の感情はない、はずである、多分。だって男であるし、仲間であるし。
――いや、その、少しは意識しないでもないけど。綺麗だし、優しいし……それに。
死ぬかもしれないと思った時、真っ先に思い浮かんだ顔が静だったのは事実。
だがそれは、一番の親友相手だってそんな風に思うだろう、とも感じるわけで。
「……本当に悠長なんだから。君も、静くんも」
はああああ、と大袈裟にため息をつく大空。
「あのね。この間の四木乱汰とのゲームで、ますます危機感を覚える人は増えたはずなんだよ。断言するけど、もう静くんの防波堤がきかないくらい、君はゲームを挑まれまくるようになると思うよー?でもって、いつまでも都合よく勝てるとは限らないわけ、わかる?君甘いところあるし。本当にあるし。めっちゃあるし!」
「大事なことだからって三回言わなくていいんだっつの!自分でもわかってるよ!!」
「いいやわかってないね!……そのゲーム挑まれて、望まない相手に手籠めにされるかもしれないって危険は……君がさっさと継承者を選んでしまうことで解決するんだよ?」
「もう何日過ぎたと思ってるの?」と大空はこちらの顔を覗き込んでくる。
「いつまでも時間があると思っちゃいけない。好きでもない相手に抱かれるかもしれないならさ、もっと早く行動に移すべきでしょうが!静くん以外で気になる子がいるとかいうならそれはもう仕方ないけど、今のところミノルくん他の子を気にする素振りがあるでもないしっ!!」
「いや、でも、なあ……」
「ねえ、実際どうなわけ?どーなんだよ、ねえ!?」
そうやってこちらを見上げてくる大空の顔は、はっきり言って結構可愛い。小学生みたいな見た目をしているので食指を動くようなことは断じてないが、むしろ女装したらぴったり可愛らしい女子高校生ができあがるのでは?なんてことくらいは思う。
極端な話、ヤってやれない相手ではない、だろう。
多分大空もそれがわかっていて、こんな上目遣いオネダリみたいなことをしているのである。――本人はどうなのか。彼だって元々は、次期魔王の立場を狙ってそこにいるはずだというのに。
「お前は……どうだってんだよ」
話を逸らしているのはわかっているが、思いついたら聞かずにはいられない。
「魔王の立場が欲しいんじゃねえのか?人の心配ばっかりしてるけど、継承権は諦めたわけ?」
「諦めてはいないし、君が僕を選んでくれるなら歓迎するよ?」
「なら……」
「でも、そういう問題じゃないわけ、わかる?」
ぷくー、と彼は子供っぽく頬を膨らませた。
「継承者を決める手段が手段だからさ、本当に好きな人を選びたいって思うのは仕方ないってわかってるんだよね。無理強いされたら誰だって傷つくだろうし。……結局、外野がなんて言おうが最終的に選ぶのはミノルくんなんだよ。ミノルくんに好きになって貰えなきゃどうしようもないでしょ?」
でもって、と彼は続ける。
「僕は友達の一人として……その心を曲げて欲しいとは思わないわけ。君にも、静くんにもね。だから、いつまでも答え出さないで楽観的に過ごされるのが一番腹が立つの、わかる?」
「……わかる、けど」
「取り返しのつかないことになってからじゃ遅いんだよ。君が誰かに負けて、全然好きでもない相手と契約する羽目になるかもしれない。何より……君も理解したでしょ、前回と今回で。相手によっては、死ぬことだってあり得るってこと。ここが、そう言う場所だってこと」
「……うん」
わかっている。大空は結局のところ、ミノルのために言ってくれているのだということくらいは。
まあ、だからといって洞窟に二人で入った=そういうチャンスだと捉えるのは正直飛躍しすぎているとは思うが。
「映くんだって、君のことを狙ってるわけだし?そのうち、静くんとバチバチキャットファイトしそうで、なかなか怖くはあるんだよねえ」
「う゛っ……!」
それは、確かに。
先の静と映の牽制合戦を思い出し、ミノルは青ざめてしまう。
「その映くんを社くんは狙ってるからややこしいし、五條の場合は静くんとミノルくんどっち狙いかわからないところあるし」
「待て!?あいつはさすがにそんなのないだろ!?」
「いやあ、わからないよ?今回助けてもらって、少なからず君に恩義を感じてるはずだしねえ」
ああそうだ、と。
彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、あることを教えてきたのだった。
「魔王学園の林間学校……メインイベントのキャンプファイアーには逸話があるんだなあ。火を囲んで御飯を食べるんだけど、その席順が完全にランダムでね」
それはもう、玩具を見つけたような顔である。
「隣同士に座った相手は末永く結ばれる……なんて言われてるわけ。……ふふふふ、今度こそ、チャンスじゃない?」