「……着替えを」
静まり返った病室に柊の声が響いて、我に返った。
「え? き、着替え?」
「はい。入院するので、着替えを持って来ていただけませんか」
柊は俯いたままだ。感情を無くしたみたいに抑揚のない声だった。俺は「分かった」と返事をして病室を後にした。
どれくらい入院するのか分からなかったから、バッグに入るだけ彼の下着やパジャマやタオルを詰め込んだ。他に何か必要なものはないのかと考えたが、入院したことがないので想像もつかなかった。
上司に事情を説明して、休みを貰った。着替えを準備して再び病室へ行くと、柊の意識がなかった。ベッドに横たわる青白い顔を見て、俺は慌てて人を呼んだ。
「大丈夫ですよ、薬が効いているだけですから」
「そうなんですか」
看護師に言われて、ようやく大きく息を吐く。
「ここ数日は、あまり眠れなかったようですね。前回入院したときよりも体重が落ちていますし。最近、何か変わった様子はありませんでしたか?」
「い、いえ……すみません。よく、分かりません」
何も答えられなかった。結婚しているのに、同じ家に暮らしているのに、何も分からない。
看護師が部屋から出ていった後、俺はそっと柊の顔を覗き込んだ。
生気のない顔だった。死んでいるみたいに、じっと動かずに眠っている。
俺の隣で、あんなにころころと何度も寝返りをうっていたのに。
俺が強く押さえつけた手首は、あの夜よりも確実に細くなっていた。二の腕も、肩も、背中も、ただでさえ頼りなかったのに、もっと細くなってしまったのか。可哀想なくらいに細く締まっていたあの腹も、もっと薄くなって……。
腹。
柊の腹は、これから少しずつ大きくなっていく。
でも、膨らんだ彼の腹を想像することが出来ない。
あんな華奢な体で、免疫不全を患ったままで、出産できるのだろうか。問題はないのだろうか。そもそも彼に出産する意思はあるのか。好きでもないαとセックスして出来た子供だ。
産まない選択をするΩがいることは知っている。免疫不全の治療のためだけにαと性行為をして、妊娠すれば中絶する。Ωにも自分の人生を選択する権利はあって当然だと思う反面、柊がそうするかもしれないと想像したら苦しくなった。
いや、そういえば「安定期に入るまで病院で過ごす」と言っていた。ということは、産むつもりなのだろうか。俺は何をすればいいのだろう。分からない。居ても立っても居られなくなって病室を出た。
◇◇◇
「華奢といっても、柊くんはΩの中では平均です。男性Ωは安産なことが多いですから、安心して下さい」
主治医の説明を聞きながら、それでも不安が拭えない。
「でも、あんなに小さいんです。俺とはぜんぜん違ってて。細いし、頼りないし、本当に大丈夫なんですか? まだ免疫不全も治っていないのに、子供を産めるんですか?」
必死に言い募る俺に「αの君と比べたら小さいだろなぁ」と主治医は目を細めて笑った。
「妊娠期間中は、免疫不全の症状は安定します。免疫不全のΩだからといって、何か苦しい思いをするとか、出産の際に問題があるとか、そういったことはありません。この病院は医療体制も充実していますし、スタッフのスキルも高いです。柊くんの部屋は特別個室で、隣の部屋に医師か看護師のどちらかが必ず常駐していますから、安心して下さい」
「はい……」
諭されるように説明されて、安心するやら恥ずかしいやらだった。
「ちなみに、俺はβなので安心してください」
「は、はい……?」
何が安心なんだろう。
「あれ、気にならない? 割と気にするαが多いんだけどな。番の主治医がαだと嫌がるんだよ。嫉妬というか、本能というか……。盗られるって思うのかな」
なるほど。まぁ、分からなくもないけど。
「だから、βの医者って案外需要があるんだよね。それより、きみも心配なくらい顔色が悪いね」
「……忙しいので」
「大学と仕事の両立は大変だろうなぁ」
主治医が腕を組みながら頷いている。
「どうして、知ってるんですか」
「柊くんの主治医になってから、それなりに経つしね。家族構成や事情も把握しているよ。ある程度知っておかないと、細やかな対応は出来ないし。特別個室の患者様には、特別にフォローさせていただくのも勤務医の務めだから」
にこやかに「患者様はお客様」と言い張る主治医を見て、強張っていた俺の体の力は抜けた。