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第62話 いきなり、結婚……?

「僕以外の匂いを知らないんだ……」


 まるで、自分自身に言い聞かせるような声だった。


 改めて言われると恥ずかしい。


「こ、こんな体でごめん……」


 祈るような気持ちだった。捨てないで、と心の中で懇願する。


「なんで? 僕、喜んでるんですよ」


 ……喜んでる?


 意味が分からなかった。


「僕、かなり嫉妬深い性質らしいですね」


 自嘲するように、北斗が言った。


 あぁ、自分は捨てられないんだ、と理解して全身の力が抜けた。


「……かわいい」


 北斗の声に、思わず耳を疑う。


「な、なに言ってるの」


 俺は、オメガらしくない容貌だ。かわいらしさの欠片もない。平凡を絵に描いたような顔面なのに。


「自他ともに認める地味顔だよ、俺は。オメガにしては、体だってデカいし」


「世界一かわいいです」


 北斗は、ベッドに腰かけた俺の膝裏に手を入れ、そのままぐいと抱きあげた。


「うわっ」


 体が宙に浮いて、俺はちょっとパニックになる。


 無意識に、北斗の首にしがみついていた。


 これは、いわゆるお姫様抱っこだ。


「……重くないのか」


「ぜんぜん平気です」


 北斗の腕力に慄く。成人男性の自分を軽々と抱き上げ、おまけに余裕の表情……。


「俺さ……」


 抱っこされた状態で、俺は目を伏せた。


「なんです?」


「三十一歳なんだけど」


「知ってますよ」


 だから何? という北斗の表情。


「年齢差とか、気にしないのか」


 なにしろ、一回り以上だ。


「今さらじゃないですか?」


 きょとん、とした顔で北斗が俺を見る。


 安堵と歓喜。


「……じゃあ、俺と恋人になってくれる?」


 さらりと言ったつもりだったけど、声に出したら震えていた。


 北斗が、驚いたように目を見開いている。


「……好き同士って確定した時点で、付き合ってると思ってました」


 今度は自分が驚く番だった。


「そ、そうか……」


 思わず脱力した。


 北斗は俺を抱っこしたまま、ぐるぐると回り始めた。


「わわっ……!」


 どんどん速度が上がっていく。遠心力で振り落とされそうになり、慌ててぎゅうっとしがみつく。


「あぶないだろ……!」


 キッと睨んだら、少しだけスピードが落ちた。


「ていうか、瑞生さん」


「なに」


 北斗は、ずいぶん楽しそうだ。 


「結婚しません?」


「は、はぁ……?」


 素っ頓狂な声が、俺の口から漏れた。


「よいしょっと」


 さすがに疲れたのか、俺をベッドの上に着地させる。


「な、なん、えぇ……」


 軽くパニックになっている俺を見て、北斗は満足そうに笑う。


「本気ですよ」


「う、うん」


「OKしてくれます?」


 なんか、すっごく軽いな。


「えっと……」


「僕じゃ役不足ですか?」


「ち、ちが……」


 慌てて首を振る。


「まだ高校生ですけど、資産は一応あります」


「えぇ……」


 中学時代の友人たちと起業したらしいのだ。そして、ある程度規模を大きくしてから売却したのだとか。


 ちょっとついていけない。自分の高校時代とあまりにもかけ離れている。北斗と同い年だった時分の資産(?)といえば、せっせと貯めていたお年玉しかなかった気がする。


 ……上流階級が怖い。


 俺が呆気に取られていると、ますます北斗が真剣な顔つきになった。


「たしかに、今は無収入ですけど。また、新しく仕事を始めますから」


「そ、それって、起業……?」


「はい」


 医療系のアプリを開発して、リリースする予定なんだとか。


 ……偉いなぁ。


「安定してるほうが良いですか?」


「え?」


「会社員が良いとか」


「そ、そういうのは別に……」


 学生だろうが、起業しようが、別に構わない。もちろん、サラリーマンでも良い。ニートでも、夢を追いかけるバンドマンでも。なんなら、一生無職でも良い。幸いにも自分は医師だし、収入はそれなりにある。


「じゃあ、将来は僕と結婚してくれますね?」


 念押しするように言われて、俺はうなずいた。夢みたいだと北斗は言った。


「夢じゃない証拠が欲しいです」


 なにか、証になるものを持っていたいと言われたけれど、すぐに渡せるものがなくて困った。アクセサリーは身に付けないし……と思いながら部屋の中を探していたら、合鍵を見つけた。


 引き出しの奥に仕舞ったまま、そこにあることすら忘れていた。


「この部屋の合鍵なんだけど。これでいい……?」 


 北斗に見せると、うれしそうにうなずいた。


 俺は、北斗が持っていたハンカチをもらった。


「高校生のくせに、ブランド物のハンカチなんか持って……」


 照れ隠しで言った。互いの持ち物を交換するなんて、なんだか胸の奥がむずむずする。


 北斗は微笑みながら、俺を抱きしめた。彼が言った通りだ。ふわふわして、現実感がない。夢の中にいるみたいだった。





 休憩時間。


 自分のデスクでくるみパンをかじっていたら、肩を叩かれた。それも、思いっきり。


「なんだよ、痛いな」


 振り返ると、川上が呆れた様子で立っていた。


「話しかけても、無視するからじゃないですか」


「……話しかけてた? 俺に?」


 まったく気づかなかった。


 川上が天を仰ぐ。そうして、大きくため息を吐いてから「パン」と言った。


「……ぱん?」


「ぽろぽろ落としてますよ」


 彼女に指摘された通り、くるみパンの欠片がデスクに落ちていた。


「自覚あります?」


 ちらりと俺に視線を向けながら、川上が着席した。


「なんの?」


「最近の秋里さん、明らかに様子が変ですよ」


 そう言って、川上はデスクからエネルギー補給のゼリーを取り出した。


「……そうか?」


 まぁ、自覚はある。完全に惚けている。


「ぼんやりしてるし、かと思ったら急にうきうきして。秋里さんの情緒、一体どうなってるんですか?」


 白い目で見られ、俺は苦笑いするしかなかった。


 初恋が実ったのだ。そればかりか、将来の約束もした。とんとん拍子にもほどがある。今まで縁遠かった幸せというものが、いきなり束になって襲い掛かってきたような感覚だ。彼女の言う通り、情緒がヤバいのだ。休憩時間にぼんやりするくらい許して欲しい。


「……ちょっと、疲れてるのかもな。でも、診察はちゃんとしてるし。問題ないよ」 


「疲れ……? めずらしいですね。秋里さんって図太いのに」


 ひどい言い様だ。


 こめかみにピクピクと青筋が立つ。


「一応、これでも抱えてる患者が多いから」


 失礼な後輩に、俺はやさしい笑顔で対応する。こんなことで怒ったりしない。今の俺には余裕がある。なんたって、恋人がいるのだ。しかも婚約までしている……!


 素晴らしい現実のおかげで、たいていのことには寛容になれる。


 川上は、さっさと席を立って診察室に向かった。


 時計を確認すると、午後の診察が始まる時分だった。


 残りのくるみパンをアイスコーヒーで流し込む。そして川上のあとを追うように、俺も席を立った。

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