「僕以外の匂いを知らないんだ……」
まるで、自分自身に言い聞かせるような声だった。
改めて言われると恥ずかしい。
「こ、こんな体でごめん……」
祈るような気持ちだった。捨てないで、と心の中で懇願する。
「なんで? 僕、喜んでるんですよ」
……喜んでる?
意味が分からなかった。
「僕、かなり嫉妬深い性質らしいですね」
自嘲するように、北斗が言った。
あぁ、自分は捨てられないんだ、と理解して全身の力が抜けた。
「……かわいい」
北斗の声に、思わず耳を疑う。
「な、なに言ってるの」
俺は、オメガらしくない容貌だ。かわいらしさの欠片もない。平凡を絵に描いたような顔面なのに。
「自他ともに認める地味顔だよ、俺は。オメガにしては、体だってデカいし」
「世界一かわいいです」
北斗は、ベッドに腰かけた俺の膝裏に手を入れ、そのままぐいと抱きあげた。
「うわっ」
体が宙に浮いて、俺はちょっとパニックになる。
無意識に、北斗の首にしがみついていた。
これは、いわゆるお姫様抱っこだ。
「……重くないのか」
「ぜんぜん平気です」
北斗の腕力に慄く。成人男性の自分を軽々と抱き上げ、おまけに余裕の表情……。
「俺さ……」
抱っこされた状態で、俺は目を伏せた。
「なんです?」
「三十一歳なんだけど」
「知ってますよ」
だから何? という北斗の表情。
「年齢差とか、気にしないのか」
なにしろ、一回り以上だ。
「今さらじゃないですか?」
きょとん、とした顔で北斗が俺を見る。
安堵と歓喜。
「……じゃあ、俺と恋人になってくれる?」
さらりと言ったつもりだったけど、声に出したら震えていた。
北斗が、驚いたように目を見開いている。
「……好き同士って確定した時点で、付き合ってると思ってました」
今度は自分が驚く番だった。
「そ、そうか……」
思わず脱力した。
北斗は俺を抱っこしたまま、ぐるぐると回り始めた。
「わわっ……!」
どんどん速度が上がっていく。遠心力で振り落とされそうになり、慌ててぎゅうっとしがみつく。
「あぶないだろ……!」
キッと睨んだら、少しだけスピードが落ちた。
「ていうか、瑞生さん」
「なに」
北斗は、ずいぶん楽しそうだ。
「結婚しません?」
「は、はぁ……?」
素っ頓狂な声が、俺の口から漏れた。
「よいしょっと」
さすがに疲れたのか、俺をベッドの上に着地させる。
「な、なん、えぇ……」
軽くパニックになっている俺を見て、北斗は満足そうに笑う。
「本気ですよ」
「う、うん」
「OKしてくれます?」
なんか、すっごく軽いな。
「えっと……」
「僕じゃ役不足ですか?」
「ち、ちが……」
慌てて首を振る。
「まだ高校生ですけど、資産は一応あります」
「えぇ……」
中学時代の友人たちと起業したらしいのだ。そして、ある程度規模を大きくしてから売却したのだとか。
ちょっとついていけない。自分の高校時代とあまりにもかけ離れている。北斗と同い年だった時分の資産(?)といえば、せっせと貯めていたお年玉しかなかった気がする。
……上流階級が怖い。
俺が呆気に取られていると、ますます北斗が真剣な顔つきになった。
「たしかに、今は無収入ですけど。また、新しく仕事を始めますから」
「そ、それって、起業……?」
「はい」
医療系のアプリを開発して、リリースする予定なんだとか。
……偉いなぁ。
「安定してるほうが良いですか?」
「え?」
「会社員が良いとか」
「そ、そういうのは別に……」
学生だろうが、起業しようが、別に構わない。もちろん、サラリーマンでも良い。ニートでも、夢を追いかけるバンドマンでも。なんなら、一生無職でも良い。幸いにも自分は医師だし、収入はそれなりにある。
「じゃあ、将来は僕と結婚してくれますね?」
念押しするように言われて、俺はうなずいた。夢みたいだと北斗は言った。
「夢じゃない証拠が欲しいです」
なにか、証になるものを持っていたいと言われたけれど、すぐに渡せるものがなくて困った。アクセサリーは身に付けないし……と思いながら部屋の中を探していたら、合鍵を見つけた。
引き出しの奥に仕舞ったまま、そこにあることすら忘れていた。
「この部屋の合鍵なんだけど。これでいい……?」
北斗に見せると、うれしそうにうなずいた。
俺は、北斗が持っていたハンカチをもらった。
「高校生のくせに、ブランド物のハンカチなんか持って……」
照れ隠しで言った。互いの持ち物を交換するなんて、なんだか胸の奥がむずむずする。
北斗は微笑みながら、俺を抱きしめた。彼が言った通りだ。ふわふわして、現実感がない。夢の中にいるみたいだった。
✤
休憩時間。
自分のデスクでくるみパンをかじっていたら、肩を叩かれた。それも、思いっきり。
「なんだよ、痛いな」
振り返ると、川上が呆れた様子で立っていた。
「話しかけても、無視するからじゃないですか」
「……話しかけてた? 俺に?」
まったく気づかなかった。
川上が天を仰ぐ。そうして、大きくため息を吐いてから「パン」と言った。
「……ぱん?」
「ぽろぽろ落としてますよ」
彼女に指摘された通り、くるみパンの欠片がデスクに落ちていた。
「自覚あります?」
ちらりと俺に視線を向けながら、川上が着席した。
「なんの?」
「最近の秋里さん、明らかに様子が変ですよ」
そう言って、川上はデスクからエネルギー補給のゼリーを取り出した。
「……そうか?」
まぁ、自覚はある。完全に惚けている。
「ぼんやりしてるし、かと思ったら急にうきうきして。秋里さんの情緒、一体どうなってるんですか?」
白い目で見られ、俺は苦笑いするしかなかった。
初恋が実ったのだ。そればかりか、将来の約束もした。とんとん拍子にもほどがある。今まで縁遠かった幸せというものが、いきなり束になって襲い掛かってきたような感覚だ。彼女の言う通り、情緒がヤバいのだ。休憩時間にぼんやりするくらい許して欲しい。
「……ちょっと、疲れてるのかもな。でも、診察はちゃんとしてるし。問題ないよ」
「疲れ……? めずらしいですね。秋里さんって図太いのに」
ひどい言い様だ。
こめかみにピクピクと青筋が立つ。
「一応、これでも抱えてる患者が多いから」
失礼な後輩に、俺はやさしい笑顔で対応する。こんなことで怒ったりしない。今の俺には余裕がある。なんたって、恋人がいるのだ。しかも婚約までしている……!
素晴らしい現実のおかげで、たいていのことには寛容になれる。
川上は、さっさと席を立って診察室に向かった。
時計を確認すると、午後の診察が始まる時分だった。
残りのくるみパンをアイスコーヒーで流し込む。そして川上のあとを追うように、俺も席を立った。