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第13話 13番目のお姫様 9/9

(真っ暗だ。そうか、もう夜だから、窓からも光が入ってこないんだ)


 ウェストメイン・スクールは200年以上の歴史を誇る古い校舎で、階段の石壁は冷たく湿気を帯びていた。ヘリポートのある新校舎へ抜けるには、この暗い階段を駆け上がり、渡り廊下を走り抜けなければならない。

 だが、ライトなしでは、足元の石段すら見えず、誘拐犯たちの動きが一瞬鈍った。ミラの小さな胸に、かすかな希望が芽生えた。

 その時、1人の男がポケットから携帯電話を取り出し、ライトを点けた。白い光が狭い踊り場を照らし、誘拐犯たちの不健康そうな顔が浮かび上がった。

 汗と脂でテカる肌、血走った目——その中に、ミラのぴちぴちの頬っぺたも照らされ、彼女の金髪が光に反射してキラリと輝いた。


「うわ。やば」


 突然、ミラの視界に、坊主頭の少年が飛び込んできた。

 彼は音を立てずにすぐそばまで来ていた。

 学生服の上着を脱ぎ、タクティカルベストを剥き出しにした姿で、暗闇からまるで幽霊のようにはっきりと姿を現した。少年の黒い瞳が鋭く光り、息を切らせながらもその表情には迷いがなかった。


「お前、さっきのガキ……!」


 ライトを持っていた男が叫んだ瞬間、少年は手に持った棒のようなもので、アッパーカットを男の顎へと炸裂させ、鋭い打撃音が階段に響いた。

 唯一の光源である携帯電話が飛び跳ねるように階段を転げ落ち、まるでイベントの照明のように辺りをランダムに照らし始めた。

 光が踊り場を一瞬明るくし、次の瞬間には暗闇に戻る——その不安定な明滅が、混乱をさらに増幅させた。


「てめ……!」


 ボスが怒鳴り、ミラを抱えたまま少年に向き直ろうとした。

 だが、階段の踊り場は再び深い闇に包まれ、携帯電話の明かりが転がり落ちたことで、少年の動きを掴むのが難しくなっていた。暗闇がまるで生き物のように彼らの視界を奪い、足音だけがコンクリートの壁に反響していく。

 ミラの小さな体がボスの腕の中で震え、彼女の耳に彼の荒々しい息遣いが響いた。


「離して!」


 今だ――これが最後のチャンスだ!


 そう直感したミラは目を強く瞑り、深く息を吸った。

 男ごと階段から落ちる覚悟を決めて、ボスの腕の中で激しく暴れ始めた。

 細い腕を振り回し、足をばたつかせ、彼女の小さな力がボスのバランスを崩した。新緑色のワンピースが擦れてさらに汚れ、膝の擦り傷から血が滲んだが、そんな痛みは気にならなかった。ミラの頭の中はただ一つ、この闇と混乱の中で抜け出すことだけだった。彼女の金髪が乱れて顔にかかり、汗で額に張り付いた。


 だが、自由になった瞬間、ミラの足が階段の縁を踏み外した。


(やだ、ころんで頭ぶつけちゃう!)


 暗闇で足元が見えず、彼女の小さな体がバランスを崩して落下しそうになったのだ。

 しかし背後から素早い足音が近づき、力強い手がミラの腕を掴んだ。


「あっぶなー。大丈夫?」


 少年のしゃがれた声が暗闇に響き、次の瞬間にはミラの体は引っ張られて階段の隅に引き寄せられた。ミラを引っ張ったのは、例の坊主頭の例の少年だった。

 タクティカルベストを剥き出しにした少年は息を切らせながらミラを支えた。ミラも息が上がっていたが、少年の腕にしがみついてなんとか立っていられた。

 ミラはこくこくと頷くと、少年はふっとえくぼを凹ませて笑う。

 その笑顔が、暗闇の中に存在する小さな光のように感じられ、ミラの心を温めた。


(このお兄ちゃん、笑ったらえくぼが出るんだ。かわいい)


 少年は他の中1と比べればずいぶんと背が高いように思えた。

 170cmは軽く超えているだろう。

 とはいえ、まだ幼さの残るその面影から推測するに、彼が20歳を超えた成人にはとても思えなかった。


(この学校の生徒? でも、訓練された人みたいな動きをしてたから大人なのかな)

「ちょっと、俺の後ろに下がっといて」


 少年がミラの腕の拘束を解いてから離れないように手を握る。

 だが、目を細めて何とかミラと少年を捉える事ができたボスの男は、ピストルを握りながら少年に命令するように叫んだ。


「そのガキ寄越せ!」


 だが少年は夜目が効いた。狭い階段の踊り場で銃をつきつけられても少年はびくともせず、銃を構えた方の手を掴み返すとピストルを簡単に奪い取り、そのまま男を階段から蹴り落とした。


「銃なんかよりうちのボスの方がこえーんだよ!」


 そう言いながら少年はタクティカルベストのポーチから何かを取り出した。それは、先ほど見た物によく似た小型の手榴弾が映った。

 少年がピンを引き抜き、ボスの足音がする方向へ投げた。

 ミラは反射的に目を閉じ、耳を押さえようとしたが、少年の手を握ったまま動けなかった。


 パンッ!


 鋭い音とともに、再び白い煙が階段を覆ったが、今度は閃光手榴弾ではなく、真っ白な煙幕だけが上がる手榴弾だった。

 煙幕弾が炸裂し、ボスの咳き込む声と罵声が聞こえた。


「くそっ! どこだ!」


 怒鳴る声が煙の中で遠ざかり、混乱が広がった。

 ミラの鼻に刺激臭が突き刺さって少し気持ち悪かったけれど、少年の冷静な動きに安心感を覚えた。


「行くぞ。走れる?」


 少年が小さく尋ねた。ミラは息を整え、震える足を踏み締めて頷いた。


「う、うん!」

「いい子」


 少年が短く褒め、ミラの手を引くと、煙に紛れて階段を駆け上った。


「の、上るんですか!?」


 ミラの声が驚きで跳ねた。こういう時、普通は袋小路になりやすい上の階に行くことは避けるだろう、そして階段を下りて校舎の出口へ向かう方が安全だろう、とミラは子供ながらに感じていたのだ。

 それに、校内は先ほどからずっと暗くて、照明が消えた古い校舎はまるで迷宮のようだ。

 道を間違える可能性もあるし、壁にぶつかって怪我をする恐れもある。ミラの大きな目が暗闇を見開き、少年の背中を見つめた。


(道を間違えるかもしれないのに、どうして)


 だというのに、少年は迷う素振りを見せることもなく、真っ直ぐにどこかへ向かっているようだった。

 煙幕が薄れ、携帯電話の明かりが遠くでチカチカと点滅する中、彼の足取りは確信に満ちていた。

 階段の石壁に手をつきながら、少年はミラを引っ張り、暗闇を切り裂くように進んだ。

 ミラの息が上がり、足がもつれそうになったが、彼の手の温かさにしがみついて必死に走った。

 新緑色のワンピースが汗で体に張り付き、金髪が乱れて顔に貼り付いた。


「……こっちに行ったら、誰にもばれずに逃げられる」


 少年はハッハッと小さく息を乱しながらミラの質問に答える。


(ど、どうして断言できるんだろう)


  少年の言葉が、ミラの頭に新たな疑問と希望を植え付けた。

 彼はまるで校舎の隅々を知り尽くしているかのように、暗闇の中でも道を見失わない。

 タクティカルベストのポーチが走るたびに小さく揺れ、彼の動きに無駄がなかった。


「お、お兄ちゃん誰ですか? ここの中学校の人? お名前は?」


 ミラの声が暗闇に響き、階段の石壁に反響した。彼女は必死に走りながら、恩人の名前をしっかりと胸に留めておきたかった。

 少年の手を握る小さな指が汗で滑りそうになりながらも、彼をしっかりと掴んだ。

 少年は一瞬だけ足を緩め、ミラを振り返った。

 暗闇の中で、彼の黒い瞳が彼女を見つめ、渡り廊下の窓から差し込む微かな月明かりがその目に映った。


「マイロ!」


 少年が前を向いたまま、大きな声で自分の名前を叫んだ。


 だが、次の瞬間、彼が「あっ」と小さく声を上げた。

 暗闇の中でも、ミラには彼が少しだけ青ざめたような顔をしたのが分かった。

 少年が慌てたように手を振って付け加えた。


「あ、やべ。名前言っちゃダメなんだった」


 彼は一瞬だけ目を閉じ、頭を振ると、急に声を張り直した。


「マイロじゃない、ジャック! ジャック・なんとか・ブラウンです!」

(この人、マイロっていうんだ!)


 マイロの慌てた声が階段に響き、2人は息を上げながらも走り続けていたが、ミラの唇に思わず小さな笑みが浮かんでいた。

 マイロは一度ミラの方をちらりと見たがすぐに前を向きなおす。そして、足の遅いミラを少しでも急かすためにミラのワンピースの背中部分を掴んで押しながら走った。

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