ホールに現れたのは、学生服を着た坊主頭の男の子だった。
9月だというのに長袖の上着を崩さず、きっちりと着たその少年は、誘拐犯の1人に首根っこを掴まれてホールの真ん中まで無理やり歩かされていた。
ミラは驚いてぽかんと口を開けていたが、突如現れた身元不明の男の子をまじまじと見つめていた。
ボス格の男にとっても予想外の出来事だったようで紙袋を被せる手が止まっていた。
「……何だそのガキ!? どこにいたんだ」
ボスが低い声で問うと、少年を掴んでいた男が慌てたように答えた。
「ホールのすぐそばに、いつの間にかいたんですよボス! 全くどこに隠れてたんだか……」
その言葉に、ミラの胸が再びドクンと跳ねた。
(『隠れていた?』))
ミラの頭は突然の出来事に真っ白になり、思考が追いつかなかった。
だが、外から聞こえるサイレンの音や、遠くから響くヘリのローター音が、まるで天から降る祝福のラッパのように彼女の耳に届いた。
(誰にも気づかれなかったの? どうやって?)
吹き荒れる海原を漂う船が、突如休息できる小さな島を見つけたような感覚——何かが変わるかもしれないという予感が、ミラの小さな胸に芽生えた。
「す! すんませんすんません! 俺、新入生なんですけど、セレモニーとか怠いから適当な部屋に隠れて寝てただけなんです! 先生たちがそこまで怒ってるなんて思ってなかったんです! すんません! 鉄砲とか怖いからやめてください!」
突然、坊主頭の少年が許しを請うように叫んだ。
声変わりしたてのような、少し低いしゃがれた声がホールに響き、中学1年生にしてはどこか大人な声の印象をミラに残した。
「俺たちのことをセンコーと勘違いしてんぞあのガキ」と、誘拐犯の1人がくすくす笑う声が聞こえた。
別の男も鼻で笑いながら「何だありゃ」と呟いた。だが、少年は顔を俯けたまま、さらに声を張り上げた。
「さぼってたわけじゃないんです! ただちょっと眠かったからその辺の裏で隠れて寝てたら、思ってたよりぐっすり寝ちゃっただけってゆーか……!」
ミラは目を丸くしながら少年を見つめた。
彼の言葉に、ホールの空気が一瞬だけ緩んだ。誘拐犯たちの間に微かな笑い声が広がり、ボスさえも一瞬呆れたように肩をすくめた。だが、ミラの頭は急速に動き始めていた。
(ありえないわ。こんなにたくさん悪い人たちがいるのに10時間以上も見つからなかっただなんて)
彼女のルビー色の瞳が少年を捉え、じっと見つめた。
少年は俯いたままだったが、その横顔に、かすかな緊張と――何か企むような光が宿っているように見えた。
「お前、どこで寝てたんだ?」
ボスが試すように坊主頭の少年に聞いた。
「む、向こうの大道具室です!」
少年は首根っこを掴まれたまま叫んだ。
ボスも続けて、低い声を唸らせるように言った。
「――セレモニーホールと大道具室を繋ぐ廊下と扉には、見張りの男がそれぞれ1人いたはずだ」
その言葉に、ホールの空気が再び張り詰めた。
誘拐犯たちの笑い声がぴたりと止まり、少年を掴んでいた男が一瞬顔を見合わせた。
坊主頭の少年は少し黙った後、顔を上げ、黒い瞳で部屋中の誘拐犯を睨んだ。
鋭く尖った眼には、まるで世界中のすべてを恨むような殺意に似た熱意が込められている。思わず、一部の誘拐犯たちはつばを飲み込んだ。
「……あぁ、すんません」
そして睨みつけながら言った。
「上官と比べたら、めっちゃしょぼかったっす」
少年は呟いたあと、唾をいっぱい飛ばしながら大声で叫んだ。
――カーテンを下ろせ!! と。
誘拐犯たちは坊主頭の少年が何を言い出したのか誰も理解できなかった。
しかし少年が叫んだと同時に、ミラを含めて子供たちは一同、拘束された手で耳を覆い、目を強く瞑ってその場にしゃがみこんでいた。
同時に少年は首根っこ掴まれたジャケットをまるで脱皮するように脱ぎ捨てると、ジャケットの下に着こんでいた軍隊用のベスト――正確には片手銃や手りゅう弾などを収納するためのタクティカルベストから、手品でもするかのように瞬時に何かを取り出すと、「カーテンを下ろせ」という号令の2秒後には部屋の中心にそれを放り投げていた。
キィーン! という、目と、耳がつぶれそうな程の閃光手榴弾の光と音の暴力が――誘拐犯たちを痛めつけるのには時間を要さなかった。
まるで爆発でもしたかのような突発的な光は目の角膜を焼き、音は鼓膜を貫いた。
何の対策もしなかったほとんどの誘拐犯たちは、叫び声を上げながら目や耳を押さえつけながらその場に倒れる。
ミラは訓練した通りに目と耳を守ったが、耳だけはキーンという耳鳴りがしばらく消えなかった。
「くそっ……!」
突然の事でほとんどの男達はすぐには動けそうになかったが、ボスと数人の男だけが耳を押さえながらも素早く立ち上がる。
「なんだあの号令……!」
誰かが子どもたちだけが反応できた謎の言葉にいらだつように独り言ちしていたが、ミラは「カーテンを下ろせ」という号令の意味が理解できていた。
『カーテンを下ろせ』というのは、学校で教わる不審者対策の暗号だ。
それは「目と耳を塞いでその場にしゃがめ」という意味の暗号で、他にも子供が教室から出ないように命ずるための暗号や、防弾扉を閉めろという意味をなす暗号も存在する。
(このおじさんたちは知らなかったんだ。あの暗号は、不審者対策でここ数年の間にできたって先生が言ってたから……)
煙幕が目に染みて涙も咳もでたが、ホールのエントランスやサイドドアから、武装した警察らが一斉に突入し、耳をつんざくような騒ぎで部屋中が反響し始めた。
助けが来たんだ。とミラは直感的に事態を理解したが、警察らが誘拐犯たちに向かって銃を向かたときには、ボスと数人の男達はミラを抱き上げてその場から逃げ出していた。
「離して! いや!」
裏口を出て、まだ警察の手が行き届いていない道からヘリポートの方へとミラを抱えて走ったが、ミラは多少の怪我も覚悟して男の腕の中で暴れ、早くこの場から逃げ出そうと必死に抵抗していた。
「暴れるな! 先にヘリポートに向かった仲間とは連絡が取れてるんだ。さっさとずらかるぞ!」
ボスが怒鳴り、息を切らせながら走った。ミラは彼の腕の中で体をよじり、多少の怪我も覚悟して必死に抵抗した。
爪を立て、足をばたつかせ、彼女の小さな力がボスの動きをわずかに乱した。
彼女の新緑色のワンピースが擦れて汚れ、膝に擦り傷ができたが、そんなことは気にならなかった。
「離して! あなたたちもう逃げられないわよ! 諦めて!」
「うるせぇガキだな!」
ボスが苛立ちを爆発させ、ミラを大人しくさせるために腕をさらに強く掴んだ。彼の顔は汗で濡れており目は血走っている。だが、見るからに焦りが滲んでいた。
「くそっジャネットなら死体にできたのに!」
思わずボスが口走った言葉をミラは聞き逃さなかった。
(それって、お姉ちゃんなら殺せたっていうこと? 私ならだめ? どうして?)
ミラは男の言葉の意味が理解できなかったが、彼女の抵抗が彼の冷静さを少しずつ削いでいるようだ。汗の匂いがだんだんと濃くなり、肌もヌメヌメし始めている。
「お前がいないと身代金も仲間の解放も全部無いことになるんだ! 何が何でもこっちに来てもらう!」
そして今までミラにも子供達にも知らされなかった男達の主目的を、ミラは思わぬ形で知る事となった。
身代金と仲間の解放——重罪人を救うために、王家の血筋を持つ者が人質に取られたのだ。
(だから大人のイヴァンお兄様じゃなくて、子供のジャネットが誘拐されることになっていたんだ。今の私みたいに抱っこで運べるし、力もないから……。……でもそれならますます私だったことでがっかりされた理由が分からない)
ミラの心が混乱で揺れた。彼女が「13番目」だからダメだと文句が出たことと、誘拐犯の目的が一致しないことに、頭が追いつかなかった。
だが、その思考は突然の暗闇に遮られた。まるで夜の魔物が悪事に手を染める彼らを歓迎するように、真っ暗な暗闇が周囲一帯を包んでいた。
「なんだ!?」
「チッ。何でこんな時にライトが消えるんだよ……」
誘拐犯たちの声に苛立ちと困惑が混じり、暗闇の中で互いに顔を見合わせているのが分かった。ミラを抱えたボスが大きく舌打ちをし、彼女の体を締め付ける腕に力がこもった。
偶然の一致ではない――おそらく警察か特殊部隊による妨害だと、ボスは咄嗟に理解したようだった。ミラの大きな目が暗闇を見開き、周囲を見渡した。