ミラは解放される子供たちを何度も見送った。
ミラは1人、また1人と子供達が解放されていくのを見るたびに、静かな胸の高まりを感じていた。
(子供が出ていくたびに、外からサイレンや人の声が聞こえる。助けは来ているに決まってるもん。私ががんばればきっとうまくいく)
控室に置かれた古びた壁掛け時計の針が最初に示していたのは午前10時だったが、今はすでに午後6時を過ぎている。
その長い時間の中でミラの勇気と交渉が実を結び、100人ほどいた生徒たちは少しずつ数を減らしていった。
子供たちが解放されるたびにミラは控室とホールを行き交いしたので足も疲れてきた。
現在、ホールに残る生徒は当初の3分の1を切っている。
少しずつだが、彼女の賭けが確かに状況を変えつつあった。
「こういう絶体絶命の瞬間ってさ、人間性が出ると思うんだよなぁ」
順番にミラを見張っていた男が、退屈を紛らわすようにぼやくように言った。
ミラは逃げる素振りも見せずただじっと座って時を待っていたため、男にとって彼女の監視は単調な仕事に過ぎなかったのだろう。
彼はミラに相槌を期待するような空気を漂わせながら、独り言のように話を続けた。
「解放するって言った瞬間に、真っ先に解放しろって要求してくるやつ。どう見ても健康体なのに仮病使って逃げようとするやつ。先に解放された子供に文句を言うやつ。みんな自分勝手だなぁ。ちょっとした社会の縮図みたいだったよ」
「そ、そうですか」
ミラは小さく答えた。彼女の声は疲れでかすかに震えていたが、男の話に耳を傾ける姿勢は崩さなかった。
男は少し肩をすくめ、煙草の灰を床に落としながら言葉を続けた。
「ここってエスカレーター式の中学だろ? ってことは、小学校の6年間は一緒に過ごした仲間なわけだろぉ? それなら美しい友情の1つや2つ見られるかなと思ってたんだけど……。あぁいうのは小説の中だけなのかね」
「みんな疲れてイライラしてるんです……」
「はぁー。ミラちゃんは偉いねぇー。13番目ってバカにされてもこんなに健気に頑張ってるんだから」
彼の言葉にはどこか諦めたような響きがあり、ミラは黙って目を伏せた。
(……13番目13番目ってうるさいわよ)
時計の針が静かに進む中、ミラの小さな背中には様々な思いが交錯していた。
ミラは子どもたちに友情や助け合いを期待したわけではないし、ただ、1人でも多くの子がこの悪夢から解放されることを願っただけだ。
(どうしてこんなにバカにするような態度を私が取られなきゃいけないの……?)
ミラはそっと唇を噛み締めた。男の言葉が棘のように彼女の心に刺さっていた。
(私が13番目でも末っ子でも、お母様だって、お父様だって、イヴァンお兄様だって、私を大切に思ってくれてるはずよ……)
ミラは深く息を吸い、自分を励ますように心の中で呟いた。それでも、心の奥底にある黒いもやもやが少しずつ少しずつ這い出てきて、ミラをせせら笑いしている様な気がした。
(……一番王位継承権が低いからって、私の価値は変わらないもん)
今までも何度も言われてきた陰口。
誘拐犯たちの「13番目」という冷たい笑い声。
その2つが重なって、悪魔の歌声みたいに頭の中で何度も反響する。
ミラは末っ子として、特に母親からは強すぎるほどの愛情を受けて育ったが、ミラの存在をすべての人が良く思っているわけではなかった。
王家の血を引いていても、13位という順位では王位を引き継ぐ立場に立てるはずがなく、バーターのバーターにもなれない。
王家の中で継承権の優先度が低いのミラはあくまで王家の象徴的な存在で、お飾りとしてとしか扱われない。
彼女の存在を馬鹿にするものも決して少なくはないし、10歳にもなろうものならミラは好奇の眼差しに晒されている事は充分に理解していた。
(……私だって、ちゃんとお父様とお母様の子供なのに)
彼女は目を閉じてそれらをすべて忘れてしまいたかったけれど、全く頭の中から出て行ってくれなかった。
(考えすぎちゃダメ!)
しかしミラは弱気になった自分に活を入れた。
(変なこと考えたらだめ! みんな疲れてるんだから! がんばれミラ。私が頑張ればきっと、誰か助けに来てくれるはず)
奥歯を噛み締めてミラは背筋を伸ばし「早く他の子も解放してあげて」と強く言い放つと、供たちはまた解放されていった。
(そのうちに、優しくて素敵な王子様が現れて、この人たちをやっつけてくれるの。他の人たちも私の事ばかにしなくなる! きっとお母様も私の事褒めてくれる! だから頑張れミラ)
しかし好機はそう長くは続かなかった。
控室のドアが突然勢いよく開き、ボスが重い足取りで入ってきた。
ミラはびくりと肩を震わせ、反射的に立ち上がった。ボスの顔には苛立ちが滲んでいて、手に持った携帯電話を握り潰さんばかりに力を込めているのが見えた。
「さぁプリンセス・ミラちゃん。そろそろ移動の時間だ」
ボスの声は低く、抑えた怒りが響いていた。ミラは喉が詰まるような感覚に襲われながらも、なんとか声を絞り出した。
「どういう……ことですか?」
「外のサイレン、聞こえてんだろ? お前がガキどもを解放するたびに、王宮の連中が動きを掴んで近づいてきてる。もう時間の問題だ。このままじゃ俺たちが詰む」
ミラの胸がドクンと跳ねた。
もうすぐ助けが来るはずだとずっと信じて頑張っていたのだ。
でもボスの表情を見て、その希望が一瞬で不安へと変わった。
「やつら、要求通り逃亡用のヘリを持ってきてくれたらしい。ヘリに乗れない分の仲間の逃亡用の車もだ。条件は、ミラちゃんとの引き換えだが……しばらくは俺たちと一緒に行動してもらう」
「! そんなのいやよ!」
ミラの声が、鋭く控室に響いた。
彼女のルビー色の瞳が恐怖と怒りで揺れ、思わず一歩後ずさった。
移動。
それは、助けが届く前に彼女がこの場所から遠ざけられ、希望が閉ざされることを意味していた。
これまで子供たちを救うために耐えてきた全てがまるで無意味になるのだ。彼女の小さな拳には爪が食い込んで、小さな三日月形の傷ができていた。
「いやなら、残ってるガキの中から適当に選ぶけど?」
ボスの言葉は冷たく、刃のように鋭かった。彼の目にミラの抵抗など些細なものとしか映っていないようだった。
ミラの息が止まり、ホールに残る子供たちの顔が頭に浮かんだ。
怯えて疲れ果てた瞳――彼女が守ろうとしたその子たちが、再び危険に晒される。
そんな選択を、ミラに受け入れることなどできるはずがなかった。
「……わ、私が行けば、ここにいる子たちは全員解放してもらえるんですか?」
ミラは震えた声で男に聞いた。
「そうだな。邪魔だし置いてく」
「……ヘリは、もう来るんですか?」
「あぁ。あと10分もすればこの学校のヘリポートに着くそうだ」
「それなら、今すぐ全員解放してください」
男は咥えた煙草を噛みながら、ぼりぼりと頭をかく仕草をした。
人質解放の瞬間は隙を与える行為でもある。男にとって、二の次で返事ができるような事ではない。
もう片方の手に握られた携帯電話は固く握られ、ミラの要求を飲むかどうか悩んでいるようだった。
「分かった」
男はそう短く答えると、ミラを連れて1mほどの壇上からダンッと重い音を響かせながら降りた。
「おい、金髪の女の子たちを俺の方に連れてこい」
ミラをすぐそばに連れ添わせながら、ボスは人質の中から金髪の女生徒の頭に紙袋を被せ始めた。
そして紙袋を被せられた女生徒は仲間の男に押し付けて、ボスは次々と指示をする。
「こいつはお前らの逃走用の車に乗せろ、こっちのガキは校門のやつらだ。……あ! ガキは途中で適当に捨てろ! 悪戯したいやつは……ほどほどに。殺すなよ」
ミラはその時初めて、残された子供たちの中に金髪の女生徒が多いことに気が付いた。
ミラの今日のワンピースはウェストメイン・スクールの制服によく似た新緑色のワンピースだ。
制服姿の生徒とミラが隣同士で並んでいれば、パッと見ただけではほぼ同じ人物に見える。
そこに金髪という特徴が合わされば、他の女生徒とミラとを即座に見分けることは難しいだろう。
(――逃げる時間を稼ぐための囮に使うつもりなんだ!)
誘拐犯たちは、最初、姉のジャネットの代わりにミラが学校を訪れることも知らなかったはずだ。
だというのに、いつからこんなずる賢くて恐ろしい計画を立てていたのだろうかと思うとミラは悪寒が止まらなかった。
人質の生徒たちは10時間以上飲まず食わずが続いており、みんな顔に疲れが浮かんでいて今にも倒れそうだ。
囮にされそうになっている子供たちも最後の力を振り絞って抵抗しようと必死だった。
(私ががんばったせいでこの子たちが酷い目に合うの……?)
その思いがミラの心を切り裂く音が聞こえた気がした。
彼女が子供たちを解放させようと必死に耐えてきたことが、逆に別の子を危険に晒している。
ミラの純粋な願いが誘拐犯の冷酷な策略に利用されている現実が、彼女の小さな胸を締め付けた。
ルビー色の瞳が涙で揺れる。
爪が掌に食い込み、小さな三日月形の傷がさらに深くなった。
だがその時だった。
「おい! お前どこにいたんだ!」と誘拐犯の1人が怒声を上げ、みんながみんな一斉に声がした方に振り向いた。