薄暗い廊下に立ったミラは震える手でスカートの裾をぎゅっと握りしめ、懸命に笑顔を作ろうとしている。
だがその瞳は怯えに濡れ、今にも涙がこぼれそうだった。
(気付かれちゃだめ、気付かれちゃだめ、がんばれ私、がんばれ私)
心の中でそう必死に唱えながら、ミラはさらに声を張り上げる。
「ほら、私を捕まえたいんでしょ!? こっちこっち〜☆ ごきげんよう~☆」
「ふふ……かわいいじゃねぇか」
男はじわじわとミラへ歩を進めながら、足元へ目を落とす。
そこには、不自然に張られた一本のロープが微かに照らされていた。
(ガキらしいお粗末な罠だな)
男は鼻で嘲笑を漏らした。
目の前の罠は、いかにも子どもが考えそうな稚拙な仕掛けだ。足を引っかけて転倒させ、その隙に逃げようというのだろう。
そんなものに引っかかるほど、自分は甘くない――男はわざと罠に気づいていないふりをしてやることにした。
「お嬢ちゃんの正義のヒーローは、どこ行っちまったんだい?」
「お、お兄ちゃんなら逃げちゃったわよ!」
「へぇ、どこに?」
「わ、私より先に! 廊下のずーっと奥に走っていったの!」
ミラは必死に、まるで舞台に立つ子役のように大きな声ではっきり答える。
そしてミラはそのまま誘うように走るようなそぶりを見せた。
「私も逃げるわ! す、すたこらさっさと!」
(どうせこの扉の向こうにさっきの軍人のガキがいるんだろう)
男の顔には薄くて歪んだ笑みが広がっていた。
(ロープに引っかかったふりをして油断した隙に、バン! だ。盾替わりにくらい使ってやるか)
わざと足音を立てながら男はミラを追いかけるふりをする。
「そうかそうか可哀想に――。おじさんが一緒にいてあげよう」
その言葉が終わると同時だった。
――ガシャンッ!
男の頭上から、複数のガラス瓶が音を立てて落ちてきた。
直撃を受けた男は「ぐあっ!!」と叫び声を上げるが、額と肩口には液体が容赦なくはじけ飛んだ。
次の瞬間、皮膚と目に触れた薬品が反応し、焼けるような痛みが襲いかかった。
「う、うあああああっ!! な、なにしやがったテメエ!!」
銃を握ったまま暴れるが、視界はブレており、狙いなど定まるはずもない。
その隙に――天井裏からその様子を窺っていたマイロが、静かに息を詰め、そして動いた。
「う、うわあああ! い、いでぇ! 目が! あああああ皮膚が痛い!!!! あああああああ!! 熱い!!!!!!!!!!!」
「引っ掛かりやがって! 現像液と薬剤直撃はクソ痛ぇだろ! 強アルカリ性だ!」
細長い教室の天井には、15歳の少年が身を潜めるにはちょうどいい出っ張りがあった。
写真部時代に暇なときに遊んだ経験を思い出しつつ、マイロはロッカー経由で天井に登り、ちょうど男が真下に来たタイミングで、瓶を放ったのだ。
現像液は見事命中し、男は目を押さえて叫んでいる。おそらく、薬液が目に入ったのだろう。
「い、痛そう……」
離れた場所からその様子を見ていたミラが、恐る恐るつぶやく。
「あんまり見るな!」
暗がりとはいえグロテスクな光景だ。マイロはすかさず声を張り上げる。
男がよろよろと廊下へ出たのを見計らって、ミラは教室の中へ駆け込んだ。
「隠れてろって言ったのに『責任取るわ!』って言って、あんな行動を取るとは……」
マイロは呆れ混じりに吐き捨てながら、脳裏に浮かんださっきの光景を思い出す。
ミラが責任感を発揮して、自主的に「こっちこっち〜☆」と笑顔で男を挑発しはじめた瞬間、マイロは本気で飛び出して止めに入ろうとしたのだ。マイロは生きた心地がしなかった。
「お転婆も勘弁してくれよ」
しかし、マイロが呟いた次の瞬間――
「カレンと! おじさんの仇よっ!!」
ミラは、床でのたうつ男とすれ違う一瞬を狙って、ためらいなくその頭をキックした。
小さな足で渾身の一撃。
パシンッ! という乾いた音が鳴る。
「クソボケェ! やってる場合か!」
マイロは冷や汗交じりに怒鳴りながら教室の扉を閉めて男を追い出したが、ミラも負けじと言い返した。
「だってやり返さないと気が済まないんですもの!!!!」
「クソガキが! 俺の夢の高校生活をぶち壊すな!」
「え! こ、高校生なんですか!? どこ高!? 何年生!? 部活は!? 大学はどこへ!?」
「なんでお前そんなテンション高いんだ!?」
マイロは教室をしっかり施錠すると、小型の懐中電灯で分厚いカーテンを照らし、そのままカーテンを引いた。
「……えぇ!? 窓がある!」
真っ暗闇の教室のせいで、ミラはここが窓のない個室だと思い込んでいたため大声をあげる。
埃っぽい部屋だったが、窓から差し込んだ街灯の明かりがまるでダイヤモンドダストのように埃を照らしていた。
「ここ写真部だから普段は締め切ってるんだ」
「写真部? 写真部なんですかここ」
「うん。ここ、俺の元部室」
「写真部!!??」
ミラはまるで魔法の言葉を聞いたかのように目を見開き、テンションが爆発した。
「写真部って人気ないから、理科室の準備室のさらに奥に追いやられてんだよね……」
(し、写真家の彼氏……!? そんなの、素敵すぎるじゃない!!)
マイロのぼやきを聞きながら、ミラの胸の内ではぐるぐると思考が巡る。
鼓動は加速し、心の中はまるで祝砲の嵐だった。
(なにかに真剣な人って、それだけでもうかっこいいのに、写真だなんて……!)
ミラの頬は見る見るうちに赤く染まっていく。
(カメラを構えて、静かにシャッターを切る姿とか、レンズ越しに物を見る視線とか、写真を現像する姿が似合う男の子って、何それ~! 最高じゃない!?)
ミラの妄想は留まる事を知らなかった。
(もしマイロさんが撮った写真展とか開かれたら、私絶対ドレスアップして観に行くし、感想ノートに「最高に美しかったです♡」って書くし、他の女の子が褒めてたら地味に嫉妬するし、でも「やっぱりあの人の隣に立つのは私じゃなきゃ」って自信持って言えるようになりたいし……!)
もう勝手に未来を何歩も進んでいた。
(あぁっ、なんでカメラを構えてる姿を想像するだけでこんなにキュンとくるの!? 今すぐ見たい、いや、むしろモデルになりたい。白いドレスとか着て、ひまわり畑で笑ってるとことか撮ってほしい! それでそのまま教会に走って……!)
「――おい、おーい」
「あ、はい!」
ミラは顔をぱっと上げ、思わず背筋を正す。
「……お前、お嬢様かなんか知らねぇけど、俺の言うことはちゃんと守れよ。マジで死ぬぞ」
「はいっ!」
勢いよく答えるミラに、マイロは小さくため息をついた。
「返事だけはいいんだけどな……」
ぼやきながら、マイロは古びた窓の鍵をガチャリと回す。
久しく開けられていなかった窓は少しさびついていたが、マイロの手でゆっくりと押し開かれていく。
「ここから降りるから」
その言葉を聞いた瞬間、ミラの目が見開かれた。
「え!? ここ4階ですよね!?」
「降りるって言っても、すぐ真下は渡り廊下だ。ゆっくり降りるし大丈夫。そこまで高くないし。男がこっちに来られないうちに降りて逃げる」
マイロはこともなげに答える。
(……まぁ、部室から直接下りたことはさすがに一度もないけど)
「こんな高いところから降りるなんて怖いし……スカートがめくれちゃいます……」
「大丈夫。抱っこして降りるから」
「……っ!? だ、だっこ!?」
ミラの脳内に再び鐘が鳴る。テンションがジェットコースターのように急上昇していくのを、マイロは横目で見ながら内心げんなりしていた。
(……この子、テンションの上下が激しすぎるんだよな……。そういう病気なんじゃ)
マイロは小さくため息をつきながら、窓越しに外の様子を確認した。
街灯に照らされた校庭には、警察と軍関係者たちが走り回っている姿が見える。彼らの無線が、ところどころで微かに響いていた。