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第16話 絶対に、手を離すな 1/4

(どうする? どこに逃げる!?)


 マイロは息を切らしながら、薄暗い廊下を駆け抜けていた。

 全身から噴き出す汗が重く湿った空気と混ざり、シャツの襟元を皮膚に張りつける。

 背後からは、床板を踏みしめる男の足音と不気味な声がじわじわと近づいてくる。


(また旧校舎に戻るか!? でも、渡り廊下は3階にしかないし……!)


「はぁっ、はぁっ……! はぁっ……!」


 隣を走るミラの呼吸も荒い。

 必死に食らいついてくるが足元は危うく、時おりつまずきそうになりながらも、マイロの袖を必死に握って離さなかった。


(くそ、西階段まで走っても、この子の足が遅いから追いつかれる!)


 選択肢がどんどん削られていく。脳の奥で焦りが火花のようにはじけるそのときだった。


 ガシャーン! 


 鋭く響くガラスの割れる音と、直後に炸裂した銃声が、静まり返った廊下を切り裂いた。


「きゃあああ!」


 窓ガラスが銃弾によって砕かれ、破片が辺りに飛び散る。

 幸い2人に怪我はなかったがミラはその音に完全に怯えてしまった。

 両耳をふさぎ、身を縮こめ、その場にしゃがみ込む。

 マイロはすぐさま振り返り、しゃがんだまま動けなくなったミラの肩を掴んだ。

 今にも泣き出しそうなミラの頬が引きつり、小刻みに震えている。だが、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。


(……そうだ!)


 マイロの脳裏に、旧校舎と新校舎の構図が思い浮かんだ。

 奇策といえば奇策だし、これを幼い子に強要するのは少し気が引けるが、


 (命優先! )


 マイロはしゃがんだミラの体をひょいと抱え上げた。まるで担架で運ぶような無骨な持ち方だった。


「きゃああっ!? ちょ、ちょっと!? そんな持ち方、だめです、だめですっ! スカートが、スカートが……!」


 ミラの顔がみるみる赤くなる。スカートが捲れ上がりそうになるのを、必死で押さえながら抗議の声をあげた。


「うるせえお姫様でもないんだからパンツくらい恥ずかしがるな!」


 マイロは半ば切れ気味に叫ぶと、ミラの「えぇー!?」という声を無視して、そのまま脇にあった古びた教室の扉を蹴り開けて、勢いよく中へと飛び込んだ。


 *


「……どーこだ」


 ウナギの寝床のように細長い教室に、ジャリッ、と靴底が床を擦る音が響いた。

 室内は一段と埃っぽく、カビのような酸っぱい匂いが鼻をつく。壁際に積まれた器具や棚はうっすらと白く曇り、時間の経過を物語っている。


 男は無造作に手を伸ばして、入り口横のスイッチを探り当てた。

 パチンと押す。

 だが、照明はつかない。

 通電されていないことに男は舌打ちし、不機嫌そうに周囲を見回した。


「狭いし、くっせぇ部屋だな。掃除してんのかよ」


 足元の紙くずや道具をイラついたように蹴飛ばし、乱暴に扉を閉めると、男は奥へ向かって叫ぶ。


「おーい、この部屋に逃げたのは分かってるんだ!」


 声が埃っぽい空気に溶け、壁に反響する。

 男はじりじりと足を進め、教室の奥に見えた分厚いカーテンへと手を伸ばした。

 ためらうことなく一気に引きはがす。――しかし、そこには誰もいなかった。


 代わりに目に入ったのは、台所用の流し台と、積み重ねられたプラスチック製の深型トレー。

 まるで調理実習室の片隅のような簡素な空間だ。

 ――気味の悪い場所だな。

 男は心の中でそう思うと、咳き込んでから話した。


「……お嬢ちゃん、一緒にヘリに乗って世界旅行に行こうか? なぁに、酷いことはしないよ」


 男の口調はぞっとするほど穏やかだったが、人間を『物』として扱う冷たい響きが声にこびりついていた。


「お前は姉貴とは違って君のママのお気に入りだろ? だったら――搾り取れるだけ搾り取ってから、ちゃんと返してやるさ」


 言葉の終わりと同時に、男は手に取ったプラスチックのトレーをわざと派手に床へ叩きつけた。

 ガシャン! という音が、ひんやりとした静寂を切り裂くように教室に響き渡る。


「ひっ!」


 その音に怯えた誰かの気配が、空気のひだにわずかに揺れたのを、男は見逃さなかった。


 ――どこかにいる。隠れている。


 男はにやりと笑い、わざと重い足音を響かせながら教室の奥へと歩を進める。

 その手にはピストル。迷いのない殺意が、ゆっくりと距離を詰めていく。


 そのときだった。


「うっ!」


 白く瞬くフラッシュ――自動モードでシャッターを切られたカメラが男を真っ白に照らした。

 男は思わず手で自分の目を覆ったが、すぐに鼻で笑って見せる。


「フラッシュ攻撃ィ! ……のつもりか? 何度も同じ手には引っかからねぇ」


 男は怒りと嘲笑を込めてカメラを叩き落とし、容赦なく踏みつけた。


「今ので確信したァ。閃光手榴弾はもう弾切れ、ってことだな? 目くらましして逃げるつもりだったんだろうが――まぁ、軍用ベストにそんないくつも備品は入んねぇよな!」


 わざとらしく、カチャリと銃のスライドを動かす音が鳴る。

 その冷たい金属音がマイロの鼓膜をぞわりと揺らした。


「こっちよ!!」


 しかし、声が予想外の方向から響いた。

 男が目を向けると、そこには教室の奥へと逃げたはずのミラが仁王立ちで立っている。

 ふん、と鼻息を荒げながらミラは必死に悪口をまくし立てた。


「髭のおじさま! や、やーい! やーい! おばか! おたんこおなす! ……汚いおひげ!」

「おや、まぁ」


 肉食獣のような目つきが、小動物のように震えるミラを捉える。

 ミラの足は震え、声もわずかに裏返っていたが、それでも必死に挑発を続けていた。10歳なりの語彙を総動員して、男の注意を自分に引きつけようとしている。


「お嬢さん、そっちにいたのかぁ」


 男の口元に、ぞっとするほど薄い笑みが浮かぶ。手に持ったピストルの銃口の向きをゆっくりと変えながら、ミラの方へと体を向けた。

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