「ケイ! ヤバいよ!」
海岸を見た日の翌日。海に一番近い町の宿屋で迎えた朝のことだった。
別室で泊まっていたバクが、私が寝ていた部屋の扉を叩く。
「おはよう、バク。どうしたのですか」
「海辺で助けた生き物に意識が戻ったんだ!」
「そうでしたか。それは何が“ヤバい”のでしょう」
「いや、それが……!」
意識が戻る。めでたいことなのでは? そうとしか思わなかった。
部屋の扉の前でバクは要領の得ないことを言っているが、表情は暗くない。悪い報告があるというわけではなさそうである。
続きを聞こうとすると、バクの足元にひょこっと、白と黒の体色のずんぐりとした小さな生き物が現れた。
鳥のような形状の黒い頭部と、白い腹部、ヒレのような両腕。まぎれもなく砂浜でバクと私が助けた生き物である。パッチリと開けられた目と、人のように背筋を伸ばした立ち方。一目見て回復具合のよさがわかる。
ひとまず意識が戻ってよかったと素直に思った私は、声をかけようとした。
が――。
「お嬢さんよ。回復魔法とやらをかけてくれたのはお前らしいな? 礼を言いに来てやったぞ」
「なんと。言葉を話せるのですか」
くちばしからやや甲高く発せられた言葉に、私は驚いた。
かなり訛りはあったものの、はっきりと理解できる言葉を発していたのだ。
「そうなんだよ、ケイ。この生き物、しゃべるんだ」
バクはまだ興奮したような、それでいて面白いような、そんな顔をしている。
「ただ、気絶してたせいなのかわからないけど、記憶が飛んでるらしいよ」
「あら、そうなのですね?」
「そうなのだ。どんな経緯で余が砂浜に打ち上げられていたのかは思い出せぬ」
その生き物は、首をかしげるような動きを見せてそう言うと、今度は一度ピョンと小さくその場で跳ねた。
そして張っている胸をさらに誇らしげに反らせながら、続けた。
「だが、自分が何者だったのかは覚えているぞ……人間であり、皇帝だ」
今度は私が首をかしげてしまった。
どういうこと? である。
「それさあ、さっきも言ってたけど。本当なの?」
「本当だ!」
「でもどこの国の皇帝かは覚えてないんでしょ。海のずっと向こうにあるという大陸なの?」
「記憶はないが、砂浜に倒れていたのであればおそらくそうだ。まあ、言葉を覚えているくらいだからそのうち思い出すだろう。期待して待っておれ」
バクが苦笑を私のほうに向けてくる。
割となんでも信じそうなバクですらも、あまり信じていないようである。これは仕方ない。
海の向こうには鳥人族の国でもあるのか――。
そう思いながら、立ち話もなんなのでということで、私は二人を部屋の中に引き入れた。
「でも意外だよなあ。俺の腰くらいまでしかないようなこんなちっちゃい生き物が言葉を使えるなんて。見かけによらないってやつ?」
背もたれを前に向けて椅子に座っているバクが、笑う。
それを受け、勧めた椅子の上で直立していた自称皇帝は、ピョンと飛び降りた。
「少年。お前は濁りのないよい目をしているが、礼には欠いているようだな。民の気持ちを汲むにも、民を動かすにも、言葉がなければ絶対にかなわぬ。すべてを司る皇帝にとって言葉は最も大切なものと言ってもよい。余が使えぬわけがないだろう」
言い終わると、くちばしで勢いよくバクのわき腹を数度つついた。
「あっ、いてて……あ、うん。それは失礼しました、かな? ごめんごめん」
「ふむ。少年、素直でよいぞ。まあ、お前たちは命の恩人だと認めてやっているから、この程度の無礼は許そうではないか」
「あはは。なんかすごい偉そう」
「偉いからな。皇帝だぞ」
「いてて」
またバクを一度くちばしでつつくと、自称皇帝の小さな生き物は、ベッドに座っていた私の前に移動した。
「お嬢さんよ、あらためて礼を言う。おかげで助かった」
偉そうな態度とは裏腹に、その生き物は体を前に倒し、きちんと頭を下げてきた。
どの部分が股関節や腰になっているのか、丸い体のせいでよくわからない。が、ヒレのような手が少し開いたままのそのお辞儀は、一段と愛嬌のある姿のように見えた。
態度は大きい。ただ、この感じであればきっと何を言っても他者を苛立たせることはないに違いない。
私は膝をついた。目線を低くし、この小さな生物へ「どういたしまして」と礼を返す。
そこでバクがやや吹き出しながら指摘を入れた。
「あはは。ケイはお嬢さんじゃなくてお兄さんだよ」
「なんと!? そう言われれば背が高いな。体は一見細く見えるが……いや、よく見ると割としっかりしてそうだな? なるほど男性なのか。てっきり女性かと勘違いしたぞ。顔があまりにも整いすぎている」
「でしょー? ケイはすごいんだよ!」
「なぜお前が誇らしげなのだ」
「いてっ」
くちばし攻撃はそこそこ痛い模様だ。
「でさ、ケイ。これから世話していくなら、何か呼び方を考えないといけないんだけど――いてっ」
「無礼者!」
「えー、無礼なの?」
「当り前だ。考える必要などない。皇帝だから陛下と呼ぶがよい」
「またまたー。冗談きついよ」
バクが笑いながら、肩をすくめてケイを見た。
「まあ、ヘイカくんって呼ぶのはこの国ではさすがにまずいでしょうね」
「ケイと言ったな。そなたも失敬であるぞ。余は女である」
「女帝だったのですか? それは失礼しました」
「え、それも冗談だよね?」
「冗談なわけがなかろう」
「いてっ」
バクが今度はお尻を押さえている。
「この国にはすでに皇帝陛下がいらっしゃいます。皇帝呼ばわりさせていると、呼ぶ私たちだけでなく、呼ばせるあなたも捕縛されて斬首または火あぶりになる可能性が高いと思います。危険ですよ」
そう諭すと、さすがに陛下呼ばわりさせるのはあきらめたのか、自称皇帝の首が垂れた。
「むむむ……無念だ」
「名前で呼ばせてください。覚えていらっしゃいますか」
バクが「あ、それ聞いてなかった」と黒髪を掻いている。
「名前はあったはずなのだが、やはり覚えていないのだ」
「では適当に仮名で名乗っていただくことにしますか。殺されるよりはマシだと思いますので」
「まあ、たしかにマシだな。何か適当な名前を考えなければ」
虚空を見る自称皇帝。
そしてなぜか、羽というよりは魚のヒレに近いような形状の手をパタパタさせながら、最初に座っていた椅子の周りをくるくると回り始める。
あらためてその姿を見ると、砂浜で見たときと同じような、何やら懐かしい感覚に包まれた。
「……ペンギン」
自分の口からそう漏れたことに、自分でも気づかなかった。
自称皇帝の動きがピタッと止まり、「なんだそれは」と言って私をじっと見つめたことで、やっと気づいた。
そしてもう一つ、気づいた。
私はおそらく、この自称皇帝の姿の動物を知っている。いや、知っていたのだろう。
今この世界にこのような形状の知的生物は存在しない可能性が濃厚なのであれば、おそらく現世ではない。前世だ。
子供のころ以来の、前世のものと思われる記憶のよみがえりだった。
鮮明ではなく、かつ断片的であることが何よりもの幸いだと思う。もしも鮮明で何もかもを覚えていたならば、今の自分はいったい誰なのかと悩むことになっていたかもしれない。
「あなたの名前、それでどうですか」
「ペンギン、か。悪くない。それに何やら、余の今の姿に非常にしっくりくる気がする。だがなぜその名前なのだ。何か意味のある言葉なのか」
「思い付きです。頭に浮かんできました」
一応嘘ではないその回答に、何やら感心したようにフムフムとうなずく自称皇帝。
そして「ペンギンペンギン」と面白そうに復唱するバク。
結局、本人が名前を思い出すまではペンギンと呼ぶ――。
呼び名問題については、それでいったん解決となった。