宿屋一階の小さな酒場には旅人や町人が数名おり、バクの姿を見ると驚くとともに、英雄様に偶然出会えた幸運を喜んでいた。
そしてペンギンについては、たちまちチヤホヤされることに。
「見たことのない動物だが。これはまた可愛らしい」
「英雄様ともなれば愛玩動物もまた一味違いますな」
「どこに生息している生き物、いや種族ですかな? 異種族の地ですか? それとももしや、はるか南の未踏の地ですか?」
やはりこの見かけでは、尊大な態度も愛くるしさを増す要素にしかならないらしい。声をかけられるだけでなく、頭を撫でられ、全身を触られていた。
「なんだあの無礼者たちは!」
「あはは。めちゃくちゃいじられてて面白かった」
宿を出て石畳の道を歩き始めてからも不満を垂れ流す自称皇帝に対し、バクは面白がって笑っていた。
が――。
「でもさ。かまってもらえるって、ありがたいことだよね」
やや意外に思う発言をしたので、私は思わず手元の地図から彼のほうに目を移してしまった。
笑顔のままだ。
バクも王都を出発してからここまで、どこかに寄ると誰かに気づかれ囲まれてしまうことが多かった。そのおかげですぐに移動できないこともあった。
思えば、そのときに彼が嫌な顔をしているのは一度も見ていない。話しかけられたら決して無視はしないし、丁寧に答えていた。
内心はどうだろう? という穿った見方も私はしていたものだが、今の彼の言葉が嘘だとは思えない。ポロッと出た本音、というような調子の声と言葉だった。
「ありがたくはない!」
「いてっ」
お尻をくちばしでつつかれて、バクが慌てて「ごめんごめん」と笑いながら謝ったときだった。
「バク殿」
午前の日差しで温まりつつあった石畳と空気にはひどく不釣り合いな、冷たい声。
前を見ると、数名を引き連れた長身の人間が、立派な外套のフードをゆっくりと外した。
くすんだ金髪をすべて後方へ流した、やや剃り込みの深い壮年男性の顔が現れる。
「あれ? 宮廷賢者さんたち? なんでここに?」
バクはもちろん、私もこの人物が誰なのかは知っている。城で知らぬ者はいないだろう。
皇帝に仕えている学者――宮廷賢者の筆頭である人物。他の者たちも宮廷賢者たちだ。全員の顔と名前を覚えている。
「所用がございましてな……。バク殿こそ、このようなところになんの用ですかな」
「はい。ちょっと海を見に」
私の目には、この筆頭宮廷賢者の白髪混じりの眉がピクリと動いたように見えた。
「あなたはこれからも帝国軍の先頭に立って敵と戦わねばなりません。一般人のようにふらふらと観光なさるのはいただけませんな。どんな危険が潜んでいるかわかりませんぞ。宰相や将軍にお許しをいただいたのですか」
「あ、二人にはそこまで言ってないや」
次の戦までは一応まだ日が空くって聞いてるけど、とバクが黒髪を掻く。
すると、冷たい目は私にも向けられた。
「お前は召使だろう。バク殿をお止めするべきではなかったのか」
「大変申し訳ありません。今回の外出につきましてはバク様ではなく私――」
「あっ! 俺さ、もう何年も海を見てないから、久しぶりにって思って! 俺が無理に誘ったんです! 今後は気をつけます! ごめんなさい!」
私の言葉は、バクの慌てた大声で上書きされた。
帰りの馬車に乗った。
「なぜ自分の都合で来たことに?」
のどかな草原の景色の中、三人で揺られ始めると、バクにそう聞いた。
なんとなく理由はわかるが念のためである。
「だってさ。さっきケイ、正直に言おうとしてたよね。そんなことしたら召使をクビになっちゃうかもしれないし」
「お気遣いありがとうございます」
「お、やった! ほめられた」
「……」
おそらく、客観的には、私はバクのおかげで助かった可能性が高いのだと思う。
一介の召使にすぎない私が、国の英雄を私的な旅行に付き添わせる。本来あってはならぬことで、さすがに責任を追求されるのは避けられないだろう。
だがしかし、である。
「私はありがたいのですが、代わりにあなたが処分されるようなことがあると全人間族が困るのでは」
「うーん、それは大丈夫だと思うんだけどなあ」
先ほどのバクの演技は下手すぎる。まだ子供ということを差し引いても酷かった。
私は、それ自体には好感を持った。
私に限らず、おそらく狼人族は人間族よりも本能的に嘘や偽りに嫌悪感を抱きやすい。密偵という活動に私が違和感を覚える理由の一つでもある。それが族長の指示、かつ仕事であればやむをえないし、見抜かれないようにやる自信も覚悟もあるつもりだが、好きかと言われれば断じてそうではない。
演技が上手な人、下手な人、どちらが信用できるかと聞かれたら当然後者と答える。
「ん? どうしたの? やっぱりまずかった? 」
「いえ。なんでもありません」
「あれ? なんか今、ちょっと笑った?」
そう言われて初めて、今自分が笑っていたことに気づいた。
「ケイっていつもだいたい柔らかい顔してるよね? いつもほんの少しだけ笑ってるような……ええと微笑っていうのかな? そういうの。でも、今のはもっとわかりやすい感じだったというか、フッっと笑ったような! うん。本当に笑ったというか……ああ、でもそういう言い方するといつも本当に笑ってないみたいな感じになっちゃうか。えーっと――」
「ごめんなさい。悪い意味で笑ったわけではありませんので気になさらず」
「いや、今のいいかも!」
また彼は頭の中で思ったことを吟味せずにそのまま口から垂れ流しているのだな、と半分呆れつつも、向けられる素直な言葉と瞳はやはり不思議と心地よく感じる。
「ただ、以後は無理にかばわなくて結構ですよ。どうもあなたはごまかしたり嘘をついたりすることが下手なようですので、かなり危なっかしいです」
バクが黒い髪を掻きながら苦笑いすると、今度はペンギンが座席からピョンと馬車の床に降りた。
くちばしで彼のわき腹をつつく。
「いてて。どうしたの?」
「わかりづらいぞ」
「えっ。何が?」
「お前の立ち位置のことだ。お前とさっきの無礼中の無礼者とでは、どちらのほうが上の地位にいるのだ?」
無礼中の無礼者――これは先ほど遭遇して会話をした相手、筆頭宮廷賢者のことを指している。
その呼び方からして、別れ際に「問題なければその見覚えのない生物を我々に引き渡してくださいますか。解剖してみたいのです」という申し出があったことを、ペンギンはまだ根に持っているようだ。
なお、引き連れていた宮廷賢者の一人とバクが反対してくれなかったら、本当に解剖されていた可能性が高いと私は思っている。
「どうなんだろ? 考えたことないな」
「今考えて答えを教えろ」
「えー? そんなのわかんないって」
いちおう助けることにした。
「『
「それは宿にいた人間が言っていたので知っている。筆頭宮廷賢者とやらとどちらが格上なのだ」
「あちらは文人でありバクは軍人ですから、そもそも比較するものではないのかもしれません……が、私が聞いた限りではバクのほうが上です。格という点では、バクは遠征軍を統べる将軍と同じか、それ以上であると教わっています」
「そうは見えなかったぞ。なぜバクはペコペコ謝っていたのだ」
これはごもっともな疑問だった。
「だって俺、まだ十五歳だよ?」
「年齢など関係ない。時の流れは速いぞ。特に十代などは一瞬で過ぎる。大人になっても格下相手にさっきと同じような態度で接するのか?」
「そんなのそのときになってみないとわからないよ」
またバクが困っている。本当に考えたことなどないのだろう。
「それにさ、表向きはケイの言うとおり将軍と同格扱いってことになってるけど、戦いでは普通の隊長と同じで小隊を一つ任されているだけで、将軍の指揮で動いてるだけからね」
「なんだと? 将軍と同格かそれ以上なのに軍全体を指揮しているわけではないのか。お前のその立派な剣は見せかけだけのものか」
「誰も台座から抜けなかった伝説の剣。バクだけが抜くことができたと聞いていますよ」
「あ、抜けたのは事実だよ。抜けたのは」
「怪しいぞ。事前に細工してあったのではないか?」
「うーん。俺は特にそういうのがあったってのは聞いてないよ。陛下から称号をもらったあと、宰相から挑戦してみてくれと言われて、やってみたら抜けたんだよね。でも手をかけたときにちょっとグラグラしてたような気はするなあ」
「そんなに素直に答えるのはよろしくないのではないでしょうか? バク。帝国民が知ったら不安になる話だと思いますが」
「あ、そうか。そうだね」
バクが黒髪を掻いて苦笑いすると、ペンギンの肩がやや上下した。どうやらため息をついたようだ。
「お前案外アホなのだな……心配になるぞ」
「あはは。それはまだ聞かれたことがなかったから誰にも言ってなかったし、これからは気をつけるからたぶん大丈夫!」
「それならいいが。いきなりとんでもない秘密を共有することになったこちらの身にもなれ。まあ、余は……ではなかった、わたしは口は堅い。安心しておけ。誰にも言わん」
「くちばしだから、たしかにカチカチだよね」
「うるさい」
「いてて」
一人称が『余』はまずいということで『わたし』を使い始めたペンギンに、バクは脇腹をつつかれている。
ただ、彼の立ち位置がわかりづらいというのは、まったくもってそのとおりなのかもしれない。