海から帰ってきて。
あらためて、族長への報告を済ませ。
ふたたびあった宮廷賢者側からのペンギン解剖依頼も、なんとか回避することができ。
ついに私は、遠征軍に同行することを許された。
今まで私の軍同行については、執事長の了承がなかなか得られなかった。
しかし、いよいよ戦場が遠くなってきている。ようやく彼もあきらめ、許可を出すことを決意したようだ。
人間族の戦場にさほど興味はないという私の狼人族的感情はともかく、密偵としての立場ではおそらく相当にありがたい話。族長へ報告した際には、やはり喜んでいた。
「人間族の軍についてしっかり見ておくとともに、英雄バクの戦いぶりや影響力を確認するように」
そう言われている。
私の目には今のところ、ただの子供にしか見えないバク。しかしここまで武勇が広まり他種族からも存在を認知されているといわれる彼だ。やはり何かはあるのだろう。それを確認できればよい。
また、狼人族は非接触種族に近いため、爬虫人族やオーク族を実際に見たことがある者もほとんどいない。ましてや戦っているところを見たことがある者に至ってはおそらく皆無だろう。
「召使が戦場で剣を振るうというのは前例がありません」
執事長からはそのように言われ、最前線で戦いに参加する許可までは降りていない。
ただ、狼人族である私は“狼態”になることができる。うまく時を見計らって狼の姿で見に行けば、戦いが見られる機会もあるかもしれない。
ところが。
いざ軍に同行してみると、予想していなかった問題に直面することになった。
「ケイ、疲れてない?」
「いえ、疲れてはいませんが……」
「本当? 脚とか痛くない?」
「まったく問題ありません。召使なのになぜか馬が用意されていますので」
「剣、重くない?」
「重くはないです。持てないような剣はそもそも持ちません」
「きついなら荷物は俺が持つよ?」
「きつくはありませんよ」
「怖くない?」
「怖いなら軍に同行しません」
休憩に入って腰を下ろすたびにバクがやってきて、意味の薄い質疑応答。これではたまらない。
一般的な行軍において、回復術師集団は軍の先頭ではなく、やや後ろ側に位置して歩くという説明を受けている。そもそも回復魔法に即効性がなく、使う場所が戦場の後方や前線基地、宿営地などに限られている以上、それは合理的なのであろうと思われた。
私は今回その回復術師集団に交じらせてもらい、ともに行動していた。ただし軍に籍はないため、言ってみれば運搬している荷物と同じような位置づけとなっている。
したがって、先頭集団にいるバクの位置からはだいぶ後方を歩くことになる――と思っていたのだが、なぜか今回は帝都を出た直後からバクの隊が後ろに下がってきて、回復術師の集団に交じっていた。
あたかも回復術師の集団がバクの隊によって護送されているかのようだ。
「専属の回復術師であるあなたがいらっしゃるということで、バク様ご本人からお申し出があったと聞いています」
他の回復術師の話では、やはりバクの仕業のようである。
ちなみに軍が目指すのは爬虫人族の砦に近い拠点であるが、そこまでに通るのは帝国が爬虫人族からすでに奪取して支配下に置いている地だ。
もちろん戦地に比較的近い以上は危険があるのだろうが、いちいち休憩のたびに安否の確認に来るのはいかがなものか。
「あの、お気持ちはうれしいのですが。私は今後も軍に同行するたびにこのような扱いになってしまうのでしょうか」
「いや、今後なんてないよ!? ケイが来るのは今回が最初で最後! 危ないし」
「私は執事長から今後も継続しての参加を許可されています。今のところ私自身は戦うわけではなく、後方の陣地または前線基地にとどまるという約束をさせられましたし、あなたが心配する話ではないはずなのでは」
「ダメ! 何があるかわからないんだから!」
私の軍同行について反対していたバクについては、執事長から説得してもらって最終的に納得したということになっていたはずなのだが、今の彼を見る限りではどうも怪しい。
私自身は最前線に立つことも特に問題なく、むしろ密偵という立場を考えればそのほうが都合がよいくらいだ。慣れたら兵士としても使ってもらえるよう提案をしてみようかとも思っているのだが、バクのこの様子を見ると、そのときはかなり激しく抵抗されるかもしれない。
「ずいぶん召使と仲がいいんだな。バク様は」
そばにいた赤色の短髪でやたら体格のよい男が、豪快に笑った。
バクと同じ隊、つまりバクの部下のうちの一人だ。紹介によれば、名はバロン。年齢は三十二歳で、バクの部下では一番年長で歴も長いとのこと。
彼から見れば、バクは“かなり年下なのに上官”であるということになる。それにも関わらずバクに対して非常に好意的な雰囲気である。
もっとも、それは彼だけではない。これまで見たバクの部隊内の他の人間についても、おおむねバクに対しては温かい目で見ているように思えた。
民間人がバクをどう見ているか。それについては、一応すでに把握はしていた。帝都や海を見に行く途中で寄った町や村で、直接確認する機会がいくらでもあったためだ。
バクは民からやはり英雄様として敬われていたようには思う。ただし畏怖されていたり雲の上の存在だと思われていたりするようなことは一切なかった。まだ子供であるということもよい方向に働いていたのか、尊敬と同時に親しまれ、愛される対象でもあったように思う。行く先々で民から手を振られ、寄ってこられ、そして声援を送られていた。バクもそれに応えていたため、彼がいる場所は空気すら変わっていた。敬愛――おそらくその言葉がふさわしいだろうと思う。
一方、兵士たちはバクをどう思っているのか。そちらについては、私にとって今までずっと謎に包まれていた。
今回、初めて軍に同行して兵士を観察していると、バクと違う部隊の兵士たち――つまりほぼすべての兵士たちは、おおむねバクに対し一般の民と同じような感情を持っているらしいことがわかった。やはり敬して愛する存在のようである。
しかし同じ部隊――つまりバロンのようなバクの部下にあたる者たちになると、また少しそれが違ってくるようだった。やはり距離が近く、さらには生死を共にする関係となると、見る目も若干変化してくるということなのだろう。その違いを表現するのは難しいが、敬愛というよりも友愛に近いのかもしれない。余計な遠慮なども感じられず、バロンのように忌憚のない会話をしている者が多い印象だ。
ただいずれにせよ、バクがほとんどの兵士から好かれているというのは間違いなさそうである。
「まるでバク様はお姫様を連れてきているかのような感じですね」
今度は青髪の若者……というよりも少年が、そんなことを言った。この者もバクの部下である。まだ部下全員をしっかり観察できているわけではないが、見る限りこの少年だけは、バクに対する見方がやや冷めている印象がある。
この少年の名はシン。バクよりは明らかに年上だと思うが、彼も十代だろう。前回の戦からバクが率いる部隊に入ったというように紹介されている。
「しかもずっと気にはなっていましたが、そのふざけた
「異形とはなんだ! 余は……じゃなかった、わたしは人間だ!」
「どう見ても違うでしょう」
私のすぐ横で立ったまま休んでいたペンギンは、当然のことながら、異形と言われ怒っている。
ペンギンもこの見かけゆえ、皆好意的な目で見ているようだが、やはり青髪の少年シンだけはどうも少し違うようである。
ちなみにペンギンに関しては、本来ならば城に置いてくるべきところではあった。
ただ留守中を狙って宮廷賢者側が解剖の要求をしてくる恐れがあったため、やむなく連れてきたものである。執事長に頼めば代わりに拒否してくれることは期待できたものの、あまり迷惑はかけたくない。
「こいつ、見かけと正反対で口が悪いよな。それもまたいいんだけどよ」
バロンがペンギンのとなりにやってきてドスンと座り、笑いながら乱暴にペンギンの頭に大きな手を載せた。
ペンギンはそれも迷惑そうにしているが、おそらく赤髪の大男にはまったく響いていないことだろう。
「僕は感心しませんけどね。味方の拠点までとはいえ、軍に召使やペットがいるなんて。これで負けようものなら帝国民から批判されませんか」
「今回も勝てばいいのさ。勝っているうちは誰も文句言わねえよ」
勝っているうちは。
その言葉が、なぜか頭に反芻する。
そしてこれまたなぜか、自分の視線がバクへと向かっていた。
「ん?」
すぐに目が合ってしまった。
「いえ、なんでもありません」
そっか――とニコっと笑う彼。
どうしてその言葉から反射的に彼を見てしまったのか。
自分でもよくわからないな、と思っていたが、そこで急に思考がさえぎられることになった。
「……!」
一つ、二つ、三つ、いや、もう少しだろうか?
数は多くはないが、回復術師たちが休んでいる窪地の周囲に、気配がしたためだ。
観察されている?
軍の者ではないだろう。人間族か、そうでないかまではまだわからないが、あまり好意的な気配には感じない。
驚くのは、この場にいる兵士たちがそれに気づいていないことだった。
休憩時に周囲を警戒する担当はきちんと決められているが、特に何か反応しているということもない。
ひょっとしたらバクなら――とも一瞬思ったが、彼も明らかに気づいていない。
視覚や聴覚において狼人族は人間族よりもやや鋭敏な傾向があることは知っているが、総合的な気配の察知能力にも差があるのだろうか?
狼人族内でもそのあたりは個人差がある。私はおそらくかなり敏感なほうなので、これだけではなんとも言いようがない。
それよりも、どうするか。
言うべきか、言わざるべきか。
悩む。
だが、事態はさらに動く。
見えた。
左手の小さな崖の上に、日差しを背にした影がいくつか覗いた。
そしてそのうちの一つ、さらのその一部分が、きらりと光る。
おそらく、矢じり。
標的は――。