わざわざ少人数で、この場、このタイミングを狙って射ってくるということは。
標的はおそらくバク。私はそう確信した。
迷っている場合ではなくなった。だが、最低限の配慮を――。
私は近くにあった荷物袋を勢いよく拾い上げた。ちょうど、バクの頭付近までの高さに挙がるような勢いで。
「――!」
袋の中には金属製の小道具なども詰まっている。
不審者の気配は複数であったものの、矢を放ったのは一人だけだったようだ。一つ、高い音が窪地に鳴り響いた。
周辺の兵士が、一斉にこちらを向く。
「えっ!? 矢!? あっ! あそこの上だ!」
バクも状況を理解したようで、そう言って崖の上を指さすと同時に、もう片方の腕でサッと私の体を押さえて無理やりしゃがませ、私とペンギンをかばうような姿勢を取った。
そこまで強い力には感じなかったが、私の膝は折れ、彼の陰にしゃがみ込むことに。
気配に気づかなかったという失点はさておき、さすがに休憩時間であっても兵士たちの動きは速かった。
すぐに応射が始まり、不審者の捜索にも動き出していく。
ただ、私がバクの陰から再度確認したときには、崖上の人影はもう消えていた。距離を考えると追いつくのは難しいかもしれない。
「ケイ! 大丈夫!?」
「はい。大丈夫ですよ」
「ホントに大丈夫!? 実は刺さってたとか、そんなことない?」
「ありません。見てのとおりです。私ではなく、そこの袋に当たっただけです」
「そ、そっか。ならいいけど……なんでここに敵が出たんだろ。もしもケイに当たってたらとんでもないことになってたよ」
これは明確に違う。
私に当たっていた可能性はない。なぜなら矢は明らかにバクを狙っていたからだ。
矢はバクの頸部を正確に捉えようとしていた。袋で防がなければ狙いどおりに命中していた軌道だった。素晴らしいと言ってもよい精度だった。「誰でもよいから当たってくれ」とあてずっぽうで放たれたものではないし、狙えるだけの技量を持つ者が矢を放っていた。間違いない。
そしてさらに、万が一私に当たっていてもとんでもないことにはならないが、バクに当たっていたらこのヴィゼルツ帝国の英雄が今ここで死亡していた可能性が高かったということになる。そうなれば歴史が変わっていたかもしれない。それこそ人間族にとっては『とんでもないこと』だ。
私は密偵であり、本来ここにいるはずの者ではない。むしろ今彼をかばったことが人間族の歴史への干渉である可能性はある。それに、私が暗殺者の気配に気づいていたこと自体も誰も知らない事実であるため、仮にバクを見殺しにしていたとしても誰も私を責めることはできなかっただろう。しかし、“とはいえ……”である。
「なんだ? 何が起きた?」
これはしゃがみこんだ私のすぐ横、ペンギンの声だった。
「何者かが矢を放ったようです。状況を考えると野盗ではないでしょうから、おそらく敵の斥侯か何かでしょうね。すぐに逃げたようですけど」
バクを狙って矢を放ったようですが失敗したようです――とは答えなかった。兵士の誰もが気づかなかった事実をここで私が披露することに利点は感じない。
「なるほど。これだけの規模の行軍だ。動きは敵に把握されていたのだろうな」
このペンギンの言葉には同意だった。
当然のことながら、私は大きな戦に参加した経験がない。密偵として紛れ込んでから城の図書館で軍事の本も読ませてもらってはいるが、そんな知識だけでは軍事において何が普通で何が普通でないのかはわからないだろう。ただ、規模の大きい軍の動きを秘匿するのが難しいということくらいは理解できる。
帝都を出てからどのあたりからだったのかは謎だが、途中からオーク族や爬虫人族の斥侯に常時見張られていたと考えるほうが自然である気はする。
崖上の敵……。
狼人族は他の種族とほとんど交わりがなかったため、私は今まで片手で数えられるほどしか見たことがないが、あれは爬虫人とオークだろう。
矢を放った一人については、爬虫人だ。遠くからでも、見えたのが一瞬だけでも、逆光でも、私にはそう判断できた。体の色は赤みのある茶褐色をしていたと思う。
今の件だけでもわかった。バクは、やはりオーク族や爬虫人族からも“人間族の英雄”として高く評価をされている。
彼さえ始末できれば戦況は大きく変わる――。
そう思っていなければ、このような襲撃はありえないのではないか。
そして一つ、疑問が浮かぶ。
このようにバクを射ることができる機会は過去にもあったのではないか? 今回はたまたま私が気づいて回避できたが、今まではなぜ大丈夫だったのか?
しかしながら、その疑問を解消するための材料は手元にない。
私はいったんそこで考えるのをやめた。この先新しい情報が入ったら、そのときに考えればよい。
そう思って立ち上がろうとしたが……。
「バク、これでは動けませんが」
しゃがみこんだ私の体を、バクが貼り付くように覆っている。立ち上がれない。
「今、他の兵士さんが追ってるから。もうちょっとこのままで。矢がまた来て当たるかもしれないし」
「私をかばって英雄様のあなたが射られたら、私は処刑されるのでは?」
「それはダメ!」
「でもかばわないと、絶世の美女と密かに評判の召使に当たっちまうかもしれねえもんなあ」
「それもダメ! あとケイは男!」
「あれもダメこれもダメ。選択肢が狭くて大変だな。救国の英雄様は」
バクの部下・バロンがなぜか話に入ってきている。体格同様の豪快な笑い付きであるため、からかい半分と言ったところだろう。この状況で冗談。兵士である以上これくらいの胆力は必要ということか。
普段から「ダメ」をまあまあよく言う印象のあるバク。否定の言葉を多用する者を好む種族はこの世に存在しないと思うのだが、彼の場合ダメはダメでもいつも優しいダメであるので、不思議と嫌悪感は抱かない。
「俺は全部守るよ。俺も生き残るし、ケイも守るし、ペンギンも守るし、隊のみんなも守る。帝国民を全員守りたい」
「それがハッタリじゃないことを祈るぜ」
また赤い短髪のバロンが茶化しているが、声の調子から悪意は感じない。
「今はハッタリかも。でも言い続けていれば、いつかは本当のことになる気がするんだ」
そのバクの言葉を評価したのは、私と一緒にバクに抱え込まれていたままのペンギンだった。
「それは大事なことだ。言い続けている言葉はいつか叶う。その姿勢と気持ちは大切にしろ」
「いてて。あ、うん。そうだね」
ペンギンがバクのすねをつついている。
「で、私はいつごろ解放されるのでしょうか?」
「まだダメ!」
まあ、構わないか――。
この体勢では矢が飛んできてもバクをかばえないが、もう射ってきた爬虫人とオークはこの場を離れているだろう。
やはり予想は当たった。矢は飛んでこず。
そして、追いかけた兵士も不審者を見つけられず。もう遠くまで離れてしまったのであろうと思われた。
「ケイ、もう大丈夫だよ!」
やっと解放された私が見回すと、近くの兵士たちは多くが笑いながらこちらを見ていた。やはりバクが私とペンギンを抱え込んでいる様はおおげさすぎるように見えたのだろう。それを受け、バクが照れ笑いをしていた。
ただ、ほんのわずかながら、割と真面目な視線も感じた。
「この矢じりの形は爬虫人のものだ。爬虫人にしてもオークにしても僕たち人間ほど器用じゃないので、弓は粗悪品だし、使い方も下手だよ。あの距離から正確に狙うのはこちらの弓兵でも難しいくらいだろうから、まあ、ほぼ当たらないものと見ていい。一射で当たった召使さんの荷物袋さんはよっぽど運が悪かったんじゃないかな」
――!?
そのわずかな真面目な視線の原因が、バクの部下である青髪の少年・シンであった、ということはおいておくとして。
彼の言葉に驚いた。
爬虫人もオークも本当にそうなのであれば、バクを正確に狙ったものであろう今の矢はどういうことなのか。
わからない。
爬虫人の斥侯と思われる不審者から、矢が放たれた――。
その情報はすぐに将軍のもとまで伝わった。軍は休憩を切り上げ、行軍を再開させることになった。
私に関してはバクから指示があり、私が馬で歩いているすぐ左側――矢が飛んできた側――の隣には、馬に乗ったバクが。右側の隣には、同じく馬に乗ったバロンが。それぞれぴったり付くように位置して行軍することに。
狙われていたのがバクであった以上、これは完全に勘違いをした位置関係である。しかし周辺の警戒が一段、いや二段も三段も厳しくなったため、しばらく同じような襲撃を食らう可能性は低いだろう。私は特に異議を唱えることもなく、礼を言って受け入れた。
「完全にお姫様だな」
青髪の少年・シンがそれを見て、やや呆れたように言う。
狼人族には『姫』という地位がなく、創作物にも使われることはない。ただ、こちらに来てから覚えた語彙の中には一応入っている。シンの言葉が比喩であるということもわかるし、その比喩をよい意味で使ってはいないということもわかる。
馬上で、私の体のすぐ前に収まっていたペンギンが、異様に回る首を後ろに向けて「何か言われておるぞ」とつぶやく。
私自身は、シンの言葉に同意だった。あまりにも過保護すぎる。