帝国軍が敗れてから、私は城の外に出る仕事を振られることがなくなっていた。
「しばらくあなたにはバク様の心身を癒すことに専念していただきます」
執事長からはそう言われた
もともと城の召使が城外でおこなう仕事は多くないわけだが、まったく外に出なくなったため、帝都の様子がどうなっているのかがわからなかった。
帝都の民にも、久々の敗戦で動揺があるものと思われる。が、見張りの塔を掃除するときに遠目で見る程度では、雰囲気まで感じ取るのはなかなか難しい。
もっとも、私はすでに帝都の空気を感じ取って族長に報告する必要がない立場となっているとも言える。もはや気にする必要はないのかもしれない。
密偵として残された最後の仕事……できれば考えることすら忌避したいその仕事については、族長からは急かす連絡が来るわけでもなく、そのまま何日も過ぎた。
族長はもう各種族との外交を始めているとのことだったので、忙しいのだろう。
バクも相変わらず訓練をしている。
回復魔法は毎日かけているものの、怪我は治癒しても心身の疲労までは治癒しないはずである。
まだ戦の疲労が抜けきっていないので危険では? と本人に進言してみたが、例によって私の言葉は逆効果だった。それに焦ったのか、ますますの猛訓練となってしまっているようだ。
どうやらあまり余計なことは言わないほうがよいと判断し、私はバクの負担を少しでも減らすべく、ペンギン親子の世話をいったんすべて引き受けることにした。
事件は、そのペンギン親子の世話をしているとき――散歩のため久々に城外へ出たときに、起こった。
子が生まれる前から、ペンギンの散歩はおこなっていた。
付き添いは基本的に私かバクがおこなっており、どちらも不在の場合には宮廷賢者のハンサが引き受けてくれていた。
散歩の場所は、いつも城の中庭。
しかし今回に限っては、私がしばらく城外に出ていなかったため、よい機会だと思い外に出てみた。
ペンギンを城で飼っているというお触書および、彼女の姿を周知させるための絵は出回っている。よって連れ出しは禁止されていない。帝都民の希望があれば城の庭でお披露目会を開いていたくらいである。
その判断が、よくなかったのかもしれない。
帝都の空気は、さすがにやや消沈気味で、重く、湿っぽく感じられた。以前ほどの活気はなく、道行く人々の表情もどこか硬いような気がした。
ただこれも、空が曇っているせいかもしれず。人間族の街の空気の機微が自分にも感じ取れるという前提の感想も、これまた思い上がりなのかもしれない。
そんなことを考えながら街の大通りを進み、大神殿前の広場に行く。
するとすぐに、今度は確実に気のせいではないだろうという異変に気づいた。
「……」
すれ違う民や、立ち止まっている民から、妙に視線を感じるのである。
ペンギンの姿を生で見るのが初めてという人もいるからだろうか?
やや短い手を広げながら独特のペタペタ歩きで進むペンギン。
そして『一号』と名付けられた小さなオスの子は、後ろをぴったりとついている。 黒い頭・白い顔・体は灰色という、母親とはまた違う配色の体で、同じくペタペタと歩いていた。
「成人すると私と同じ色になるのではないか?」
ペンギンはそう言っていたが、本当にそうなるのかは今のところ誰にもわからない。
あらためてこの母子の歩く様を見ると、大変に愛くるしいものがある。
注目は集めても当然であると思っている。
ただ……。
今周囲から感じている視線は、あまり好意的ではなく、何やら刺さるような感覚さえあった。
これはもしや。帝都民が見ているのは、ペンギンではなく――?
「ケイよ。どうした」
広場にて、噴水の前で立ち止まった私を不審に思ったのか、ペンギンが声をかけてきた。
子のほうはペンギンいわく「まだ言葉を話せないのか、そもそも話せないか、どちらかはわからぬ」とのことであり、首を動かして母親のほうに顔を向けただけだ。
「いえ、なんでもありま――」
「その銀髪。お前は召使のケイだな」
やや遠いその声。
見ると、数名の見知らぬ男性が立っており、こちらを向いて立っていた。
そのうちの一人の中年男性は両手で何かを丸めると……
……投げてきた。
「……!」
硬いものや重いものではなさそうなので、私は避けなかった。
それは私の体に当たり、石畳の上に落ち、転がっていく。紙のごみと思われるものだった。
「お前だな。バク様を
どういう意味でしょうか?
そう尋ねようと思った。しかし、その前に他の男性も次々に口を開いてきた。
「色仕掛けでバク様を骨抜きにしたんだろ」
「とんでもない奴だ」
「貴様のせいで負け戦だ」
……。
意味を理解するのに少々の時間を要したが、なるほどそういうことかと思った。
違います、と言い返す気にはならなかった。思う気にもならなかった。噂の内容はともかくとして、根源に私の行いがあるのは間違いと思ったから。
一緒にごみを投げつけてくる者が一人、二人と増えていく。私たちは噴水を背に半円状に囲まれているような状態になってしまった。
「おいこら! 何をする!」
ペンギンが声をあげるが、とまらない。
最前列の帝都民は、なおも物を投げてくる。
「――!」
「ケイ! 大丈夫か」
頭への鈍い衝撃。下からペンギンの心配する声が聞こえる。
ついに石が飛んできたのだろうか。
ここは掃除が行き届いている場所。小石しか落ちていないと思われるものの、私は念のためにすぐペンギンを背後に隠した。
飛んでくる物は止まらなかった。
さらに、投げないまでも罵声を浴びせてくる者がわらわらと現れ、私たちはまたたくまに数十名と思われる帝都民たちにびっしりと囲まれてしまった。
「お前がバク様をだめにした張本人という話だぞ」
「医務室に忍び込んで、気絶していたバク様を膝枕していたそうだな?」
「召使ごときが足を引っ張るな」
そのような噂が帝都に流れていたということは知らなかった。
ただ、私がバクの回復係として近くにいたということは事実であり、それを知っている帝都民も多くいる。この展開も、いざ直面してみると、ある意味当然の帰結なのかもしれないと思った。
膝枕がとうとう何者かに目撃されてしまっていたということは意外だったが、重傷のバクが帰還して医務室に運んだときは私も通常の精神状態ではなかった。あのとき誰かに覗かれていたとしても気づかなかっただろう。
場を収めるすべを、私は知らなかった。
考えようとも思わなかった。逃げようとも思わなかった。ただただその場に立っていた。
それもまた、いけなかったのかもしれない。
「ちょっと通して!!」
しばらくすると、帝都民の後ろからおなじみの声がした。
私を取り囲む半円が割れていく。
慌ててやってきたのは、やはりバクだった。
「あっ、ケイ……って、血が!!」
私は銀髪であり、肌の色も白い。
すぐに流血がわかったのか、バクが慌てている。
ちょうどバクに指摘されたと同時に、生温かいものが、こめかみから頬、そして顎を伝って垂れてきた。
それを、右の手のひらで受ける。
一滴、二滴。当然だが赤い。
「バク。なぜここに?」
「いや、ケイが外に出ていったって聞いて……大丈夫!? 痛くない!?」
「これは……あなたが戦場で受けた痛みの、何万分の一ですかね」
「いやいや何言ってるの!? ええと、早く城に行って、手当てしないと!」
大慌てのバク。
そこに、帝都民から次々と声がかけられる。
「バク様。悪いことは言わん。その召使は早めに切るべきだ」
「そうだ。百害あって一利なしだ」
「排除しないとまた負けるぞ」
ああ、これもまずい。そう思う。
きっと、彼のことだから――。
「みんな、違うんだ。今回の負けにケイは関係ないんだ。ただの俺の力不足! それだけ! 勘違いしないで!」
そうだ。彼はそういう人。
そしてその考え方は、後がない彼にとって、さらなる重圧となってしまうだろう。
「だが他に原因が考えられないぞ、バク様」
「次の戦は絶対に勝つから! だからみんな、こういうことはやめて! みんな不安になるのはわかるけど、俺を信じて! お願い!」
やはり。
悪い流れは止まりそうにない。
さすがにバクの頼みは無視できないのか、帝都民は散っていく。
ただ、ある者は首をひねり、ある者は懐疑的な表情を隠そうとせず。
不敗が崩れ、バクに対する絶対的な信頼も揺らごうとしているのだろうか。