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第52話「生まれてこのかた、こんなに驚いたことはない」

「アアアアアアアアアアアアッ!!」


 その咆哮は、もはや完全に獣のものだった。

 吠えながら、バクが伏せた顔を持ち上げた。


 ……。


 今までの人生、こんなに驚いたことはないかもしれない。

 変化後の彼の姿……。

 それは、紛れもなく狼人族のものだった。


 顔を見ると、バクだということはわかる。

 ただ、狼の耳があり、尻尾があり、独特の体毛があり。咆哮で大きく開いた口からは、人間よりも発達気味の犬歯が見えた。


 真っ黒な毛一色の狼人族。

 私の狼人族姿が持つ銀色一色と同様、珍しいながらも存在はしている。まさにそれだった。


「ハァ……ハァ……」


 彼は荒い呼吸をしながら、黒い瞳を巨体の爬虫人へと向けた。

 焦点は合っているのだろうか? そう思うほど、彼の瞳は異様な光を放ったままだった。自我を保っているのかどうかも怪しい雰囲気だ。


 そして。


「ハアアアア――」


 彼は声をあげながら、猛然と巨体の爬虫人へと突っ込んでいった。

 剣も持っていない。素手だ。

 しかしその動きから、全身から尋常ではない力が溢れ出ているように見えた。


「ウオオアッ!」


 速い。かつ力強い。

 巨体の爬虫人が大剣を構え直すのも間に合わないほどだった。

 懐に潜り込むと、狼人族と思われる姿となったバクが、太い下腿を両手でつかみ、力強く持ち上げ、放り投げる。

 どちらかというと普段は非力な印象のあるバクからは、とても考えられないことだった。


 放り投げられた巨体は、このやや開けた場所の周りにある木の一つに、大きな音を立ててぶつかった。

 巨体の爬虫人は受け身を取ることすら許されず、体中を強打し、前のめりに倒れた。同時に、当たった木の幹はその衝撃に耐えかね、ゆっくりと後ろに倒壊していく。


 巨体の爬虫人は完全に意識を失ってはいないものの、まったく動けなくなった。

 バクはすぐに異様な筋肉の爬虫人のほうにも向かい、殴り飛ばし、木の幹へとめり込ませた。やはり一撃で動けなくなる。


「ハァ……ハァ……」


 敵がいなくなり、荒く息をしながら周りを見回すバク。

 深い森の中ゆえ、戦争というよりは部隊戦や個人戦の様相を呈していたが、あくまでもここは戦場。敵が新たに現れる可能性はある。


 来た。

 数名の爬虫人が現れた。異形部隊の者ではない。通常の爬虫人戦士だ。


「あっ、異形の村の者たちが!? なぜ……ヒエッ!!」


 新たな敵たちは、全滅状態の異形部隊と、そしてバクの異様な姿を見ると、一目散に逃げだした。


「異形の村の戦士たちが敗れた!」


 そんな叫びを皮切りに、無数の叫びや号令が付近から聞こえ始めた。

 それはだんだん遠くなり、深い森の中の開けた場所であるここへ、ふたたび大きくなった喧騒として耳に入ってくるようになった。


 地響きのようなものも聞こえだした。無数の足音が集合した独特な音だ。

 オーク族と爬虫人族が砦に引き上げていくのだろうか。


 そんなことを思っていたら、この場所にも、撤退途中と思われるオークが紛れ込んできた。


「うわあっ!」


 そして足を高速回転させて消えていく。

 無理もないと思う。


 このやや開けた場所で、前回の勝ち戦の立役者とされる異形爬虫人たちが、無残な姿で全員横たわっているのである。

 しかも中央では、荒く息をしながら我を失ったような獰猛な瞳で、四方を見回し続けている狼人族姿のバク。

 相当に衝撃的な景色なのだろう。


 周りでも、バクの部下たちが、ある者は座り込んだまま、ある者は寝たままで、まるで私の故郷の地で見られる氷漬け針葉樹のように固まっていた。


 やがて、帝都の城の訓練場で聞いた覚えのある角笛の音が聞こえてきた。

 どうやら、人間側も前線基地まで一時撤退することを決めたようだ。


 バクの部隊は軍の先頭に位置していたはずなので、人間がこの場所を通りそうな気配はない。

 オークや爬虫人の気配も、急速に消えていく。

 徐々にこの空間は静かになっていった。


 私はただ、目の前の光景を見つめていた。

 混乱して、ではない。

 逆だった。


 驚きの感情が薄れたわけではない。

 しかし同時に、バクと出会ったころから抱いており、今もなお残っていた違和感……腑に落ちない思いが、ようやくスッと解消されていくような、そんな気がしていた。


 私の脳の揺れは落ち着いてきた。

 痛みは感じているが、致命傷になるような傷などはないだろう。

 立ち上がり、彼に話しかけた。


「バク。私のことがわかりますか」


 彼は私の目を見ると、体をビクンとさせた。ハッと我に返ったようだった。 


「あれ? ケイ? ……あっ! 大丈夫だった!? ケガはない?」


 そのままの姿で、私の前に飛んでくる彼。

 その黒い瞳からは、すでに獰猛どうもうな光は発せられていなかった。


「私は大丈夫です」

「あー! よかった! みんなも大丈夫!?」


 見回しながら、バクは部下たちに声をかけた。

 まだ唖然としており、固まったままの部下たち。彼らを代表するように、赤髪の大男・バロンが答えた。


「まあ、なんとか大丈夫なんだが……」

「よかった!」

「いや、それより、バク様、その姿――」

「えっ?」


 バロンの太い指がバクの体を示す。

 そこでバクは初めて気づいたようだ。


「あれ? えっ? な、なんだこれ……」


 部下たちが全員見ている中、バクは自身の手、腕を見て、急に慌てだした。

 顔を触り、耳を触り。さらには、すでにボロボロだった服のお尻の部分から突き破って生えている黒狼の尻尾を見る。


「バロン。俺の顔は? どう見える!?」

「どうって、バク様だというのはいちおう・・・・わかるんだが……」


 バクはなおも、自分の体を見て、触る。

 しかし、やがて現実を認めたのであろう。


「あー、もしかして……そういうことだったのかな……まいったな……」


 そう言って、がっくりと肩を落とした。

 そして、遠くから新たな声が聞こえた。


「バク様――!」


 他の部隊の人間とおぼしき声だった。一人だけではないようだ。しかも近づいてくる。

 前回の戦のときもそうだったらしいが、危険を伴うにもかかわらず、ケガ人の撤収の手伝いに来てくれたのだ。


 バクはその声を聞くと……。

 私を含め、この場にいる全員に対し、視線を巡らせた。


「俺はもう戻れないよ……。みんな、今までありがとう。元気でね」


 ゆっくりと、歩き出す。

 その方向は、今しがた聞こえてきた声の方向ではなかった。


「どこに行くんだ」


 背中にバロンの声がかかると、バクはいったん立ち止まった。少しだけ振り返りながら、片手を振る。

 そして今度は走り出し、この開けた場所から姿を消した。


 バクの部下たちも、ハンサも、満身創痍。追いかけられない。


 しかし、私は動くことができる。

 否、私たち・・は動くことができる。


「召使……さん……?」


 青髪の少年・シンの声がする。

 私は、彼や他の者たちに一礼すると、すぐに後を追った。


 後ろには、小さな足音が二つ続いた。

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