バクは、意外と遠くまで行っていた。
なんとなく彼がひねくれた進み方をするとは思わなかったので、私もまっすぐに追いかけた。
そうしたら、いた。
森を抜けてすぐのところ、ゆるやかに流れている小さな川のほとり。
彼は人間ではない姿のままだった。
水際で、しゃがんだまま、いつのまにか赤くなっていた西の空を見つめていた。
「バク」
後ろから声をかけると、彼は立ち上がり、振り返った。
一瞬驚いた顔はしたが、すぐに寂しそうに微笑んだ。
しばらく彼はそのまま沈黙していたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「いやあ、なんかさ。俺、初めて戦に参加したとき、急に体が軽くなって、いつもよりも速く動けて、いつもより大きな力が出たんだ。まぐれかなってずっと思ってたけど……こういうことだったみたいだ」
おそらく、それはそのとおりなのだろうと思う。
彼の初陣、救国の英雄という称号を下賜されるきっかけとなった戦い。彼はそこで、単身敵陣に突入して敵将を倒したという。
彼の戦闘技術でどうやってそれをやってのけたのか。私が見る限りでは、今までまったく想像ができなかった。
しかしここにきて、やっと納得のいく答えを得た。
そのときも本人が気づいていなかっただけで、今の姿になっていたのだろう。
また、彼に私以外の回復魔法が効きづらかった理由。それについても、こういうことであれば納得はできないこともない。精査しないとなんとも言えないが、人間族から狼人族へは回復魔法が効きづらいなどの傾向があるのかもしれない。
違和感が何も残らないわけではない。
新たに生じた謎もある。
たとえば、私は人間の姿と狼人族の姿とで身体能力が大幅に変わることはない。なのに、バクは狼人族の姿になると身体機能が上がっている雰囲気があった。それは不思議である。
バクは若すぎてまだ線が細く、体ができていなかった。人間族より狼人族のほうが体ができあがるまでの時間が若干早いと聞いたことはあるため、そのあたりが関係しているのかもしれないが、あくまでも仮説にすぎない。
そして何よりも大きな謎は、彼はいったい何者なのか? ということである。
「あはは……。びっくりしたよね。どうなってるんだろ、俺」
彼は演技できるほど器用な性格ではないと思う。
この雰囲気、本人も自分が何者なのかわかっていない可能性が高そうだ。
「どう見ても、普通じゃないよなあ。俺」
言い方が疑問形ではない気もしたが、私は答えた。
「今のあなたの容姿は狼人族のように見えます。狼人族の体毛は灰色や茶色がほとんどのはずですが、それ以外の色もありえないわけではありません。真っ黒な個体もいます」
「狼人族……ずっと南の山に住んでる種族だったよね? 俺、やっぱり人間じゃなかったってことか……。うーん、俺、そんなところで生まれてたのかなあ」
彼に聞かなければならないことがある。
その答えによって、新たに発生した謎についてもある程度は推測が可能になりそうだ。
「一つ、お聞きしたいです。あなたは断片的にでも前世の記憶があるわけではないですよね?」
「へっ? いや、全然ないよ? 普通はないよね?」
この回答で、だいぶ可能性は高くなったと思う。
「なるほど。あなたはおそらく、完全に人間ではないというわけではなさそうです」
「えええ? どういうこと?」
「人間でないのに、ずっと人間の姿だったというのはおかしいですから」
「……あ、そう言われればそうか」
「私の推測でしかありませんが、混ざっているのでは」
「えぇ!? それって、親のどっちかが実は狼人族だったとか?」
「それくらいしか説明がつかないように思います」
彼が幼少の頃に両親と別れているというのは聞いている。その片方が、実は狼人族、またはその血を引く者。今わかっている要素で考えると、その可能性が高そうではある。
「そっか。俺、混ざってるんだ」
バクがふたたびしゃがみこみ、水面を見ている。
流れがよどんでいるので、顔が映るようだ。
「やっぱコレ、まずいよなあ」
彼は、うーん、としばらく唸る。
そして。
「ま、でも、そうならしょうがないよね。うん」
人間の姿のときに比べれば少し盛り上がっている肩が、さらに少し上がり、そして大きく落ちた。ため息をついたか。
「これから、どうするつもりですか」
その問いに、彼は立ち上がって私のほうに向き直った。
「どこかに、行くよ……」
「どこかに、ですか」
「うん。もうこの姿を見られてるし、国に戻ったらいろんな人に迷惑かけちゃう。それだけは絶対嫌だ」
たしかに、噂などあっという間に広がる。バクの狼人族姿は敵側の者も見てしまっているため、部下全員に
ヴィゼルツ帝国において、捕虜にした他種族を奴隷として使っている軍事拠点や街もないわけではない。が、やはり馴染みはないため、恐怖感を覚える民は多いことだろう。しかもバクは他ならぬ国の英雄様。「実は人間ではありませんでした」は大事件となることは免れない。
このまま帝都の城には戻らないという選択肢を取れば、宰相や宮廷賢者たちが都合のよい処置や解釈を考えることができる。彼ができるだけ帝国に迷惑をかけないことを望むのであれば、それもやむなしなのだろうか。
バクは、私のほうに歩いてきた。
「ケイと一緒にいられなくなるのも、みんなに会えなくなるのも寂しいけど。さよならだね。今までホントにありがとう」
長い影を伸ばしながら、横を、ゆっくり通り過ぎていく。
私が、その後をついていく。
彼がチラッと後ろを見て、二度見する。
「いやいやいや! 何ついてこようとしてるの!?」
「……私も関係を切られてしまうのでしょうか」
「いや、切るとかそういう偉そうなやつじゃなくて……ええと、だって、ダメでしょ!? ケイはお城の召使なんだから! 今だって、ここでこの姿の俺と話しているのを目撃されたら絶対まずいよね!? 撤退命令が出てたと思うから、すぐ戻った方がいいよ! というか、よくここまで追いかけてきたね!? ヤバいでしょ俺のこの姿! ホラ! 怖いでしょ!?」
「怖い……ですか」
「そうそう! でしょ?」
「なるほど」
両手を広げ珍しく自虐的にまくしたてる彼を見て、迷いはなくなった。
私はもう、何もかもを見せ、言ってしまうべきだと思った。
今ここで、というのは、バクに対しては非常にずるい行為なのかもしれないという自覚はある。そして族長に対しては重大な背信行為であることも承知の上だ。
だがそれでも、今そうすべきだと思った。
いや、そうしなければならないと思った。
「では、ご覧ください」
「……!?」
私の体の変化に、バクが目を見開く。
「ぁ……ぇ……!?」
久々に私は、狼人族の姿になった。
私のそれは銀色の体毛。召使の服はゆとりがあるため、尻尾は見えない。が、人間でないことは一目瞭然であるはずだ。
「どうですか。怖いですか」
「いや、怖くはないというか、なんかすっごいきれいだし……これはこれでめっちゃくちゃ好み……じゃないや! 何!? どうなってるの!? どういうこと!?」
今の私に、彼の目をしっかり見ることはできるだろうか。その不安はあった。
いちおう、できた。
「私は純血の狼人族です。族長の命を受け、人間族の動向を探るためにヴィゼルツ帝国に送り込まれていました」