体なら毎日洗っているのにどういうことだと、俺は不思議に思った。
ヘルレアサの丘に連れてこられた当初、俺は他の子供たちと一緒に大きな浴場で体を洗うようにいわれた。でもフィシスの部屋で寝起きするようになってからというものは、続き部屋の湯桶を使って毎日清潔にしておくよう命じられた。
フィシスの部屋には導管で湯や水が送られるようになっている。レバーを押すだけでいつでも湯が汲めるのだ。
近ごろになって俺はやっと、同じように雑用をしている下働きの少年や女たちからすこし話をしてもらえるようになった。浴場や厨房はともかくとして、個室でこんな設備を使えるのは高位の神官数人だけだそうだ。
つまりフィシスは神官の中でも特別な地位にある。そもそも大神殿に居室があることがその証で、高位の者しか大神殿には住めないらしい。
ほとんどの神官をはじめ、大神殿で働く者たちはヘルレアサの丘の北側に散らばる建物に住んでいる。異能を見出されて各地から大神殿へやってきた子供たちも、大神殿の大きな部屋にいるのは最初のうちだけで、神官修習生の誓いを立てるとまもなく丘の北側へ移るのだ。
それなのに誓いどころかそのうち出ていくつもりの俺は、いまだにフィシスの部屋にある、もうひとつのベッドで寝起きしている。どう見たって召使が使うベッドじゃないから、いったい誰がこのベッドを使っていたのかが気になってたまらないが、フィシスはあからさまに答えるのを拒否した。神殿の連中が――下働きも含めて――俺になかなか話しかけようとしなかったのも、フィシスの態度に関係があるらしい。
やっぱり俺には、フィシスが何を考えているのかわからないままだ。
螺旋階段はあいかわらず、俺とフィシスが一段下りるたびにふらふら揺れた。でも下へ行くにしたがって、階段を形づくる白い木は、世界樹の幹をつたう緑の蔦に覆われていき、最後の段へたどりついた時には、足もと以外はすべて緑色になってしまった。
螺旋階段の終点まで来たからといって、地面にたどりついたわけではない。世界樹の幹はずっと下まで続いている。いったいフィシスはどこに行こうと――
俺は自分が見たものが信じられなくて、その場に立ち止まった。
階段の先に、洞窟のような入口がぽっかり開いていたのだ。奥にひとすじ、陽の光がさしこんでいる。
「ぽかんとするな。こっちだ」
フィシスの声が聞こえたが、俺はまだぼうっとしていた。
――これは世界樹の
気づいたとたん、さっきまでのためらいはあとかたもなく消し飛んでしまった。フィシスは俺を呆れた顔でじろりと見て、頭をすこしかがめて中に入った。俺もいそいそと彼に続いた。
洞の内側には湿った水の匂いにまじって、ほんのり甘いような、不思議な香りが漂っている。コポコポと水が湧き出る音が聞こえ、俺は父親が掘った井戸のことを思い出した。
「ユーリ」
フィシスが俺を呼び、俺は自分がまた、ぼうっとその場に突っ立っていたのに気づいた。頭が軽くふわふわした気分で、時間の感覚が消えていたのだ。とてもいい夢を見ているときみたいに。
フィシスが俺の肩をバシンと叩いた。びっくりして俺は我に返った。
「……この場所は思ったよりおまえに効くようだな」
「……え?」
「何でもない。沐浴をすませるぞ。服を脱ぎなさい」
フィシスの言葉はちゃんと聞こえているのに、俺の頭はぼうっとしすぎていて、体がついてこなかった。心が軽く、ずっと忘れていた明るい気持ちが胸の奥からこみあげてくる。
フィシスは業を煮やしたように俺の胴着に手をかけ、脱がせようとした。
「あの泉にゆっくり、腰まで浸かって……」
泉。あの水が湧き出るところだ。あそこに浸かる?
俺はクスクス笑いながらフィシスの手を跳ねのけ、放り出すように胴着を脱いだ。下着まで脱ぎ捨てて、飛び跳ねるように洞の奥へ走る。
「こら、待ちなさい、そこはすべりやす――」
フィシスの声が聞こえたときはもう遅かった。
バッチャーン!
俺は頭からずぶぬれになって、泉の底にぺたんと尻をつけていた。髪から不思議な味のする水が垂れてきて、俺は思わず口をあけ、ごくりと飲みこんだ。洞を満たしている不思議な香りが鼻の奥を突き抜ける。
「ユーリ! 大丈夫か?」
「あ、うん?」
つい今しがたの、白昼夢を見ているようなぼうっとした気分は消え去っていた。頭の中が澄み渡って、洞の中がすみからすみまでくっきりとあざやかに見える。泉に浸かった体のあちこちが急に軽くなったように感じて、俺はハッとして自分の体を見下ろした。
痛くない。
シャロヴィにいたあいだ、ひどい扱いを受けるうちに鈍い痛みが消えなくなって、それが当たり前になっていたところ。あちこちにあったのに、今はまったく痛くない。
「すごい! フィシス、いったい何が起きたんだ? すごく軽い、どこも痛くない!」
俺は叫びながら腕をふったが、フィシスのこわばった表情にハッと口をつぐんだ。フィシスはせかせかと俺の服を拾いあげると洞の隅にしつらえられた棚に押しこんだ。
「ユーリ……おまえの魂は」
ふりむいて何かいいかけたが、途中で口をつぐんでしまう。
「俺の魂が何?」
「……いや、魂の話は早すぎたと思っただけだ。それよりわたしは、おまえがここへ来たいきさつを詳しく聞くべきだった」
つまりそれは、村の境界に出た魔物の話をしろってことか? そんなのは――
「嫌だ」
俺はきっぱりと首をふった。
「あんたには関係ないことだ」